第23話 疾走する羊とアストロノーツたちⅢ
「あすなろ物語だよ」
ペット君はにこやかにそう言った。
「あすなろ物語か」
郷里出身の小説家井上靖の作品だ。
この時既に名実共に文豪であった。
作品の舞台は伊豆市湯ケ島。
よく観光旅行の候補になる。
同じ県でもかなり遠い場所
地元の中学生にしても。
教科書に載っている偉人。
その程度の認識しかない。
あすなろ物語は作者が育った地域。
大正時代の伊豆地方が舞台である。
「日本の原風景が…詩情豊かな文章で綴られ。ペーソス溢れる物語として…」
自然と読書感想文の文言が浮かぶ。
俺は改めてペット君の顔を見た。
主人公の梶鮎太のイメージあるな。
筆で描いたようなきりりとした眉。
整ったお地蔵様のようなお顔立ち。
絣の着物とか学生帽が似合いそう。
寺子屋も道祖神の祠も似合いそう。
「俺も好きだよ」
「本当に!?」
「しろばんばもね!」
「それも読んでみたい!」
「そっちのが読みやすいかな」
こちらも主人公は違えど自伝的作品。
尺は長い。あすなろ物語のような詩情はやや抑えられ。純粋に読み物として面白い。少年の成長物語が楽しめる。
しかし日本の原風景がノスタルジイにならない。俺は田舎の山育ちである。
グリーン・ゲイブルスには程遠い。
ちなみにそれはアンの家の呼名。
舞台はプリンスエドワード島。
さらにさらに遠い異国の地。
「天平の甍も!」
おろしやの国の酔夢に酔う。
よど殿日記を紐解くもよし。
歴史物も読み応えありだ。
「え…それ全部読んだの!?」
「夏休みにね」
「全部読んだ?」
ペット君はつばを飲み込んだ。
長い睫毛をぱちぱちさせている。
なんかもうおやつあげたくなる!
「部活とか夏休みの宿題とか」
「んなもんどうでもいい!」
「塾とかもあるよね?」
「それは休まない!」
塾の先生は怖いし。殺されるから。
じいちゃんが俺に遺してくれた。
それは分厚い表紙のクロニクル。
大正から昭和までの文学全集だ。
夏休み家にいて段ボールを開けた。
それを夏休みまでに読まなくては。
それを読まなくてはならない。
そう思ったのには理由がある。
それはじいちゃんが亡くなる少し前に、じいちゃんの誕生日に買われたものだ。
買ったのはなんとフサ姉ちゃんだ。
姉ちゃんが初任給で祖父に買った。
最初で最後の父親へのプレゼント。
勿論フー姉は文学なんて興味なし。
適当に高くて立派な全集を買った。
甥っ子の俺の目から見ても。
学生時代から就職した後も。
本当ろくな娘じゃなかった。
けれど祖父が病院に入院した時。
退院して帰って来た時のために。
初任給で文学全集を買ったのだ。
ぎりで滑り込みの親孝行であった。
祖父がそれを手に取ることはなく。
読むことはなく帰らぬ人となった。
活字中毒というのだろうか。
煙草と本を手放さぬ人だった。
煙草が無くなると俺を呼んだ。そして小銭やお札を手渡す。お使いを頼まれた。
当時の店は子供でも煙草が買えた。
よほどの札つきで疑わしくなければ。
お使いだと言えば褒められたものだ。
お釣りは多くても少なくても貰えた。
それでお金の計算を覚えたのだ。
読む本が無くなると。
これも買いに行けない。
祖父はリュウマチだった。
よく辞書や電話帳を読んでいた。
活字とニコチンの中毒だった。
それは一生治らなかった。
将来の俺と同じだった。
一族で喫煙者は俺と祖父だけ。
不思議なほど嗜む者はいない。
普段は石像のように口数か少なく。
返事まではかなり時間がかかる。
フサ姉ちゃんがよくふざけて。
指を折って数えてたくらいに。
段ボールの箱は未開封のまま。
二階の階段の隅に置かれていた。
姉ちゃんも実家を出て家にいない。
「読んでいい?」
電話があった時に訊ねてみた。
いつか読みたいと思っていた。
「次来るまでならいいわ!」
俺は失敗したと思った。
黙っていればよかった。
フサ姉と書いて守銭奴。
そして本のことなんて忘れていた。
自分が支払った値段を思い出した。
すぐにでも売ってお金に変える。
古本屋巡りした人ならわかるはず。
文学全集なんて代物は重いだけ。
やたらと場所を取る代物だ。
読まない人には無縁の長物。
買うと時は高価であっても。
売値は驚くほど安値である。
文庫本で済むなら皆それを買う。
尤も全巻揃いなら多少は値がつく。
何れにしてもそれは家から無くなる。
俺は夏休みの間に片っ端からそれを読むことに決めた。いちから買うとなったら。中学生の小遣い程度では無理だ。
俺はその全集を夏休み中読み耽った。勿論夏休みの部活なんて出なかった。毎日家に先輩から脅しの電話がかかって来た。ことごとく無視してやった。
知ったことかと思った。
これを逃す損失の方が余程大きい。
夏休みの宿題?
そんなものは後回しだ。
学校始まってから提出物。
請求されたら出せばいい。
命までは取られやしないだろう。
そう思って夏休みを過ごした。
「部活一日も出なかったの?」
ペット君のもうひとつのあだ名。
テニス部のやつが話していた。
テニス部で彼のあだ名は地蔵。
誰よりも早く部活に来て。
コート整備もちゃんとやる。
後輩の面倒見もよくて。
誰よりも練習熱心な人。
練習した分だけ技術も確か。
右へ左へとはしっこいので。
対戦相手は苦戦することだろう。
ところがそうはいかない。
ペット君は試合だと地蔵。
緊張からかイップスなのか。
まったく体が動かないのだ。
練習試合で一年にも勝てない。
それでも部活は休まない。
そんな人から見れば。
俺は部活の落伍者だ。
「へえ…イッチ君てさあ、大人しいだけの人かと思ってたよ!違うんだね!」
その印象はそのまま君に返す。
なんかきらきらした瞳が眩しい。
そんなお手本になるような者じゃない。それはむしろ君の方だろ!
俺はただ欲望と本能に忠実なだけ。
眼の前にあるものを逃したくない。
ただがつがつしてるだけのやつだ。
この時期に三年生は引退する。
先輩から部の引き継ぎがある。
部長とか副部長が決まるんだ。
「部長とかやってるといいぞ!内申書とか色々な…受験にも有利だぞ!だから頑張れ!」
な〜んて言われたりするけど。
そんなのには興味ないだけだ。
「ねえ貸してくれるかな?」
「そりゃまあ構わないけど…」
文庫じゃない書物は重てえぞ。
その小さな体で持って帰れるか?
「今度うち来る?」
まあこの子なら本を貸しても大丈夫。
きっと大切に扱ってくれるはずだ。
今うちでホットな筑摩日本文学大系もあるよ!お熱いうちに!召し上がれ!
「後、うちはお茶も作ってるんで、よかったらそれも!悪くないよ!」
まだ茶摘みの時期には早い季節。
「ぜひ!お邪魔させてよ!」
泡のように消えてなくなる。
口から漏れて消える言葉たち。
その笑顔に頷く言葉が溢れる。
「楽しみだな」
「イッチの家は山がの麓だからね!トレッキングブーツとそれなりに装備を!」
「都会もんが山さなめるでねえぞ!」
黙れ!お前ら!それに有泉!お前の家なんて、俺んとこよりさらに上の、分譲住宅地だろうが!そんなラリーが続く。
ペット君は楽しそうに聞いていた。
「あれ」
ふと窓の外の景色に目を奪われた。
その景色に思わず呟いていた言葉。
「しろばんば」
そこにいた皆が指差した窓を見た。
まるで本の中から抜け出したよう。
「本物だよ」
窓の外に季節外れの雪が舞っていた。
しろばんばは雪が降る前に現れる。
本来は冬の到来を告げる雪虫の群。
この季節に見られることはない。
「雪虫だ!」
「ちげえよ!」
「本物の雪だ!」
クラスの皆が窓際に集まって。
「本物の雪が降ってんだ」
誰かがそう言った。
降る雪は花に紛えるばかりではなく。
其々に目に見たものを皆が口にする。
旧暦2月15日の涅槃会に降る果の雪。
名残りの雪とも惜別の雪とも言う。
春の斑雪とも言うが地に積もらず。
春の畑や道を斑に染めるから。
春の雪は冬の雪ほど重くない。
やはり散る花びらに似ている。
校庭の桜はまだ咲かない。
咲き始めの桜の花の色。
どんな呼び名であろうと。
同じ窓の外を眺めている。
けれどそれは束の間の出来事。
校舎と県道を挟んで茂る竹藪。
けして広くはない竹藪。
昼でもひっそりした暗峠。
そこで輝夜姫は生まれた。
そんな言い伝えが今も残る。
アシタカと不死の山の頂きから。
木花咲耶は不死の薬を火に焚べた。
この季節になると麓から雪が流れる。
温暖なこの土地に雪は積もらない。
すぐに皆忘れてしまい春が来る。
本は開かず読まずとも。
物語は生まれてそこにある。
それは狭い教室や校舎の中でも。
けれど忘れて通り過ぎるものだ。
同じ景色を眺めていたとしても。
その瞳が向く先は既に違うから。
「バレンタインに雪なんて」
「ロマンスの予感チック」
「この雪食えるかなあ」
「ちょっと!」
「いきなり窓開けないでよ!」
「ばか男子!風が入るでしょ!?」
ばか男子に顔認証の必要なし。
窓を開けて口をぱくぱく。
酸素不足の魚みてえだな!
魚に雪と書いて鱈だっけ?
たられば食って生きている。
「やっぱ雪じゃ腹はふくれんの〜」
「チョコとか食いて〜」
「誰かくれんかの〜」
もの欲しそうな目で!
女子をチラチラ見るな!
「なあイッチよ!」
そして俺に同意を求めるな!
俺の占いは当てにはならない。
まさかこの後避妊具の爆弾製造。
呪詛の言葉と共に女子に投げつけ。
クラスの女子から総スカンを喰らう。
そんな未来が待っていようとは。
想像することすら出来なかった。
「バレンタインに雪見なんて」
「これはいい最終回ですよ!」
俺たちの最終回はこれからだった。
「もう…いきなり窓開けるから!」
「風で前髪が…ちょっと鏡かして!」
俺は机の上に置かれたままのノートを見た。ページが風で捲れていた。
当時世間で少し流行っていた占い。
それは本占いだ。入門書ではない。
まず精神を集中してから本を開く。
そこに書かれた言葉やイラスト。
それで自分の運勢や未来を占う。
それは本当に流行り物で。
およそ占いとは言い難い。
それこそが確証バイアスだ。
自分に都合のいい結果だけ。
人は悪い見立ては忘れて。
「あの占いは当たる」
そう自分で勝手に思い込む。
数学のノートには見慣れた文字。
俺のペンでこう描かれていた。
確率)=(それが起こる場合)(全体)
あれ書き忘れたか…
/括線がぬけてらあ…
これじゃ公式に…
俺は背中がひやりとした。
ずくにペンで書き足した。
確率)=(それが起こる場合)/(全体)
これが正しい公式だ。
寒気が胸の奥で吹き溜る。
「ねえイッチ!」
振り向くと工藤さんが立っていた。
「ねえ見てイッチ!」
笑顔をで目の前に差し出した掌。
それを見て俺は驚いて言った。
「ケセランパセランだね」
それは雪ではない。
ふわふわ白い毛玉。
嬉しそうに鼻に皺を寄せて笑う。
「見つけちった」
山麓から吹き流されたのだろうか。
窓の外の雪の時間は束の間で。
すでに降り止んでいた。
手を伸ばして雪に触れようとした。
生徒たちから落胆の声が漏れている。
「きっといいことがあるよ」
「本当に!?」
ケサラン・パサランは江戸時代から、民間伝承として記録されている。
その正体は未だに不明だが。
語源はケ・セラ・セラだとか。
梵語の袈裟羅・婆裟羅が語源。
他にも諸説ある。何れにせよ。
俺は女の子が笑うと嬉しい。
それは昔から変わらない。
幸せならばなおのこと。
幸せになって欲しい。
いつもそう願うのだ。
「そいつ、生きてるらしいから」
俺は工藤さんに言った。
出来れは霧の箱に入れて。
エサとして白粉も入れる。
するといつの間にか増える。
白粉は匂いがしない物がいい。
出来れは黒い布で箱を覆い。
中を見るのは一年に一度位。
知ってることを工藤さんに伝えた。
「ありがと!」
工藤さんがまた笑ってくれた。
毛玉よ!俺にも幸せくれるのか!
「イッチは物知りだね!」
「なくさないようにね」
彼女の手には触れないで。
その手を閉じるようにと。
手を添える仕草だけした。
まさかこの何時間か後。
彼女が憤怒の表情となり。
全然別の物を握っていようとは。
そんな未来など知る由もなかった。
俺たちはアスノトロノーツ。
そんな誉にはなれないだろう。
けれどここで未来を待っていた。
未だ飛び立ててもいない。
教室は無重力みたいに。
ふわふわした感じだ。
温室の野菜でもいいさ。
この場所が好きだった。
何れ未来はやって来る。
泥を掴むか祝福の花束か。
それは誰にもわからない。
けど手をのばした先にある。
未来があるのだと信じていた。
手をのばしたその先にきっと。
「やった!」
「今度は捕まえた!」
「すげー転んでも離さない!」
またもや無様に転んだ。
けれどそいつの首根っこ。
俺は捕まえて離さなかった。
「みき君はマムシみたいだ!」
心にヘビとか悪女を飼ってる。
後々人に言われるようになる。
けど一度捕まえたら離さない。
それは本当のことだと思う。
『みき君いいぞ!
「そいつ離すなよ!」
「文句あるなら勝負しろ!」
「は・な・せ・よ!」
急に顔に砂をかけられた。
目と口にたくさん砂が入る。
俺は咳き込んで手を離した。
「この!のろまが!」
そいつは素早く立ち上がり。
舌をだして逃げてしまった。
「平気?」
立ち上がって砂埃を手で払う。
「大丈夫!」
俺はその時笑っていたと思う。
けして強がりとかじゃなくて。
「次は追い越せるからさ!」
つかまえるんじゃなくて。
追い越して目の前に立てる。
「だってあいつさ」
俺は友だちに言った。
「大して早くないから!」
鼻の先に泥がついてると言われても。
俺はその時ずっと笑顔だったと思う。
今と昔が交錯してすれ違う。
そんな気持ちになったのは。
季節外れの雪のせいなのか。
「もう雪止みそうだね〜」
「積もらないかな〜」
この地方では殆ど雪は積もらない。
温暖な気候に恵まれたせいだ。
名残り雪とは溶け残った春の雪。
けれど雪はだ降り積もるだけ。
名残りは雪愛でる人の心だけ。
「伊勢正三さんね!」
「ぶーちゃんは、フォークソング愛でるマニアだもんな!」
「もう愛でまくりさ!」
束の間の雪は野郎の心も和ませる。
どんな荒野でも風雪雨は降るもの。
「あの…誰か松井さん見なかった?」
小西がクラスの皆に聞いていた。
「私が…先生に解らないないとこ聞いてる間に…」
「トイレじゃね?」
「ねえイッチたちは?」
俺たちは首を横に振るしかない。
「本当に見てない」
「あれ!あいつ松井じゃね?」
雪を見ていたクラスの誰が言った。
松井さんが外を走っている。
それも尋常ではない速さで。
文字通り脱兎の如くである。
「学校来て一時間で脱走とか!?」
「なんかめちゃくちゃ速くね!?」
「なんだあいつ元気いいじゃん!」
「小西、松井さんが…」
俺たちが振り向いた時には。
もう小西の姿も消えていた。
競馬場のゲートが開いたように。
そこから飛び出して来る女子一名。
二月の雪の中を駆け抜けて行った。
なんか見たことがある風景だ。
あまりの既視感に唖然となり。
俺は苦笑するしかなかった。
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