高橋久美 二

 立山のショーから十日も経つと、さすがに祈祷の話をする人もいなくなった。

 六限目が終わってすぐ、私は隣の教室に入った。

「明官さん」

「はい……」

 声が消え入りそうだ。明官さんは怯えているのか? ゆきしろがこっちを見ている。私はあごをしゃくって、お前は帰れ、と合図した。

「このあと、ちょっと時間いいかな」

「あ、はい……」

 ゆきしろがこっちに来る。はあ?

「なんでこっち来んの?」

「べつにいいじゃん」

 私はゆきしろを睨んだ。明官玲奈からは逃げろ、って、父さんがあんなに注意したのを忘れたのか、このバカ男子が。

「誠一おじさんに言われたこと、忘れたとは言わせないよ」

「そ、そうだな……」

 そう言ってゆきしろは退散した。その背中を明官さんが犬でも見るかのように目で追っている。

 が、ゆきしろは振り返って、

「明官さん、びびっとるぞ。あんまひどいことすんなよ」

と言った。なにを言っている? びびってるのはお前のほうだろ。

「するわけないじゃん」と私は答えた。


    *


 明官さんと私は上滝駅にむかって歩いている。

「明官さん、ちょっと明るくなった?」

「え、そんな……」

「最近は別人格に乗っ取られたりしてないんけ?」

「あ、……ええ、おかげさまで」

「別人格の明官さんも、あたしはけっこう好きっちゃ」

「……伝えときます」

「明官さん、カバンにAirTagつけとるんやね。なんで?」

「迷子になったり、どこかでぶっ倒れても大丈夫なようにです」

「ははは、面白いね」

「あはは……」

 私には話術がない。

「あのう、今日は急にごめんね。大事な話があって」

「いえ。……なんでしょう?」

「病院で検査を受けてほしいの」

「頭がおかしいからですか?」明官さんは真顔でそう言った。

「あたしは冗談を言っているんじゃないのよ」

「すいません。……でも、検査なら二ヶ月に一回、大学病院で受けているんですが……」

「その検査じゃないの」

「じゃあ、何の検査……」

「能力」

「能力?」

「行って帰ってくるのに六時くらいまでかかるけど、このあといいかな」

 明官さんが立ち止まる。

「今からですか?」

「急でごめん。もう予定組んじゃったの」

 我ながらなんて強引なんだ。私は明官さんの前に立ち、彼女の両手を握った。

「でも、なんで高橋さんが……」

「あたしはね、じつは能力者を探す仕事をこっそりやっとるの」

「えっ?」

「明官さん。あなたにはね、特別な能力があるかもしれんの」

「高橋さん……」

 あたま大丈夫?、と言いたいのだろう。

「あなたは、空間が歪んでいる、と言った。そして、歪みが消えてなくなった、とも言った」

「いえ、あの、そのう……」

「他の人には、そんなの見えないの。見えるはずがないの!」

「すいません!」

「なに謝っとるの。明官さん、これはすごいことなのよ。あなたは選ばれた人なのかもしれんのよ」

「あ、あれは、私の思い違いかもと、思ったりも……」

 上滝駅の前で父さんのスバル・フォレスターが待っていた。

「さあ、乗って」

 私は明官さんを急かして後部座席に座らせた。運転席の父さんがうしろを振り向く。

「こんにちは、明官さん。久美の父です。今日は急にごめんね。大丈夫、ぜんぜん痛くないから」

 そう言って父さんがアクセルを踏んだ。そのエンジン音に紛れて、黒魔術師、と明官さんが小さく呟いたのを、私は聞き逃さなかった。

「私の〈能力〉って……」

「〈僕〉でいいよ」

 父さんがバックミラーごしに笑って言った。明官さんが私の顔を見る。そして笑顔になった。

「僕の〈能力〉って何なんですか?」

 よし、明官さんのスイッチが入った。

「知りたいだろ? それを調べに行くんだ!」

「はい、僕、知りたいです!」


 病院は診療時間終了間近で、帰路につく患者や片付けをする看護師でフロアは雑然としていた。その中を私たちは急ぎ足で歩き、森教授の待つ診察室へ入った。

「やあこんにちは」

 あいさつもそこそこに、教授は明官さんを前に座らせて、パソコンのモニターを凝視する。私と父さんは付き添いの家族のように明官さんの後ろでおとなしく座っている。

「カルテによれば、心臓と肺がずっと悪かったんだね」

「はい」

「今は大丈夫?」

「はい。体育もふつうに出れています」

「それはよかった」

「はい」

「ステントは入ってる?」

「もう入っていません」

 小声で、〈ステント〉って何?、と父さんに聞くと、血管を拡げる金具だよ、と教えてくれた。

「ほかに金属は」

「ないと思います」

「念のため、あとでレントゲン撮るね」

「はい」

「あと、生理は重い? 軽い?」

「……」

 森教授が、しっしっ、と手で私たちを追い払う。私たちは診察室の外に出た。


 それから三十分後、私たち三人は診療時間を終えて誰もいなくなった暗い廊下を歩き、そこだけ赤いランプの灯るMRI室に入った。

 中では検査技師の男性が待っていた。何億円もする巨大な機械が、シュッホー、シュッホー、と不気味な呼吸音を立てている。

「明官さん、MRIはやったことあるかな?」

「いいえ」

「じゃあ簡単に説明するね。このMRIは強力な磁石の力で体の中を見る機械です。ノイズ系バンドのような大騒音が出ますが、体には一切害はありません」

 〈ノイズ系バンド〉って何、と父さんに訊くと、非常階段とかだよ、と答えた。意味わかんないよ、と言ったら、わかんなくていいよ、すぐわかるから、と答えた。

「金属は全部外してもらいます。あそこの更衣室に検査着を用意していますので、パンツ以外全部脱いで検査着に着替えてきてください」

「はい」

 そう答えて明官さんは更衣室に消えた。

「今日は変なことお願いしてすいません」と父さんが言った。

「いえいえ、こんなことをするのは初めてなので、ちょっと楽しみなんですよ」と技師の人が言った。

「あのう、〈ノイズ系バンド〉って何ですか?」と私は尋ねた。

「あはは、好奇心の強いお嬢さんですね。たとえば、……デビューしたての頃の椎名林檎が、小さなライブハウスで演奏してたやつなんか、けっこうノイズ系でしたね。アナログ楽器に、アナログのエフェクターをかましたり、ハウリングさせたりして、元の音がわからないくらいに音を歪ませ、耳をつんざく騒音にするんです。いまは何でもデジタルだから、もう絶滅危惧種ですね」

「騒音のどこがいいんですか?」

「いい質問です。濁ったでかい音を出したり聞いたりするとね、自分の中の濁ったものが解放される気がするんですよ」

「それって、もしかして癒しですか?」

「そう、癒しです。MRIの轟音は僕を優しく癒してくれるんです。あそこのモニター室で一緒に癒されましょう」

「はい」

 明官さんが薄桃色の上下の検査着を着て戻ってきた。

「部屋の中は寒いから、これを羽織って」と、技師の人はフリースの大きなストールを渡した。

「ふつうMRIはあのドーナツの穴に入るんだけど、今日は入りません。かわりに、あの椅子に座ってもらいます」

 技師の人の指の先、MRIのすぐ前に、穴と向かい合うようにプラスチックの椅子が一脚置かれている。

「明官さんにはこの穴をじっと見てもらいます。僕はこれから穴の中の空間の、左右どちらかを磁気で歪めます。明官さんは、むかって右側が歪んだと思ったら右手を、左側が歪んだと思ったら左手をあげてください。いいかな?」

「はい」

「気分が悪くなったらこのボタンを押してね」

「はい」

「じゃあ、このイヤーマフを耳にはめて、検査開始だ!」

「はい!」


 父さんと私は技師の人と一緒にモニター室に入れてもらった。分厚いガラスの向こうで、明官さんが左右の手を挙げたり下げたりしている。

「ほんとうるさいですね」

「中は死ぬほどうるさいですよ」

 技師の人はそう言いながら、DJのように両手で機械を操作しつつ、明官さんの挙げた手を記録していく。もう完全にこの人の名前を訊くタイミングを逸してしまった。

「でも私、この音、嫌いじゃないです」

「そうですか。女性には割と人気なんです。お父さんはどうです?」

「僕は勘弁してもらいたいな」

「心が澄み渡っている証拠ですね」

「ええ、愚痴はぜんぶ神様に聞いてもらうんです。だから心はいつでも軽いんですよ」

「そうですか」

 技師の人は忙しなく動かしていた手を止めた。

「信仰のある人は強いですよね。オリンピックの百メートル決勝とか見ていると、つくづくそう思いますよ。だって、みんな十字を切って、祈りを呟いているじゃないですか。ああ、これがあるから、この人たちは足が速いんだな、日本人では勝てないんだな、って思いますもん」

「僕はいくら祈ったところで無信仰の娘にすら勝てませんけどね、ははは」

「負けて悔しがるのが子ども、負けて喜ぶのが大人というものです。高橋さんは幸せそうでいいですね」

「いいこと言うね。ところで、あなたのお名前は?」

「能松です」

「あれ、〈能松〉って」

「能松きよら、臆病者の能松家の人間です」

「っていうことは、僕のいとこ?」

「そうです」

「いやあ、富山市は狭いねえ」

「コンパクトシティですから」

 〈能松〉は祖母の旧姓であり、祖父の妹の嫁ぎ先でもある。技師の能松きよらさんは祖父の妹の子なのだという。能松家は代々続く裕福な商家で、石使いのサポート体制が脆弱で石使いがまだ貧しかった頃、金銭面で大いに石使いをサポートしたと聞く。それと引き換えに、能松家は金銭で代え難いもの、つまり石使いの血を得た。当初は能松家から石使いを出そうともくろんでいたらしい。そして石使いの能力を利用して立山に安全な土地を確保し、ホテル事業を起こそうと考えていた。が、石使いが命懸けの危険な職業だと肌身で知って、また相次いで石使いが早逝していくのを目の当たりにして、能松家は立山から完全に撤退した。そして今では親戚付き合いは途絶えている。

「じゃあ、あなたも磁場が見えるんですか?」

「ええ。でもこんな強い磁場の中で見ようとしたら、眩しすぎて失明しますけどね」

「僕もね、検査室にいるときは目がチカチカしてしょうがなかったんですよ」

「日頃から鍛えてらっしゃるから敏感なんですね」

「あのう、明官さんは大丈夫なんですか?」と私は尋ねた。

「ほら、楽しそうに手を上げているよ」と能松さんは答えた。


    *


 今回は父さんのアイディアのおかげで、明官さんの目玉をほじくらずに済ますことができた。

「十歳までずっと入院できる病院なんて、ずいぶんと限られないかな?」

 そこで調べてみると、長期入院が可能な小児科のある病院は、富山県では富山大学医学部附属病院だけだった。

「じゃあ、そこに明官さんのカルテがあるってことで決まりだな。で、今も病院に通ってるんだって?」

「うん。検査でたまに学校を休んでるって言っとった」

「ということは、附属病院のカルテは最新なんだな。そして森教授はそのカルテを自由に見ることができる。調査事項はだいぶ減るし、教授は下調べもできる」

「なるほど。あとは目玉だよね」

「それなんだが、今までの〈調査〉は、対象者が暴れて抵抗するのが前提になっていた。でも、自ら進んで〈調査〉に協力するとしたらどうだろう?」

「進んで目玉をほじくられる人はいないと思うよ」

「要は磁場が見えるかどうかを確かめられればいいんちゃ。で、それにうってつけの機材が病院にはあることに僕は気づいたんだ。MRI──磁石の化け物だ」

 MRIをつかって〈調査〉は行えないか、と父さんは森教授にメールで問い合わせた。その翌日、教授は、できる、と返信した。しかし自分の研究には何も資するところがないので正直気乗りはしない、とも伝えた。

「よし。まさに〈尋ねよ、さらば見出さん〉だな。あとは久美が、明官さんの中二病スイッチをオンにしてくれればOKだ」

「どういうこと?」

「彼女の中には〈僕〉がいる」

「それ、たぶん演技だよ」

「いや、誰だって自分の中にひとつやふたつの別人格が飼われているもんだよ。久美にもね」

「そう? そんなことないと思うけど」

「破綻がないから気づかないだけさ。で、〈僕〉人格は自分に超能力があると妄想している、というか、願っている。だから、君の能力が知りたいんだ、と熱量を込めて言えば、〈僕〉人格は必ず応えてくれるはずなんだ。だからいいな、まかせたぞ」

 熱く語るのは私が大の苦手とするところだが、いやだ、とは言えなかった。私のひと頑張りで一人の女子の目玉がほじくられずに済むのだから。


 ──明官さん。あなたにはね、特別な能力があるかもしれんの


と、自然かつ熱量を込めて言えるように、私は何度も練習した。


    *


 一週間後、森教授からメールが来た。

 結果はシロだった。

 明官さんは十五歳になってもまだ無生理だが、染色体には異常がなく、成長ホルモンも、値は低いが、病気というほどでもない。骨年齢を測ったらまだ十一、二歳で、たぶんもうすぐ生理が来るだろう、とのこと。

 そして磁場は、九五%以上の確率で、見えていないという。

 私はほっとした。

 もし明官さんに磁場が見えるのなら、親族もろとも秘密厳守を強いられ、一生を公安に付きまとわれるばかりか、下手をすれば殺されることになるのだから。

「ちゃんと伝えるんだぞ」

「うん……」

 自分に能力がないとわかると、さぞかしがっかりするだろうな。落ち込むだろうな。

「いや、別にいいか」と父さんは呟いた。

「え?」


    *


「明官さん、いっしょに帰りましょ」

「はい」

 明官さんは笑顔だったが、いつにもまして緊張している。

 ゆきしろがまたこっちを見ている。なんなんだこいつ。……そうか、私が明官さんから根掘り葉掘り丸裸にされるのでは、と心配しているのか。そういうことだったのか。

「わかっとるって」

 私は安心させるために、遠くのゆきしろに聞こえるように言った。が、ゆきしろはなぜだかびっくりした顔をして、逃げるように教室を出て行った。まったく、意味がわからない。そんなんだから女子から〈キョドり野郎〉って言われるんだよ。

「花咲神社に行こうか?」

「いや、あそこはちょっと……」

「嫌? 通る人多いもんね。じゃあどこにしよう?」

「ウチ、来ます?」

「え、いいの?」

「ウチ、すぐそこの花崎団地なんで」

「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」

 家に招待してくれるなんて、私のことを友達と認識してくれているのだろうか? ちょっと嬉しいじゃないか。

 道すがら明官さんは、ゆきしろの小さいころの様子を尋ねてきた。

 いつから祈祷師をやっているのか。なぜ祈祷師になろうと考えたのか。お祈りをしないとき、ふだんは誰と、何をして遊んでいたのか。どんな性格の子どもで、どんなアニメが好きで、どんな本を読んでいたのか。

 魔術に興味があったのか。魔術に何を求めていたのか。どんな願い事があったのか。身を蝕まれても叶えたい願いはあったのか。

 将来の夢は何だったのか。やはり祈祷師になりたかったのか。そして今でも祈祷師になりたいのか。

 迷いはないのか。人に悩みを相談したりするのか。人に弱い部分を見せたりするのか。醜いところはあったりするのか。卑怯なところや、臆病なところ、残酷なところはあったりするのか。

 ゆきしろの嫌な面が見えてしまったとき、私はゆきしろのことが嫌いになったのか。あるいは変わらなかったのか。それとも、相手のことをより深く知ったことにより、かえって絆が深まったのか。

 初恋の人はどんな人だったのか。失恋したことはあるのか。告白されたことはあるのか。ほんとうに彼女はいなかったのか。好きなアイドルはいるのか。幼い頃、私のことを恋愛対象として、あるいは異性として見たことはあるのか。そのとき彼はどれくらい誠実だったのか、あるいは臆病だったのか。

「僕は頭がおかしいのです」

「そんなことないよ!」

 私はいまだかつて、こんなにも貪欲に、こんなにも深く他人を知りたいと思ったことはなかった。ナギやハルは仲のいい友達だが、私は二人が好きだったアニメや本などろくに知らないし、嫌な面なんか知りたいと思ったこともない。私にとってのナギやハルは、私の中で完結していて、無矛盾で、すべてが明らかで、だから訊きたいことも一切ないのだ。

 しかし明官さんの横にいると、それではとってもまずいような気がしてきた。いったい他人を知りたいという欲望は、明官さんだけが深いのか、あるいはこれくらいの深さは普通で、私だけがうわべだけでわかった気になっていたのか。いずれにしても、私が思い上がっていたことだけは確かだ。

「ここが僕のウチです。この時間はだれもいないので、どうぞ遠慮しないでください」

 そこは水色のきれいな二階建ての家だった。アプローチの両脇にはまっしろな玉砂利がきれいに敷かれている。雑草もほとんど生えていない。

「絵本に出てきそうなお家だね」

「はい。でも草抜きがひと苦労なんですよ。成長しちゃうと根っこが抜けなくなったりして。それに虫も石の上でよく死んでますし」

「明官さんが手入れしとるの?」

「気付いた人がやります。両親より私の帰りが早いので、だいたい私がやってます」

「大変ね」

「大変なのは慣れてますから」

 玄関に入ると驚きの光景が広がっていた。靴箱の上と廊下の飾り棚に種々雑多なぬいぐるみが数十個、隙間なくぎっしりならんでいるのだ。内訳はアンパンマンやドラえもん、しまじろうが大半を占め、さながらおもちゃ屋さんの幼児向けぬいぐるみコーナーだった。

「うわ、かわいい! それにしてもすごい数だね」

「入院している時にいろんな人からいただいたものです。捨てられなくて」

「友だち多かったんだね」

「いえ、お見舞いの人じゃなくて、どれもいっしょに入院していた人からのいただきものです。僕は学校に行ったことがなくて、病院からもほとんど出られなかったから、病棟のワンフロアだけが世界の全てでした。だから友だちというか、知ってる人じたいが少なかったんです」

「でも病院って広いんでしょ。何人くらいいたの?」

「赤ちゃんを除くと、だいたい十人かそこらでしょうか」

「それくらいの人数だとみんな友達になれるね」

「そうですね。今の僕の友だちよりずっと多いですね。あはは」

「仲よかったの?」

「そりゃあ、みんな人間できてましたから」

「ねえ、どんなことして遊んだの?」

「そうですね。テレビをいっしょに見たり、画用紙で工作をしたり、あと、しりとりとか。いっしょにひらがなの勉強をしたり、絵本を読んだりなんかもしました」

「へえ、なんか楽しそう」

「外で遊べないほかは、幼稚園とおんなじですね」

「で、いまでも会ったりするの?」

「もう、いませんから……」

 …………。

 私は言葉を失った。

 小児病棟に長期入院することが何を意味するのか、この瞬間まで私は考えもしなかった。治療が長引いて大変だったね、くらいにしか思っていなかった。

 このぬいぐるみのひとつひとつは、どういう経緯で明官さんの手に渡ったのだろう。小さな子どもが、お気に入りのぬいぐるみを、何の理由もなく人に与えることがあるだろうか。

 子どもを愛する親は、なぜ自分の子どもだけが、と未だ生きている同室の子どもたちを恨めしく思ったかもしれない。しかしその恨めしいはずの子どもたちが、じつは自分の子どものかけがえのない友だちだったとしたらどうだろう。親である自分たちよりもはるかに濃密な時間をともに過ごし、そして今、自分の子どものために悲しんでくれているとしたら。

 そして、この閉ざされた空間にいる十人かそこらの子どもたちが、自分の子どもの世界のすべて、そして人生のすべてだったとしたら──。

 親はその、生と死の区別ががあいまいな世界に住む子どもたちの、どこか達観したような目の中に、自分の子どもがまだ生きていることを確信するのではないか。

 そして、うつろいやすい子どもの記憶から我が子の存在が消えてしまわぬよう願うのではないか。


 ──あなたに受け取ってほしい。


 幼い明官さんは小さな体でその願いを受け止め続け、今でもこうして約束を果たし続けている。

 目の前にいるこの小さな女の子は、いったいどれほど多くの子どもを見送ってきたというのだろう。どれほど多くの無念を願いへと変え、どれほど多くの子どもを今なお心の中で養い続けているというのだろう。私だったらこんな数のぬいぐるみに囲まれて暮らすなんて、一時間ですらとうてい無理だ。心が破裂してしまう。

 底の浅い私には、その深さが──。

 私は気づくと膝をつき、明官さんにすがって泣いていた。

「みんな喜んでますよ」

 そう言って明官さんは小さな手で私の頭を撫でてくれた。


「二階が僕の部屋です。どうぞ」

 部屋に入ると、私の知らない少年キャラたちが戦闘ポーズを決めているアニメか何かのポスターが出迎えてくれた。そういうのが何枚か壁に貼ってある。本棚には百冊くらいのラノベが出版社別にきれいにならんでいて、ところどころ少し色あせたポケモンのぬいぐるみが嵌まっている。よく見るとどのポケモンも、あちこちにしみがあり、すこし形がゆがんでいて、毛並みの悪いところがあったり、糸がほつれていたりしていた。

「これでよく遊んだんです。バトルごっことかして」

 私は懸命に言葉を探したが、なにも見つけられなかった。

「この子たち、ちょっとくさいんです。でも、疲れたときなんか、こうやって……」

 明官さんはそう言ってカビゴンのぬいぐるみを手に取り、顔に押し付けた。

「きゅーっと匂いを吸い込むと、力をもらえるんです」

 私はヤドンに手を伸ばしかけてやめた。

「さわっていいですよ」

「いや、やめとくよ」

 今さわってしまったら、またおかしくなってしまうのは目に見えている。もし匂いを嗅いでしまったら、今後そういう匂いに出会うたびに、私は取り乱してしまうことになる。

 わかっている。私はそうやっていつも予防線を張ってしまうから、いつまでたっても底の浅い人間のままなのだ。けっして明官さんのように深くはなれないのだ。

 ベッドのヘッドボードには、二頭身の少年キャラのぬいぐるみが五体仲良くならんでいる。

「これは僕が買った子たちです」

「そう」

「こう見えて、みんな文豪なんですよ。この子が谷崎潤一郎」

「えー? この爽やか君が? 本物の谷崎はザ・むっつりスケベって顔なんだよ」

「そんなこと言わないでくださいよ!」

 谷崎のおかげで私はすこし気持ちが軽くなった。五人の文豪の正体が判明したところで、私は話を切り出した。

「あのね、検査の結果なんだけど」

「はい」

「なんと、明官さんには、わずかだけれど、能力の存在が認められました!」

「え、ほんとうですか!」

「よかったね!」

「うれしいです!」

 そう言って明官さんは笑顔を見せてくれた。

 が、その笑顔は十秒も経たずに消えてしまった。

「ごめんなさい。やっぱりムリです」

「え? どうしたの? なにがムリなの?」

「わかっているんです。僕には何の能力もないんです」

「……」

「MRIの検査のとき、僕、なんにもわからなかったんです」

「でもあのとき明官さん、とっても楽しそうだったよ。まるで自分の能力が開花したような、そんな気分なのかな、って思ったんだけど……」

「逆です。あー、なんにもわかんねーや、僕には能力なんかこれっぽっちもなかったんだ、って、もうやけくそな気分で、ただ自分を笑うしかなかったんです」

「そうだったの」

 しかし明官さんの表情はどこか晴れやかだった。

「あれから僕は考えたんです。特別な能力を持つ人は、ほんとうに特別なんだろうか? 能力を持たない人は、特別な存在にはなれないんだろうか?」

 磁場が見えなくなった私が、もはや特別な存在でないのは明らかだった。しかしそうではない?──そんなこと、私は考えもしなかった。

「僕は特別ではない。しかし特別でありたい。特別であるはずだ。特別でなければ困る。でも、どうやったら特別になれるのか?」

 そう言って、明官さんは棚からヒトカゲを取り出した。

「僕には答えがわかりませんでした。でも、この子たちが教えてくれました」

 ああ、またぬいぐるみだ。

 いったい、この人は何度私を打ち負かしたら気が済むのだろう……。

「この子の持ち主は元気君。僕にとって特別な存在でした。なぜ特別なのか? それは、僕が元気君を大好きだったからです」

 明官さんは、元気君に愛されすぎて尻尾の炎がもげてしまったヒトカゲをぎゅうっと抱きしめ、顔をうずめて深呼吸する。そして顔をうずめたままくぐもった声を発する。

「特別である理由はそれだけです。たったそれだけです。でも、それだけで十分じゃないですか」

「そうだよね」

「あとはどうでもいいんです……」

 ヒトカゲに顔をうずめたまま、明官さんはその場にへたりと座り込んだ。そして鼻をすすりながら小さな肩を震わせていた。

 こんなとき、そばに寄り添って肩に手を回したらいいのか、あるいは何もせずに本人の気の済むまで見守っていたほうがいいのか──そんなことすら頭で考えてしまう自分が私は心底いやだった。

 やがて明官さんは顔をあげ、すっきりした表情で立ち上がると、ヒトカゲを元の場所に収めた。

「僕は、たった一人にとっての特別でありたいんです」

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