高橋久美 三

 私はあの日の朝の騒動を玄関のドア越しに聞いていた。様子が普通でないのは音だけでわかった。

 その日の夜、今朝のことを両親へ尋ねると、二人とも言葉を選びあぐねて困った顔をした。

 二人とも、うーん、と唸ったあと、母さんが口を開いた。

「あやしい人間が父さんのことを嗅ぎ回っとるんよ」

「家まで押しかけてくるのは初めてだよね」

「そうなんだ。公安には伝えたが、どこまで守ってくれるのやら」と父さんは言った。

「どんな人だったんけ?」

「最初は五日前の日曜の昼間で、若い男が一人。そのときは押し売りか何かだと思って追い払っちゃった」

 母さんは何でもないことのように言う。

「怖くはなかったんけ?」

「押し売りが怖くて石使いの妻なんかやってられんちゃ」

 母さんは目がくりくりしていて、リスにたとえられることが多い。父さんと同じ四〇歳だが、恐ろしいほどの童顔で、私と並んで歩いていると姉妹に間違われることはしょっちゅうだ。しかも笑顔は私の百倍かわいい。

 そんな母さんだが、じつは父さん以上に肝が据わっている。そのことを母さんに言うと、女は子どもを産むとだれでも肝っ玉母さんに変わるのよ、ときまって答える。ホントかな、と父さんに訊くと、母さんは昔から男前だったんだよ、と言う。仕事がトロッコの整備士で、趣味が車の機械いじりだから、たしかに男っぽくはある。だから母さんは肝の据わった男なのだ、というのが私の中での結論だ。

「二回目、つまり今朝は二人。そのうちの一人はものすごく強い男だった」

「ケガはなかった?」

「大丈夫。でもその男、あのムキムキの自衛隊三人を軽々と振りほどいて逃げてったの。信じらんないよね」

「ヒグマレベルだね」と私は言った。

「そう、ありゃヒグマちゃ」と母さんは言った。

「父さん殺されないよね?」

「大丈夫ちゃ」と父さんは笑って言った。

「奴らがほしいのは僕の命じゃなくて、僕の秘密のほうだから。僕が死んだら秘密もわかんなくなる。もしそうじゃなかったら、僕はとっくにヒグマに殺されとるよ」

「でも心配ちゃ」

 私がそう言うと、部屋の空気が重苦しくなった。

 秘密──。

 私は父さんに疑問をぶつけた。

「ねえ、〈秘密〉ってそんなに大事なんけ? こんな怖い思いするなら、もう〈秘密〉をしゃべっちゃえばいいんじゃないの?」

「そういうわけにはいかんのだよ」と父さんは言った。

「だいたいさ、〈秘密〉って何なの?」

「それは四月になったら教える。今はダメちゃ」

「そればっか」

 今は非常事態だというのに、なんでそんなに〈秘密〉に縛られているのか、その頑なさが私には理解できなかった。夫婦になっても〈秘密〉を明かされない母さんだって、そう思わないのか?

 私がふてくされていると、「デカフェ飲むけ?」と父さんが言った。

「ちょうだい」と母さんが言った。

「久美はどうする?」

「じゃあ、……ちょうだい」

 いやいや、ヒグマみたいなのに狙われて大変なのは父さんのほうなのだ。自分はなぜ父さんに気を遣わせるような口をきいているのか?

 父さんが立ち上がり、私たちに背を向ける。

 ポットで湯を六〇〇mL沸かす。紙フィルターを広げ、陶器のドリッパーにセットし、冷凍庫から取り出した粉のコーヒー豆をさじにすりきれ三杯入れる。沸いた湯を少しだけ注いで豆を蒸らすと、コーヒーの芳ばしい香りがふわっと立ちのぼる。その香りが生まれる瞬間を味わったあと、残りの湯をやさしく丸く注ぐ。暖かい無言。私の生まれる前からある、気持ちを立て直すルーチン。

「久美はミルク入れるんだよな」

「入れない」

「ほう。ついにブラックが飲めるようになったか」

「がんばる」

「コーヒーはがんばるもんじゃないぞ。好きなように飲め」

「イヤ」

「好きにしなさい」

「父さん」

「なんだい」

「今度はあたしがコーヒー淹れるから」

「そうかい。楽しみだね」

「楽しみにしてて」

 しばしの無言のあと、お湯がぜんぶ滴り落ちた。父さんはコーヒーを三つのカップに注ぐ。

 私たち三人はコーヒーを手にとってフーフーやりながら話をした。夏場のホットコーヒーもなかなかいいものだ。

 家に誰もいなくなったとき、東京から公安の人が何人か来て家の周りを調べたという。ちなみに公安は石使い関係者全員の家や車の鍵を所持している。

 彼らは停めてあった車二台から市販のGPS発信機を見つけた。初めは電波の発信を認められなかったが、ためしに車を揺らしてみると電波を感知した。停車時には電波を発しない省エネタイプのものだったという。他に何か細工がされていないか、念のため車は公安が持ち帰って調べることになった。だから今はガレージに代車の軽が二台停まっている。

 くわえて、玄関の物陰に十円玉くらいの、これも市販の小型カメラが何台か見つかったのであわせて取り除いたという。代わりに公安は、東京から遠隔監視できるごっつい監視カメラを四台設置していった。大きな家でもないし、本当は二台で十分なのだが、壊されてもいいように四台にしたのだという。そして電柱にもカメラを二台設置した。駐車している車を監視するためのものだという。

 あと、私の登下校時に護衛がつくことになった。土田ルリ子さんという女性の方で、父さん曰く、大変〈興味深い〉人らしい。

「石使いの血筋でもないし、石目さんたちのような〈ジーン〉でもない。なのに、僕たちとよく似ている」

「こんな話、母さんの前でしていいんけ?」

「土田さんは石使いとまったく無関係の人だ。かまわんちゃ」

「ほかに〈興味深い〉点はないんけ?」と母さんが尋ねた。

「なんと、土田さんも四〇歳なんだ」

「ほかには?」と母さんが言った。

「ねえ、どんな人なの?」と私は尋ねた。「二〇代にしか見えない母さんが嫉妬するほどきれいな人なの?」

「ホームページに写真があるよ」と父さんが言った。

 ホームページ?

「ほら、この人だよ」

 父さんがスマホを見せた。

「ええっ!」

 護衛というからにはメスゴリラみたいな人なんだろうなと勝手に想像していたのだが、じっさいはその真逆、とてもエレガントな細身の人だった。これは母さん、嫉妬するかもしれない。

 そしてもっと驚いたのが、そのエレガントな顔写真の下のキャプションに〈富山ガラス美術館館長・土田ルリ子〉とあったことだ。

「公安の人じゃないんだ!」

「久美は妖怪のほうがよかったんけ?」

「メスゴリラはいや」

「それならよかった」

「……でも、こんなか細い人で大丈夫なのかな?、って不安はある」

「ぜんぜん大丈夫ちゃ」

「土田さん、強いんけ?」

「ああ、チート級に強いよ」


    *


 七月十六日朝──。

 七時十五分に呼び鈴が鳴った。

「おはようございます。土田です」

 そう言って入ってきた土田さんは、黒のタイトなカットソーにダークブラウンのゆったりした上下のスーツ(アルマーニ?)、足元は先の尖ったローヒールの革靴という出立ちで、後ろを束ねたセミロングの栗色の髪に大ぶりのサングラスを乗せていた。柑橘系の爽やかな香りまでする。富山市のはずれの何もない田舎にはあまりに場違いな人だった。

 いっぽうの父さんと母さんはどちらも着古した作業着で、とくに母さんの作業着は洗っても落ちない油汚れがあちこちに染みになっている。

「ご足労おかけします」と父さんは言った。私は緊張して、あ、あ、としか言えなかった。

「娘の久美です。どうぞよろしくお願いします」と母さんが言った。

「よろしくお願いします」私は頭を下げた。

「はじめまして久美さん」

「はじめまして……」

 ダメだ。ぜんぜんダメだ。

 すると、

「あー、そない気ぃ張らんでもいいがにぃ!」

と土田さんが笑って言った。

「ははは、土田さん、富山弁うまくなりましたねえ」と父さんが言った。

「今の通じました? まんでうれしいちゃ!」

「土田さんはね、ご出身が東京なんだよ」

「そうなんですか」

 どうりで垢抜けているわけだ。

 土田さんのたどたどしい富山弁を聞いて、私の緊張はようやくやわらいだ。

 外からハイラックスの野太いエンジン音が聞こえてきて、やんだ。

「僕たちの迎えの車が来ました」

「はい」

「それで、……もしかすると、隊員と一緒に仕事をすることになるかもしれませんので……」

「……そうですね」

「仲間を簡単にご紹介だけさせていただきます」

 そう言って、父さん、母さん、土田さんの三人は外に出た。私は三人の後をついていった。

「〈ジーン〉のことはお聞きですか?」と父さんは小声で言った。

「ええ、話だけは伺っています」

 父さんたちは会話が隣近所に聞こえないよう、車の窓に顔を近づけた。隊員が窓を開けると、父さんはさらに小さな声で三人を紹介した。

「彼らはみな〈ジーン〉です。全員が同期の二七歳です。四年前、同じタイミングで〈ジーン〉の施術を受けました。

 運転席に座っているのが石目あきら君。彼は触れた相手の目を開けたままにすることができます。

 後部座席奥に座っているのが大口翔太君。彼は触れた相手の口を開けたままにすることができます。

 後部座席手前に座っているのが開門鉄雄君。彼は触れた相手の肛門を開けたままにすることができます。

 こちらは土田ルリ子さん」

「はじめまして、土田です」

「土田さんは手のひらでガラスをあやつります」

 え? ……それはたしかにすごい能力だけど、はたして強いって言えるのか?

 父さんは続けた。

「手のひらでガラスを微細な針に変え、痛みを感じさせることなく相手の血管に挿入することで、相手の心臓に致命傷を負わすことができます」

「よろしくお願いします」

 そう言って土田さんは会釈し、自衛隊の人も無言で会釈した。父さんと母さんがハイラックスに乗ると、けっきょく何の会話もないまま、石目さんはアクセルを踏んだ。


 私は土田さんに、コーヒーサーバーに残っていたコーヒーをカップに注いで手渡した。

「残り物ですけど。ブラックでいいですか?」

「ありがとう」

「あの、土田さん」

「なあに?」

「人を殺したことはあるんですか?」

「いいえ」

「じゃあ、父さんが言ってたことは嘘?」

「嘘じゃないよ。やろうと思えば簡単にできる。単にやらないだけ」

 しかし私は信用できなかった。

「久美さんは感情がそのまま顔に出てわかりやすいね」

「ごめんなさい」

「まあこんな話、信じろって言うほうが無理筋だよね。こんなことを信じちゃうようだったら詐欺師のカモにしかなれない。うん、私のいうことなんか信じちゃダメ」

 ???

「そうじゃなくて、自分の目でちゃんと見たことだけを信じましょう」

 土田さんはそう言って、パンツの左ポケットからビー玉サイズのガラス玉を一個手に取り、広げた手のひらの上に置いた。

「顔を近づけて、よーく見ててね」

「はい」

 すると、透き通ったガラス玉が白く濁り始めた。やがて形も霜柱のように変形していった。そしてガラスの霜柱は手のひらの中に沈んでいった。

 まるで生命の営みのようだった。

 私は土田さんの顔を見た。

「あの、これってもしかして、手のひらに刺さっていってるんですか」

「そうよ」

「痛くないんですか?」

「ぜーんぜん」

「血管の中へガラスが流れ出たりしませんか」

「大丈夫。コントロールしてるから」

 ガラスの霜柱の大部分は手のひらにあらかた吸い込まれてしまった。

「下から覗いてみて」

 私は床にひざをつき、土田さんの左手の甲を下から見上げた。手の甲には無数の極細のガラスがネギのヒゲ根のように生えていた。

 土田さんは右手の手のひらを左手に添え、手の甲からさらさらと落ちるガラスの霜柱を受け止めた。すると、その粉雪のようなガラスの破片は十秒ほどで元のガラス玉に形を変えた。

 無意識に息を止めていた私は大きく息を吐いた。

「私の手品、どうだった?」

 私は余韻の中にいた。

 ガラスがじわじわと有機的に変化していく様子はうっとりするほど美しく、幻想的だった。

「ガラス玉が手を貫通しました」

「そう。きちんとコントロールしたから貫通した。でもね、途中でコントロールをやめてしまうとどうなると思う?」

「はい、致命傷になりますね」

「そう。でも遅いな、こんなに遅いと敵にやられちゃうな、って久美さんの顔には書いてある」

「ごめんなさい」

「じゃあ今度は十倍速でやるよ」

 土田さんはふたたび左手の手のひらにガラス玉をのせた。そのガラス玉が、今度は下に、ストン、と添えていた右手に落ちた。十倍速なんてもんじゃない。一瞬だった。

 これはちょっとやばい。相手がゴリマッチョだろうがヒグマだろうが、要は少量のガラスがあれば、あとは相手に手のひらをかざすだけでいいのだ。まさにチート級だ。

「私のこと信頼してくれた?」

「はい」

「じゃあ、次は久美さんの番。手のひらを出して」

「え?」

 私はためらった。そのためらいは表情に出て土田さんへすぐに伝わる。

「人を信頼するってのは、久美さんが頭で思っているよりもずっと難しいことなのよ」

 土田さんは私の手のひらにガラス玉を置く。

「日常生活なら見せかけの信頼だけで十分」

 私のことだ。私はすぐにわかった気になる。

「でもね、登下校の時だけなんだけど、久美さんは私に命を預けるの。そして私は命を守る。この関係が成り立つには深い信頼関係が必要なの。久美さんはかしこいからわかるよね」

 そう言って土田さんは両手をガラス玉にかざした。

「大丈夫。肩の力を抜いて」

 さっきと同じように、ガラス玉が霜柱のようにゆっくりと変形する。そして私の手の中にじわじわと沈んでいく。

 痛みはまったくない。

 いま、ガラスの霜柱は私の手のひらを貫通している。

「左手を添えて」

 沈み続ける霜柱はやがて添えた左手の手のひらに、くしゃっ、と音もなく落ちた。体内を通過したはずなのに、血痕はまったくない。私は、小さなかき氷のようなその物質を、きれいだな、と思いながら眺めていた。そして土田さんが両手をかざすと、かき氷はもとのガラス玉にゆっくりと戻った。私はそれを手のひらの上で、人差し指でつついて転がした。

 土田さんはガラス玉を私の手のひらからつまみあげ、パンツの左ポケットに戻した。

「人を信頼するとはこういうこと。人間ってさ、めんどくさいよね」

「これは超能力なんですか?」

「違うよ。これはね、久美さんのとおんなじ能力」

「……」

 石の表面に粉をふかせる、いまや何の役にも立たないあの能力。もう何年も使っていない。

「八時だね。学校行こうか」


 土田さんと学校に行ったのは、この日の朝が最初で最後だった。

 父さんがさらわれたのだ。

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