猩猩〜蜜井戸(みいど)の壺
日暮奈津子
第1話
高風(こうふう)は客の顔を見ていた。
揚子(ようず)の里に立つ市は、酒と食事を求める近在の者たちが大勢訪れ、夜もすがら賑わいが絶えないが、それでも深更を過ぎており、彼の屋台で酒を飲んでいるのは、その客が最後だった。
ーー今日も、最後だ。
毎夜、酒を商う自分の屋台には多くの客が訪れるが、高風はそのすべての顔を覚えていた。
商売人として、贔屓の客の顔と好みの酒肴を覚えるのは欠かせぬ技量であり、それが己の生業(なりわい)を成功に導いてきたことを高風は理解していた。
だが。
いつの頃からかよく来るようになったその客は、いつもようやく日が傾きかけて高風の屋台が開くか開かぬかのうちからやってきては、酒盃を重ね、帰ってゆくのは一番最後だった。
ーーそれなのに。
先ほど帰っていった他の客の盃と皿を下げる。
自然、高風の目が最後に一人残った客の顔から逸れた。
そうして再び、見る。
同じ顔だった。
「何ぞ」
客が、高風に向かって声を発した。
「儂の顔が、どうしたかいな」
「いや」
ぎくり、と、高風の背に驚きが走った。
だが、彼はそれを客に気づかれぬよう、酒壺に手を伸ばすと新たな酒を客の盃に注いだ。
「全く、お変わりにならんので」
「なんぞな。顔なぞ、ふた時み時の間に変わるものでもなかろうの」
「……そうではなくて」
酒壺を置き、甕(かめ)の水で絞った布巾で卓の上をぬぐう。
再度、自然をよそおって視線を落とし。
もう一度。
高風の正面に座っている客の顔を、見返した。
その奇特に際立つ顔つきは、しかし高風ほどには他人の顔を覚えるのが得手でない者であっても、すぐに見分けがついただろう。
ころりと丸い目が、高風を見ている。
瞼は、薄い。
いや、ほぼ瞼らしきものはないようにも見える。
大きく見開かれてほとんど瞬きをしない二つの目は顔の中心からそれぞれ右と左にだいぶん離れてついていて、普通の人間よりも魚か蛙を思わせた。
鼻は低く、そのくせ、小さな鼻の穴だけが妙に目立つ。
両の口角は上がっていて、常に上機嫌な笑みを浮かべているように見える。
耳慣れない訛りで話す声は、やや嗄(しわが)れている。
ぼさぼさとした赤毛は、だが豊かに客の頭を包んで伸びている。
その髪がとりまく客の顔も、日に焼けたような茶色味を帯びて赤らんでいる。
だが、その色が。
ーー変わらぬ。
客の前に置かれている大ぶりの酒壺は四つめだった。
高風の店で扱う酒の中でも一番強い。
それなのに、客の赤茶けた顔色は、夕刻にこの屋台に来た時とまったく変わってはいなかった。
「随分と、お強いようで」
もう一度酒壺を取り上げ、客の持つ盃を満たす。
「……これだけ飲んでも全く、お顔の色がお変わりにならんので」
「まあ、そうさな。……地上の酒だしの」
なみなみと注がれた酒盃の水面に、客は目を落とす。
「ここいらの酒で、儂らの顔色を赤らしめることはあるまいての」
「……それは」
何事かを含んだかのような客の言葉に、高風は戸惑った。
「なに、文句を言うておるのではないよ。ご亭主の酒はいつも、実に旨い。そうでのうて、なんでこう足繁(あししげ)く通うかの」
答えに詰まった高風に、だが、客はふくふくと笑って見せた。
「ここは、良い店よ。いつも賑わっておっての。だが、儂もこの揚子の市にはよく来ておったが、いつの間に、こんな良い屋台ができたのかと、の」
「もとは屋台ではなかったのです」
高風は酒壺を置いた。
「以前は、小さな飯屋をやっておりまして。……ですが、ふた親が病いで」
相次いで倒れた両親の看病をしながらでは商いは続けられず、そうした日々が長引くうちに医者代と薬代を工面するには店を手放すほかはなくなった。
そして、それでも、両親は助からなかった。
高風に残されたのは、小さな墓が二つと、少なからぬ借金だった。
「……それが、ある夜に」
黙って聞く客に、高風は思わず語り続けていた。
ある夜、夢を見た。
夢の中で高風は小さな子供だった。
ただ一人、町の大通りで立ち尽くしていた。
どうやら迷子になったようだ。
周りは大勢の大人がいたが知らぬ顔ばかりで、高風には目もくれず、足早に去ってゆくばかりだ。
心細くなり、涙がこぼれた。
身も心もひとりぼっちの子供にかえって、彼は声を上げて泣いた。
そのとき、人混みの中から手が伸びて、高風の手を引いた。
右手と左手を、それぞれ別々の誰かが手をつないでいる。
そうして二人して一緒になって、高風をどこかへ連れて行こうとする。
だが、その人物は二人とも、どんなに目を凝らしてもぼんやりとした白い影のようにしか見えず、顔も体つきもはっきりしない。
されるがままに、高風は二人の人物に導かれて歩いていった。
町にはたくさんの店や屋台が出ていて、大勢の客で賑わっている。
なぜかそれが高風には、子供の頃に両親に連れられてやってきた揚子の里の市だとはっきりわかった。
やがて二人の白い影は足を止め、高風の前に立った。
二人並んで手を伸ばし、市に立つ一軒の屋台を指差す。
子供の姿の高風はそちらを見た。
酒を売る屋台のようだった。
売り買いする人々が大勢行き交う市の中でも、一際多くの客が出入りしている。
屋台の前に据えられた木の椅子には何人もの客が並んで座り、酒を酌み交わしながらにぎやかに談笑している。
家に持ち帰って飲むつもりなのか、大きな酒壺を買い求め、手にぶら下げて帰る客もいる。
席が空いたかと思っても、またすぐに新しい客がその座を占める。
それらの客たちの向こうに、屋台の内側で働いている男が一人いる。
高風は目を見張った。
そこにいるのは、大人の姿になった高風だった。
客たちの注文を受けて酒や食べ物を出し、皿を片付け、勘定をし、帰ってゆく客に頭を下げて見送る。
忙しく働くその高風の顔は、かつて両親とともに飯屋を切り盛りしていた時と同じ、働いて稼ぐ喜びに満ちていた。
揚子の市の通りからそれを見ている高風も、いつしか屋台で働く高風と同じ大人の身体になっていた。
高風を連れてきた二人の白い人影は、もうどこにもいなかった。
夜明けとともに目覚めた高風は、手元に残ったわずかな銭をかき集め、足りない金は借し主に無理を言って借り受け、揚子の市に小さな屋台を手に入れた。
飯屋をやっていた頃の両親と、夢で見た自分の姿を思い返しながら酒と肴を商ううちに、店はだんだんと馴染みの客たちで賑わうようになり、いつしか借金も綺麗に返し終えていた。
高風が語り終えても客は少しの間、何も言わなかった。
やがて酒壺を手に取ると、客は黙ったまま高風の方へと傾けた。
「……あ」
卓の下から自分の酒器を出し、高風は盃を受けた。
他の客からそうして酒を勧められることはこれまでも何度かあったが、この客からは初めてだった。
ーーそもそも、こうして言葉を交わすのが初めてではないだろうか。
礼を言い、注がれた酒を気をつけてすする。
やや甘口の強い酒が高風の咽(のど)を流れ落ちる。
胃の腑へたどり着いて、内側から彼の身体をほんのりと温める。
ぽつりと、心魂に火が灯る。
ーー旨い。
そのまま続けざまに、ふた口、み口と傾け、盃を干した。
高風が手を尽くして探した中でも一番の強い酒であることは判っていたが、しかし、思いの外(ほか)その強さを感じないことに些(いささ)かの驚きがあった。
ーーそれほど良い酒、ということもあろうが。
自分はこれほど酒に強い身体であったろうか。
吐息と共に濃い酒気が高風の口から立ち昇り、夜気の中で白い靄(もや)になる。
その様(さま)を、客はしばし黙って見ていた。
やがて客も自らの盃にーー代わって酌をしようとする高風を手で押し留めてーー酒を注ぎ、くいと一口に飲み干した。
それで、壺が空いた。
「……ふむ……」
小さな鼻の穴から酒精混じりの息を漏らして、客は高風に言った。
「明日、儂ら猩猩(しょうじょう)の酒を飲みに来ぬか」
「え?」
空(から)の盃から目を上げ、高風は客の顔を見た。
卓に空の酒壺を置いた客は、やや上目遣いに、だが懐っこい丸い目で高風を見返している。
「汲めども尽きぬ、蜜井戸(みいど)の壺酒よ」
猩猩、と名乗った客は、古い謡(うた)のように低く枯れた声を響かせて言った。
「飯妻(いいづま)の津のはるか沖、海の底に棲まう儂ら猩猩の酒をーー」
* * *
古びた石造りの桟橋の突端で、高風は焚き火を起こした。
飯妻の津に夕暮れが迫る。
いつもなら市場で屋台を開く準備に忙しい頃合いだった。
昼間のうちに客用の酒を仕入れ、肴の仕込みをする代わりに、高風は自分と猩猩のための酒を持って飯妻の津に向かった。
かつては潯陽(じんよう)の江との交易で賑わった港だったと聞いたが、今は桟橋がひとつ残るだけで、一艘の船もない。
人影も、ない。
夕闇の迫る中、酒にはまだ手をつけず、紙袋に入れて店から持ってきた炒り豆を少しずつかじる。
猩猩の客が気に入っている酒のあてだ。
そうして待った。
ゆるゆると、海の上の空は赤い夕焼けの色に変わっていく。
まるでそれが、猩猩と名乗った客の赤らんだ顔と髪の色のように高風には思えた。
その夕空の赤が淡い茜色へとうつり、ほの昏(ぐら)い薄紫に変わるころに。
ちらりと波間に赤い何かがのぞいた。
高風は目を凝らす。
日没近い海面に、夕陽よりも赤いものがわずかに見えた。
ーーあれは……。
立ち上がり、見つめる。
波の下に見え隠れしながら、何かがこちらへ近づいてくるようだ。
だが、それは。
ーー早い。
水脈(みお)のようなうねりが、こちらへと迫ってくる。
それが海中を泳いでやって来ているのだとしたら、さながら鮫か何かのように極めて泳ぎに長けた生き物だとしか思えなかった。
それは夕陽を映す波を越え、みるみるうちに高風の待つ桟橋の下にやってきた。
ざっと大きな水音を立てて波間から長い腕が伸びる。
桟橋の縁(へり)をぺたりと掴んだ手の指の間に水かきが付いているのに、高風はそのとき初めて気づいた。
その両手にうんと力をこめると、赤い髪の猩猩は身軽に桟橋の上に体を引き上げた。
首筋に並ぶ鰓(えら)が一度だけぱくりと開いたが、閉じると皺(しわ)に紛れて見えなくなってしまった。
「……本当に」
「うん? ああ」
ーー本当に、海からやってきた。
ゆうべ聞かされた、海の底に棲む猩猩なる者の話はそれまで聞いたこともなかったが、なぜか高風には彼の話を疑う気持ちは浮かんではこなかった。
とはいえ、こうしてはるか沖から泳ぎ渡ってくるのを目の当たりにすると、自分の見ている「もの」が現実ではないような気がしてくるのだった。
つるべ落とし、と呼ばれるように空は夕暮れ色からうすずみ色へと変わってゆき、みるみるうちに日の光を消し去ってゆく。
さながら猩猩が自らとともに夜の闇を連れてきたかのように高風には感じられた。
海を泳いできたために、赤茶けた髪も顔も着ているものもずぶ濡れであったが、猩猩は雨に濡れた大きな犬のような身震いをひとつしただけで、そのまま焚き火の前に座った。
「うん、まだ飲んでおらんかったか」
高風の前に封の切られていない酒壷が置かれているのを見て、猩猩は言った。
「ならば先に、約束のこれを、の」
まなじりを下げ、猩猩が懐に手を入れる。
大事そうに取り出したのは、布の包みだった。
厚手の布で厳重にくるまれているのを、猩猩の手がほどいていく。
あらわれたのは、思いのほか小さな壺だった。
ことり、と小さな音をたてて酒壺が高風の目の前に置かれた。
やや厚めの、だが透き通る玻璃でできた小瓶は、いつも高風が出している大壷の半分もない。
中には淡い金色に光る液体がなみなみと入っている。
「これが蜜井戸(みいど)。猩猩の酒よ」
猩猩は、さらに懐から、先ほどよりも小さな布の包みを取り出して開くと、小ぶりの湯呑みほどの大きさの玻璃の盃を二つ並べた。
壷の栓が小気味よい音で抜かれ、酒が注がれる。
とつとつと音を立てながら、淡い金色に透ける酒が盃を一杯に満たしてゆく。
もう一つの盃も同じように、たっぷりと。
けれど。
「あ……」
二つの酒盃を満たした酒壺が高風の目の前に置かれた。
壷の中身が焚火の炎を映して金色に光り、揺れる。
だが、それは先ほど猩猩の懐から取り出された時から全く減ってはいなかった。
「これは……」
驚く高風に、猩猩は莞爾と笑ってみせた。
「言うたろ。汲めども尽きぬ、と」
盃をひとつ手に取り、差し出す。
「さ、まずは一献」
あふれんばかりに注がれた酒盃を高風は受け取り、気をつけて口元へと運ぶ。
わずかに甘い香気が立つ。
それに惹(ひ)かれるように、高風は猩猩の酒を口にした。
一気に立ち上がった酒精が力強く舌を打つ。
甘みはやや強く、旨みと共にじんわりと口中に沁みわたり、満たされる。
ほんの束(つか)の間、そうして飲み下さぬまま味わって、それからゆっくりと嚥下する。
柔らかいが確かな香りと酒気の強さが胃に落ちてゆく。
そこからじわりと肺腑へと酒香が立ち昇り、再び口腔と鼻腔を上昇してから、さらに頭蓋の内側へと広がり、満たしながら染みとおってゆく。
くらりと、それが彼の脳を酔わせる。
夕霧の立ち込めるように、心地よいゆらめきが彼を包み、焚き火とは違うぬくもりが身の内側にほろりと赤く灯る。
高風の視界の端に、自分が持ってきた封の開いていない酒壺がかすめた。
似ている。だが、もっと。
ーー好(よ)い酒だ。
思わず目を閉じて、胸中に呟く。
再び盃を口に運び、飲み進める。
深い酔いと味わいが咽喉から沁み渡るように心身を満たしてゆく。
目を閉じたまま蜜井戸の酒を味わう高風を、猩猩もまた盃を干しつつ、じっと見ていた。
「旨いです。これは確かに、人に勧めずにはいられないでしょう」
ふっと息を吐き、盃を空けた高風が猩猩に向かって言った。
「……ですが、やはり強い。これは、並の人間ではすぐに酔いが回って潰れてしまう」
言葉とともに熱い息を吐(つ)いた高風に、猩猩は目を細めた。
「だが、うまかろう」
そう言って、また自分と高風の盃を蜜井戸で満たした。
「では、あらためて」
自分の盃を目の高さに掲げて、猩猩は言った。
「豊穣なる飯妻津(いいづまつ)の海と、我が朋(とも)に」
咽(のど)を鳴らし、飲み干した。
一息に。
「朋と、呼んでいただけるので」
問いかける高風に、猩猩は頷いた。
「猩猩の酒をこうして旨いと言うてくれるならば、陸(おか)に住む人間とても朋よ」
そう言った猩猩に、高風は炒り豆の袋を差し出した。
袋の口を大きく引き裂き、猩猩からも手を伸ばして食べやすいように平らに拡げて開けてやる。
「おお、これはまた、蜜井戸がすすむであろうよのう」
高風はうなずき、炒り豆をつまんで口に入れた。
「あの酒がお好きなら、お持ちになる酒にもきっと合うだろうと」
だが、おそらく今夜はあの封を切ることはないだろうと高風は思った。
しばし黙って、二人は酌み交わした。
客商売なのだから、話しかけられれば愛想よく受け答えし、相手に合わせて話し込むこともできたが、元来の高風は無口な方だったし、猩猩もまた酒肴を頼む以外の言葉を発したことは昨日まで全くなかった。
けれども、それで充分だった。
好(よ)き酒があれば、それだけで。
差しつ差されつ、あるいは手酌で。
そこにはもう、屋台の主人(あるじ)と客という間柄は消えていた。
潮が満ちるようにゆっくりと、だが着実に海の水が砂浜を上昇していくように、蜜井戸のもたらす酔いに高風は浸(ひた)っていった。
夜風に雲が流れ、月が見えた。
満月の明かりが静かに桟橋を照らす。
名月を迎え、影に対し三人を成すと詠んだのは李白だったか。
ーー月と、影と、自分と。
まさに今、月を交えた三者は詩の如くに酒を酌み交わしていた。
* * *
一度(ひとたび)高く昇った月がわずかに傾きかけた頃になっても蜜井戸の壷酒は尽きることがなかったが、高風の持ってきた炒り豆は確実に数を減らしていった。
それでも二人は、もう何度目かもわからぬほど繰り返し盃を干していたが、不意にぽつりと猩猩が言葉を漏らした。
「ふむ……そうかも知れぬな」
残り少ない炒り豆の一粒を大事そうにつまんで見つめながら猩猩は言った。
「あの夢に出てきたのは、あんたのご両親ではないか?」
「え?」
高風は猩猩の方を見返した。
炒り豆を口に入れ、猩猩も高風に向き直った。
「ほれ、昨夜(ゆうべ)、話してくれたであろ」
「……ああ」
屋台を持ち、再び商売をしようと決めた夢のことを語ったのを高風は思い出した。
「あれを聞いて、思ったのだよ。あんたはよほど、親に孝行を尽くした息子であったのだろうと」
「えっ……?」
盃を口に運ぼうとしていた高風の手が止まった。
猩猩は盃の中で揺れる蜜井戸に目を落とし、つぶやくように言葉を続けた。
「猩猩の古い言い伝えにあるのだ。……我が子に孝養を尽くされた親はの、死した後(のち)に子の夢に現れて、託宣をすることを許される。そしてその子が親の言う通り、夢の託宣に従うたならば、子の生業は大いに富み栄えるのだ、とのう」
そう言って、猩猩は目を丸く見開いて再び高風の顔を見た。
「まさしくその通り、ご亭主の店はよう繁盛しておろうよ」
盃を手にしたまま、しかしその話をどう受け止めたらよいか戸惑う高風に、猩猩は語り続けた。
「そうして、遺された子に富と福とをもたらしたのち、死した親は、飯妻津のさらにはるかな深淵の奥底の底にあると言われる瑠璃淵(るりえん)の都で神の眷属として永劫の時を生きると言われておるのだよ」
「……それは……」
ーーはるか深淵の奥底なる、瑠璃淵の都。
それは高風には全く聞き覚えのない都市の名だった。
だが、不思議と懐かしく聞こえるその名を告げた猩猩の声はどこか憧憬を誘わせて夜の桟橋に響き、高風の耳に届いた。
ーーしかし……。
けれどもそれは、海の底に棲まう猩猩たちの言い伝えではないのか。
ーーいや……。
それとも、もう自分は猩猩の酒にすっかり酔い潰されてしまっただけなのだろうか。
実際、高風の頭の中は古酒に漬け込まれた果実のように、夜の波音と共に揺らめいていた。
それでいて、目の前で語る猩猩の姿と言葉だけは妙にはっきりと高風の意識に届いていた。
「だのに、それと比べて儂と来たらば見ての通り、ただの飲んだくれよ」
酒盃を手に、猩猩は吐息をつく。
「蜜井戸の壷酒が尽きぬのを良いことに、こうして毎日毎晩飲み続け、それにも飽き足らず、陸(おか)の酒まで飲みにきておる大酒飲みよ。親にも、なんの孝行もしてはこなんだ。これでは儂の父も母も浮かばれまいて。……ああ、いや、駄目だな。これは、いかぬ」
猩猩は首をふり、ははあ、と、大きなため息とも笑いともつかぬ声を上げると、空(から)になった盃をことりと置いた。
「……愚痴を言ったなあ……飲み過ぎた証拠よ」
暗い海に向かい、酒気混じりの息をふうと吐くと、酒壺を手に取って猩猩は言った。
「これはもう置いてゆこう。ご亭主に差し上げようぞ」
そうして、蜜井戸の壷を高風の前に置いた。
「えっ……」
高風は猩猩の顔を見返した。
だが猩猩は高風と目を合わせず、焚き火の前からふらりと立ち上がった。
どこかおぼつかない足取りで、桟橋の突端へと向かう。
猩猩の客が酔いに足をふらつかせるのを高風は初めて見た。
「ですが、これは貴重な物なのでは……」
「なんの、蜜井戸の壺は海の底にいくらでもあるのでの」
そう言って高風を振り返った猩猩の顔は。
「ーーああ、酔うた」
いつもやや茶色みを帯びて赤らんだ猩猩の顔は、それまで高風の前ではどれほど飲んでも全く変わることのなかったはずが、蜜井戸の酔いを受けていつになく赤々と染まっていた。
「だからもう、今日はいらぬのよ。これで終(しま)いだ」
そう言って、猩猩は高風に笑ってみせた。
千鳥足で桟橋の一番端までたどり着いてその場に座り込むと、両足をぶらりと下ろして腰をかけ、たっぷりと酒精を含んだ息をもう一度、飯妻の海に向かって大きく吐いた。
「では、いずれまた」
それからまた高風を振り返って笑いかけると、猩猩の体は滑るように足先から海へと落ちて行った。
水音と、飛沫が上がる。
高風は立ち上がった。
かすかな月明かりだけでは桟橋から下の暗い海の様子は見えない。
焚き火の中から火のついた木切れを松明代わりに抜き取ると、桟橋の端へ行って海面を照らす。
猩猩の飛び込んだあたりから、白い泡とうねりが沖へ向かって伸びていくのがかろうじて見えた。
それが、夕暮れにやってきた時よりもいくぶんふらついていて、さきほどの千鳥足めいた猩猩の歩みを思わせた。
酒を過ごし、酔うた自らを腐(くさ)す言葉を漏らしたのを恥じるかのようにも高風には見えた。
ーー帰っていった。
少しの間だけ、高風はその場に立ち尽くしていたが、再び焚き火の傍らに座り込んだ。
火のついたままの木切れを、だいぶ小さくなった焚き火の中へと戻したが、もうさほど火は大きくならなかった。
ぼんやりとその火を見つめ、ついさっきまでそこで猩猩と交わしていた言葉を思い返す。
ーーなんと、言っていた……?
猩猩の古い言い伝えにーー。
蜜井戸の酔いはまだ高風をとらえたままだったが、冷めた夜気に当てられたように、意識のほんの一部だけは不思議にくっきりと冴えていて、焚き火に照らされた目の前の光景は明瞭だった。
二つの玻璃の盃は、すっかり空になって置き忘れられている。
なのに、もう何度も空にしたはずの蜜井戸の酒壺は、いつの間にかまた不思議な輝きの金の液体で満たされている。
あれほど飲んだはずであるのに。
あの猩猩が、足をもつれさせる程に。
自分もまた、猩猩には及ばないものの、かなりの量を飲んでいるはずだった。
ーーこれは、並の人間ではすぐに酔いが回って潰れてしまう。
だとしたら、この自分は。
ーー我が朋(とも)に。
その言葉が、高風の奥底で気付かぬまま沈んでいたものを浮かび上がらせた。
ーーそうか。
高風は自分の持ってきた、封の切られていない酒壺を手に取った。
この酒は、死んだ父が好きでよく飲んでいたものだ。
炒り豆も、飲んでいる父にいつも母が作っていたものだった。
忘れていたのが不思議なほどだった。
ーーそういうことだ。
その気付きは、高風をしばし驚かせはしたが、それもほんのわずかの間のことで。
日常のはるか下方、無意識の底深くにまぎれていた認識は、まるで今さらのことだったかのように高風を納得させ、なんの抵抗もなくすんなりと腑に落ちた。
疑惑も違和も、不安すらもなく、あるべきところに全てがしっくりと収まった気がした。
ーーだとしたら。
夕暮れの海から桟橋へ上がってきた猩猩の姿を思い出す。
高風の手が自分の首筋をかいた。
爪の先に鰓が触れる。
ああ、やはりあった。
これなら大丈夫だ。
残っていた炒り豆の最後の一粒を口に入れて噛み砕き、紙袋を焚き火で燃やす。
自分が持ってきた酒壺の封を開けると中身をすべて海に流し、壺を海へと投げ捨てて。
そうして高風は飯妻津の桟橋から海中に身を投じた。
首筋の鰓がぱくりと開いて、海の水を呼吸する。
指の間に薄い膜が張り、水かきのように潮の流れを掴んで泳ぐ。
驚くほどの速さではるか沖の水底(みなそこ)へと潜ってゆく。
その初めての感覚があまりに慕(した)わしくて、高風は飯妻の海の底に向かって呼びかけた。
ーー父よ。母よ。
そして朋(とも)よ。我が同胞(はらから)よ。
月明かりも届かぬ海底で、なつかしい人々の白い影が見えた気がした。
* * *
桟橋の上で、最後の焚き木が音を立てて燃え崩れた。
濃い雲が夜空を覆い、月を隠す。
飯妻津の桟橋には、置き忘れられた二つの玻璃の盃と。
闇の中に、蜜井戸の壺が残った。
(終)
猩猩〜蜜井戸(みいど)の壺 日暮奈津子 @higurashinatsuko
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