雨の日 2
――と思ったらデート当日。
大雨が降っていた。
「こりゃ、参ったな」
外は大雨だった。
俺は駅の中でしばらく待機していた。
『とりあえず、駅の案内表示板の前で待ってる』
と俺は北沢に送った。三分してから既読がついた。
しかし、ラインの既読も、いつつくのかドキドキするな。これ、俺だけか?
まるで恋する男の子のように、愛しの人からの既読が待ち遠しい。
いや、現に俺は恋する男の子だったな。こりゃ失敬。
「お、お待たせ……生憎の雨だね」
「お、おう……北沢」
北沢はいつもと雰囲気が違った。少し大人っぽい印象を受けた。
白を基調としたワンピース、それに髪の毛を留める白いヘアピン。
すごい、ドキドキする。なんだこれ。
北沢の常じゃない姿を見て、俺はどうやら興奮してしまっているらしい。
まるで変態じゃないか。抑えろ。北沢とはいつも通り接するんだ。
「行くか?」
「…………………………うん」
ん?
思いのほか、北沢に元気がない。
これはもしや、脈なしという奴だろうか。
ちょっと待て。怖くなってきた。
「北沢、元気か?」
「………………なにが?」
ほら見ろ。え? え? ちょっと待て。
俺は今日、デートのために色々と準備をした。
目的地である『笹の葉コーヒー』の場所を調べ、駅からの道のりをなんどもシミュレートしてきた。
それが馬鹿馬鹿しくなるような、北沢の反応である。
もしかして、今日の俺、なんかやらかしてるのか?
服か? もしや服がダサいのか?
「ねぇ、小島くん………………今日、すごい大事なことを伝えたいんだ」
「………………ぇ」
北沢が言った。
なん……だろうか。
大事なこと?
俺と北沢の関係性は、まだ始まったばかりじゃないか。
いやべつに、恋人同士になった、というわけではない。
だが、師匠と弟子、という関係性は、俺たちの間にしっかりと形作られているはずだ。
おそらく、その関係性について、なにか北沢は言いたいことがあるのだろう。
なんだ? 北沢はなにを言おうとしている?
俺は心臓をばくつかせた。
ほ、本当になんなんだ?
胸がこれ以上ないほどざわつく。
楽しみにしていたはずの今日という日が、怖い。
今日、彼女になにを言われるのかが、ものすごく怖いのだ。
「え、えっと、あとでもいいか?」
「……………………うん、そうだね。せっかくのデートだしね。ちょっと、おいしそうなものでもちょこちょこ買って食べようか。クレープとか」
北沢はむりしたような笑みを作って、言った。
本当に、俺は、北沢に嫌われてしまったのだろうか。
それならなぜ、今日のデートを断らなかったんだろうか。
真相は、まだ、北沢の中だけにある。
俺たちはそれから、クレープ屋と団子屋に寄って、買って食べた。
北沢は笑っていた。
だが、どうにもその笑いは、心の底から出てきたものではないように思えた。
外は生憎の雨だ。鎌倉と言ったら食べ歩きのイメージがあるが、これじゃ食べ歩きもできない。
俺は、いや俺たちは、憂鬱な気分を引っ提げたまま店をあとにする。
「それじゃ、『笹の葉コーヒー』に行こうか」
「お、おう……そうだな」
俺たちの間に、会話は少ない。
二人の関係性が、徐々に崩れていく、そんなような気配があった。
北沢はそれから、笑わなくなった。
笑っているのは、べつに彼女のふだんの表情というわけではない。
むしろ彼女は、学校では『氷属性の北沢さん』と呼ばれているくらいだ。
無表情が板につく、そんな美少女だ。
だが彼女は、今まで俺の前では笑ってくれていた。
その笑顔が、今日パタリと消えた。
もしかしたら、デート中になにか俺がやらかしたという可能性もあったが、北沢の感じを見る限り、どうにもそうではない気がしてきた。
というか、そう思いたい。デート中になにをやらかしたかなんて、俺はいちいち考えたくない。
あれか? 顔にクリームつけたまんまだったことかか? だがそれは笑い話であって、べつにドンびくほどではないと思う。
いや、カエル化現象って、このようなささいなことから起こるのか?
俺にはわからない。
だが、俺がやらかしたという点については、心当たりがあまりなかったのだ。
結局、不安を抱えたまま、『笹の葉コーヒー』までやって来た。
「けっこう、すいてるね」
「そうだな。雨だからかな」
「多分、そうだと思う」
俺たちの間に流れる空気は、ジメジメしているわりに、素っ気ない。
「そこ、座ろうか」
「そうだな」
選んだのは対面の席だった。カウンター席は空いてなかった。仕方がない。
とりあえず荷物を置く。手持ち無沙汰そうに、二人はお互いに無言を貫いた。
だが結局、おれの方が空気感に耐えられなくなって、聞いた。
「今日は、参考になる物があったか?」
一応建前上は、取材のためのデートということになっている。
だから俺はこういう質問をした。べつに不自然ではないと思う。
「……うん、楽しかった」
北沢は的外れとも言いがたい返答をよこした。
おれは「そうか……」とだけ答えた。
他に、言葉が浮かばない。
雨音が、窓を叩く。風が強い。どよめき。どうやら、どこかで雷が鳴ったらしい。
帰りは面倒くさくなるだろうな、と思ったそのとき、北沢はまったく表情を変えずに言った。
「やめよっか、この関係性」
俺は、なにも言えなかった。ただ純粋に、彼女の唇を眺めているだけだった。
彼女の唇は、震えていた。本当は裏に、大切な思いを隠している、そう俺は確信した。
だが――関係性をやめたいと言われて、まったく動揺しない俺じゃない。そこまでメンタルが強いわけじゃない。
だから俺は動揺した。激しく。
「なぜ……と聞いてもいいか?」
北沢はうつむいた。下唇を噛んでいる。
俺はまた、聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。
それとも、そんなことを考えてしまうほどに、ナイーブになっているだけなのか。
本当は、彼女は、そんなたいしたことを考えていないのではないか?
ただ「申し訳ないから」やめたい。そう思っているだけなのではないか?
だとしたら、よかっただろう。俺は「そんなことあるわけないだろ」で答えられた。
だが北沢の返答は、予想の遥か外にあった。
「お父さんに反対された。私が小説家になりたいって行ったら、ひどく反対されて。成績も下がってきて、それで、小説家になんかなれるわけないから、勉強して、きちんと就職しなさい、って言われた」
納得…………………………できねぇよそんなん。
といえたら、どれだけよかっただろう。
だが、現実は非情だ。
その父親が言っていることは、明らかに正論だった。
北沢に、目立った才能があるわけじゃない。
だとしたら小説家になりたいなんて言われて、賛成できるわけがない。
北沢の父親は、極めて正論を言っている。
だからこその、北沢の表情だったのだ。
俺は、北沢と同じように下唇を噛んだ。
多分北沢以上に強く噛んだ。
どこかで雷が鳴った。風の音がする。今夜は帰りたくない気分だ。
こんな日にデートなんて、最悪だ。
でも今日がなければ、この話を持ち出すことだって、北沢にとっては難しかっただろう。
最悪だ。
思ってもみなかった方向から、話が来た。だが、考えられない話ではなかった。
それだけのことだ。そしてそれだけの事実が、俺たちに重くのしかかっている。
「おれ………………は」
やめたくない、とでも言うつもりか?
家庭内の事情に口を出せるほど、いつから俺は偉くなったんだ?
北沢家の方針に口を出せるほど、俺は人間ができちゃいない。
北沢の父親は、北沢自身のためを思って言っているはずだ。
そのことが、悪いことだと思わない。
むしろ、賛同すべきなのだ。
けど、俺の本心は、賛同したくない。
なぜか?
北沢との関係性を、壊したくないから。崩したくないから。
ただのわがままだ。
たまたまそれが、好きな女の子だったから、という理由に過ぎない。
これがもし、ただの男子だったら、「じゃあやめるか」って話は簡単になってたかも知れない。
だが、相手は北沢なのだ。
最低だ。そんなことで、考えを変えてしまうであろう自分の浅ましさが、恨めしい。
俺は北沢が好きだ。夢を応援したい。
ケドその夢を応援したいというのは、北沢が好きだから、という理由に帰結する。
好きな女の子のことは、誰だって応援したい。
けど、だからといって「やめたくない」といっていいのだろうか。
俺は、さらに下唇をかんだ。
「お前は、どうしたいんだ?
やめろと言われて、言うことを聞きたいのか?」
「私の願望に意味はないよ。お父さんの決めたことは絶対だから」
「そうか。悪いことを聞いた」
北沢は、父親に逆らえない。
それは、わからないことでもない。父親は働いてお金を稼いでいる。学費だって生活費だって稼いでいるのだ。
そんな相手に、娘一人が相手にできるとも思えない。反抗して、「えーじゃあしょうがないな」と言ってくれる父親も世の中に入るに入るだろうが、少なくとも北沢の父親は違う。
手詰まりだ。
北沢は、北沢の父親を動かすことはできない。
じゃあ、俺は?
俺なら? なにができる?
「北沢」
俺は北沢の名を呼んだ。
「お前、諦めたくないんだろ」
北沢は、感極まった様子で言った。瞳から、ぼろぼろと零れ落ちるものがあった。
「諦めたくは、ないよ」
「そうか。わかった」
俺はうなずいた。うなずいて本当によかったのか?
すぐにそう感じてしまう。だがもう後戻りはできない。
そしてなにより、後戻りしたくないのだ。
俺は北沢と同じ気持ちでいる。諦めたくない。
どんなに才能がなくたって、成長はできる。
俺は今の今まで、北沢の成長を、少しだが見てきた。
ほんの短い時間だが、ずいぶんと文章が読みやすくなった。
北沢の才能は、決めつけていいものじゃない。
だとしたら、それを引き延ばせる存在が、大事になってくるのではないか?
そしてその存在は、つまるところ、
俺だ。
北沢は父親に逆らえない。おそらく母親もそうだろう。
だとしたらその父親を最後に説得できる可能性を持つのは、誰か?
俺だ。俺しかいない。
ならやるしかないだろう。好きな女の子のために立ち上がってなにが悪い。
意地をはってなにが悪い。諦めなくてなにが悪い。
「やるぞ」
「え?」
「だからやるぞと言ったんだ。北沢父を説得する」
「そ……………………んな。ケドどうやって?」
「小説家になりたいのなら、小説で納得させるしかない」
「……………………けど、私には才能はなかったんだよ」
「諦めんな勝手に。納得させればいい。
お前はどんな小説が感動すると思う?」
俺は真顔で聞いた。正直、俺ごときがなにを言っているんだ、という話である。
だが、ここは心を鬼にする必要がある。
俺は偉い。このときだけは、北沢の小説の師匠でないといけない。
「えっと、泣ける話を読んだとき?」
「違う」
「……じゃ、じゃあ、トリックのすぐれた小説?」
「それも違う」
「……………………その人のツボに刺さる小説ってこと?」
俺は首を横に振った。どれも違う。
「作者の熱量を感じた時だ。どれだけすぐれた小説でも、作者が手を抜いた作品って言うのは絶対に読み手にばれる。だが、熱意のこもった小説は、それだけで人を感動させることができる」
北沢の目が、見開かれた。俺は内心バクバクだった。
こんなことを俺が言ったところで、北沢は心動かされてくれるのかと。
だが、よかった。動かされてくれたようだ。
「一週間だ。一週間、小説を全力で書け。お前の書きたいものを書け。そこから俺が添削して、より良い作品に仕上げる。どうだ? これをお前の父親に読んでもらって、見せつけてやれ。これがアタシの作品なんだって、言ってやれ」
「私の……小説で?」
「そうだ」
そう言いつつも、俺には自信がなかった。
いや、北沢がうまくやってくれるか、自信がなかった。
北沢は努力の塊だ。本気を出せば、わからない。可能性を秘めている、としか言いようがない。
だが、現状力不足なのは間違いない。文章は多少読みやすくなったとは言え、まだ中の下レベルだ。
「クラスメイトに読んでもらうのは、そのあとでいい」
「そっか……」
北沢が目を輝かせた。その目に、力が宿った。
「うん……そうだよね。なに………………諦めてんだろ、私。夢なら自分で叶えなきゃダメだよね。……………………ごめん、目が覚めたよ」
俺は一瞬、ドキッとした。北沢の表情が変わったからだ。
強い決意を秘めていた。
「ありがとう、小島くん」
「お、おう……」
「やってやる。私の力で、お父さんを納得させてみせる」
「その意気だな」
「おかげで、やる気になった。私の小説指導、これからも引き続きお願いします」
「……任せとけ」
北沢はまっすぐに俺の目を見た。そして俺もまっすぐに北沢の目を見返した。
師匠と弟子の戦いも、ここにまた新たに始まった。
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