赤影 二

 諜報活動開始から一週間後。

 メンバーの八名全員が李会の部屋に集まってテーブルを囲み、夕食の寿司をつまんでいる。

 年齢不明の七名を調査していた林紹葳は、六名が四〇歳でないと判明、一名が不明、と報告した。

 四〇歳と判明していた六名について浮気調査依頼をかけていた張于静、王淑燕、陳玲玉の三人は、調査の結果、六名はいずれもサラリーマンであり、自衛隊員ではなかった、と報告した。

「じゃあ、その不明の一人がシロだったら〈赤影〉は解散というわけか」と、戦闘員の唐俊亮はエイヒレを齧りながら言った。助っ人戦闘員である頼昌星、周克華の二人はそれらの報告を他人事のように、みなが食べないガリを渋い顔で噛みながら聞いていた。

「っていうか、〈不明〉ってなんだよ? 仕事してんのか?」と唐は林につっかかった。

「お前こそ何にもしてねえだろ」と林は食ってかかった。

「俺は言われたとおりに安くてうまい寿司屋を近くに見つけたぞ。今おまえらが食ってる〈すしだるま〉だ。こんなにうまくて一人二千円いかねえなんて、どうかしてるぜまったく」

「そんなのスマホで一分で探し出せるだろ。なに威張ってんだ?」

 李は逆上する林を制止して言った。

「林、寿司の話はいいから、その〈不明〉の奴について知ってることをみんなに教えてくれないか」

「……すまない」

「冷静沈着なお前らしくないぞ」

「ああ、……顔と声を覚えられたんだ。それだけじゃない。一般人の女に、スパイの俺が簡単に嵌められたんだ。だからこの数日、気分が穏やかではなかった」

「それが〈不明〉の奴なんだな」

「高橋誠一。富山市上滝っていうド田舎、立山への登り口あたりに住んでいる」

「駐屯地からはどれくらいだ?」

「車で一時間ってとこだ」

「ずいぶん遠いな」唐は落胆した様子で言った。

「ほかにわかっていることは?」

「どうでもいいことかもしれないが」

「なんでも言ってくれ」

「二階のベランダに洗濯物が干してあったんだが、その中に妙な服があった。薄い柔道着のような服だ」

「それは空手着じゃないのか?」

「いや、もう少しクリーム色をしていた」

「光の関係じゃないのか?」

「そうかもしれない。そして、もっとサイズがゆったりしているようだった」

「すると、高橋誠一は巨漢の空手家なのかもしれないな。唐、林といっしょに張り込んでくれないか?」

「ああ、いいぜ」

「顔と声がバレてるんだが」と林は言った。

「バレてるって言っても画質も音質も悪いインターホン越しだ。ちょっと変装して声音を低くすれば大丈夫だろ」と唐が言った。

「ああ、唐の言うとおりだ」と李が同意した。

「それとも、諜報がど素人の俺たちに任せるほうがいいと思うのか? 相手はお前を嵌めるようなつわものだぞ」と唐は言い、林の肩をポンと叩いた。

「わかったよ」


    *


 朝六時、高橋誠一宅から二十メートルほど離れた空き家前に林はハイエースを停めた。ハイエースから見て高橋宅は右斜め前方にある。ハイエースの車体側面には〈山田電機工事(株)〉と印刷されたマグネットテープが貼られていて、林と唐の二人は、ワークマンで買ってきた、電気工事作業員っぽく見える紺色のツナギ服を着ている。また林はジェルで髪を七三に固め、銀縁の伊達メガネをかけて変装している。

「おまえ〈山田〉が好きだよな」と助手席の唐は運転席の林に言った。「選挙チラシも〈山田喜一〉だったし」

「俺の苗字の〈林〉と〈山田喜一〉の共通点はわかるか?」

「さあな」

「どちらも左右対称なんだ。左右対称だと、変な話だが、なんだか心が落ち着くんだ。左右で均衡が取れている」

「俺は名前が〈唐〉だから、そういうのはよくわからん」

「平常心というのはこの仕事で一番大事なことだ。だから俺はできるかぎりのことをする」

「だが、お前の名前の〈紹葳〉はぜんぜんだな」

「ああ。だが嫌いじゃない。なにもかもが左右対称ってのも、それはそれで気持ちが悪いもんだからな」

 そう言いながら、林は双眼鏡をのぞいた。

「よく見える」

 唐も自分の双眼鏡をのぞいた。

「もっと近づけないのか?」

「今日の目標は、高橋誠一をこの目で確認すること、家族構成を確認すること、そしてカメラを設置すること。この三つだ。離れてできることは極力離れてやる」

「職場は突き止めないのか?」

「それは明日以降だ。優先度はカメラ設置の方が高い。でないと毎回こうやって張り込みしないといけないことになる」

「あのよう」

「なんだ」

「小便がしたいんだが、ちょっとしてきていいか?」

 林は無言で紙コップと空のペットボトルを渡した。

「……これにすんのか?」

「紙コップに出して、そいつをペットボトルに注ぎ、栓をする。張り込みの常識だ」


 七時半、家の門の前にカーキ色のハイラックスがハイエースに対し正面を向いて停まった。

「なんだ、お出迎えか? たいそうなご身分だ」と唐が言った。

「ちくしょう、ハイラックスがデカ過ぎてなんも見えねえ」と林が双眼鏡をのぞきながら嘆いた。ハイラックスの車高は一八〇センチ以上ある。

 後部ドアが開き、ハイラックスが二回揺れた。

「二人乗ったか?」と唐が訊いた。

「ああ、二人だ」

 そしてハイラックスは道を曲がって見えなくなった。

「追いかけるか?」と唐が言った。

「おまえ人の話をぜんぜん聞いてないな。それは明日以降だ。まだ人が出てくるかもしれない」

 しばらく待っていると、八時前に少女が一人出てきた。

「今度はよく見えるな。……子どもはかわいいな。高校生かな」

「この時間から歩いて通える高校はない。中学生だろう。……おい、見たか?」

「ん? なにを?」

「いま鍵を閉めただろう」

「おまえ、家を出るときに鍵をかけないのか? どんだけ田舎もんなんだ?」

「家の中に誰か残っていたら、ふつう、中の人が鍵をかけるだろう」

「あー、そうか!」

「そう、家の中には誰もいない。つまり高橋家は三人暮らしだ」

 少女が道を曲がって姿が見えなくなってから、林はハイエースを高橋家の玄関を塞ぐ位置に横付けした。そして家に出入りする人の様子が見えるよう、小型監視カメラを玄関の物陰四ヶ所に設置した。林は玄関前に立つと、スマホでカメラの映像を記録し、唐に見せた。

「すげーなこれ。まるでスパイだ」

「スパイだよ。バッテリーは三日くらいもつ。三日もあれば顔を記録するのに十分だろう」

 そしてガレージの車にGPSを取り付ける。ガレージにはグレーのスバル・フォレスターと年季の入った白の三菱・ジープの二台があった。

「車の正面には立つなよ。ドラレコの視界に入ると記録されるかもしれないからな。そして絶対に車を揺らすなよ。これも記録されちまうからな」

「じゃあお前やれよ」

 このGPSは磁石でくっつくようにできている。林は車体の下にくっつけた。

「こいつを明日、あのハイラックスにもくっつける」

「どうやって?」

「おまえ道を訊け。おまえが注意を引いている間に俺がくっつける」

「そういうのはおまえが得意だろ」

「俺は勘付かれる可能性がある。なあに、五秒あれば大丈夫だ。五秒だけ気を引いてくれ。頼む、お願いだ」

「おまえも人に頼み事をするんだな。まあいい、やるさ。うまくいったらおまえのイクラ軍艦をもらうぞ」

「助かるぜ。イクラでもカッパでも好きなのを食ってくれ」

「カッパはべつにいいや」

「運転席の人間はこの辺に無案内だろうから、こう訊いてくれ。『すいません、ここは上滝の何番地でしょうか?』。おそらく運転手は答えられない。そして後部座席の男はすぐに『五三四番地です』と答えるだろう。それが高橋誠一だ」

「おまえ頭いいな」

「何言ってんだ、もっと設定を詰めないといけない。とりあえず今日は帰ろう」


    *


 翌朝、林と唐は昨日と同じ場所にハイエースを停め、ハイラックスが来るのを待っていた。するとハイラックスは昨日と同じ七時半にやってきた。唐は正面から小走りに駆け寄り、林は唐とは逆方向へ、ハイエースの陰に隠れるように歩いて、ハイラックスの裏側に回り込んだ。

「あの、ちょっとすいません」と唐はハイラックスの運転席に座る男に尋ねた。「教えてほしいんですけど、ここは上滝の何番地でしょうか?」

「さあ……」男はそう言って後ろを振り向いた。

「道に迷ったんですか?」と、後部座席の小柄な女が尋ねる。

「ええ、そうなんですよ」

「工事の人?」

「はい、そうです」

「朝からごくろうさま」

「いえ、仕事ですから」

「あなた、昨日もいたよね。あの車の人でしょ」

「……あ、ええ」

「昨日はちゃんと工事できたの」

「え、あ、はい」

「昨日の現場は何番地だったの?」

「……あ、ちょっと忘れました」

「あそこの空き家?」

「ええ、そうです」

「で、今日は別の空き家?」

「はい」

「番地は?」

「六二三番地です」

「ふふ、そんな番地はないんだなあ」

「え、……あれ、四二三番地だったかなあ……」

「ところで、空き家で何の工事をしてるのかしら」

「電気工事です」

「ふうん。漏電でもあったの?」

「そうです。漏電が多くて」

「空き家は電気が通ってないのに、漏電なんかするわけないじゃない」

「あ……」

「あなた怪しいから通報するね。あと写真も撮らせてね」

 女がそう言った瞬間、いっせいに屈強な男三人がハイラックスから飛び降り、唐を取り押さえようと飛びかかった。が、唐は三人を投げ捨てるように振りほどき、ハイエースまで一目散に逃げた。

 林はすでにGPSの取り付けを終え、エンジンをかけて唐を待っていた。

 唐は助手席に飛び乗った。次の瞬間、ハイエースは猛スピードで走り去った。

「あああ!」と唐は大口を開けたままうめいている。目も見開いたままだで、白目が真っ赤に充血している。

「どうしたんだ? ……なんか臭いぞ」

 唐は脱糞していた。

「おい、まじかよ。なにやってんだよ」

「あああ!」

「なんか言えよ」

「あああああああ!」

 唐はおかしくなってしまった。が、さいわいなことにハイラックスは追いかけてはこなかった。

「助かった……」

 林は窓を全開した。到着まであと三〇分ちょっとこの臭いに付き合わないといけない。ったく、他人のクソの臭いはどうしてこうも強烈なんだ。

 それにしても唐はどうなっちまったのか。

 唐の体はずっと硬直していた。

 が、一分もすると、呪いが解けたかのように脱力した。

「……ああ、死ぬかと思った」

「おお、やっと戻ったな。痛みを感じないおまえでも〈死ぬかも〉なんて思ったりするのか?」

「体が乗っ取られたんだ。誰だってそう思うさ」

「どういうことだ?」

「やつら〈ジーン〉だ」

「え?」

 ありえない──林は頭が混乱した。しかしこの、体がとつぜん乗っ取られるような症状こそは、脳に直接介入する〈ジーン〉の最大の特徴だ。

「〈ジーン〉ってことは、やつらも人民解放軍の仲間なのか?」

「まさか」

「じゃあ……」

「日本自衛隊だ。やつらは護衛だ。そして俺に襲いかからなかった小柄な男こそが、高橋スタープラチナの正体だ」

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