結城史郎 二

「何度も訊いて悪いんだけど、お前、あれ、ほんとうに手品なんけ?」と法土が尋ねる。

「お前はこう答える。『手品だよ』と」と日合が低くつぶやく。

「手品だよ」と俺が言う。

「そしてお前はこう言う。『信じらんねえ』と」と日合が低くつぶやく。

「信じらんねえ。……って、お前はなんなんだ?」と法土。

「じつは俺には十秒先のことがわかるんちゃ」と日合がジョジョ立ちしながら言う。

「へえ。じゃあ俺は今から山科さんに『好きな男子の名前教えて』と訊いてみるよ。山科さんはなんと答えてくれるかな?」

 山科さんはインスタのためだけに生きている性格最悪の美少女だ。

「『あー? 死ねよクソ』と言う」

「やっぱ訊くのやめとくわ」

「『法土くんが好き♡』と言う」

「どっちだよ」

 大勢の人が昨日のことを尋ねてきたが、俺はみんな平等に、極力そっけなく、手品だよ、と醒めた口調で答えた。すると質問する人の熱も醒め、そこで話は終わった。ショーも今年で三回目なので、あしらい方もだいぶ上手くなった。

 だが油断はならない。俺は授業中、自分でまとめた設定メモを何度も読み返した。そこにはこう書いてある。


 あれはぜんぶ手品で、普段は秘密の宗教儀式。種は教えられないけど、ちゃんと種はあるんだ。誰でもやればできる? いやあ、できるかもしれないけど、あれは千年以上も前から世襲制で続いていている儀式だから、外部の人がやるのは宗教的にNGなんだ。悪いね。ほら、天皇陛下が内閣総理大臣を任命するじゃん。あれって、任命書を読み上げて渡すのは誰でもできるけど、やっぱり天皇陛下しかできないだろ。それとおんなじ。まあ、楽しんでくれたみたいで、俺はうれしいよ。


 そしてどうにか平穏無事に六限目も終わり、あとは帰るだけとなった。

 しかし放課後の教室に、とうとうあの人がやってきた。

「あのう、結城くん……」

 いつもおだやかな誠一おじさんに似合わない、脅しのような昨晩の忠告──ぜったいに関わっちゃいけない──が脳裏をよぎる。

 ──まだ死にたくないだろ

 死にたくない。キスすら知らないまま死ぬなんて絶対に勘弁だ。

「悪い、今日急ぐから」

「じゃあ、一緒に帰りながら」

「悪い、走って帰るから」

「じゃあ、一緒に走りながら」

「早くせんと遅れちまう」そう言い捨てて、俺は明官さんを置いて小走りに教室を出た。途中何人かとぶつかりそうになった。

 ──危ねえなあ

 ──廊下を走るなよ

 俺は校門まで辿り着くと、立ち止まって肩で息をした。そして手を膝についてぜえぜえあえいだ。俺の足には登山のための筋肉ならたっぷりあるが、走るための筋肉はまるっきりないのだ。

 しかし、なんということだ、後ろから駆ける足音が聞こえてくる。そして背中に手の感触を覚えた。

「そんなに私、気持ち悪いですか!」

 明官さんは絶叫した。

 いや、そういうんじゃ……。

 下校する生徒がみな静まり返り、こっちを注視する。リミッターの外れた明官さんは人目をはばからず嗚咽した。

「私はバイキンなんですか!」

 違うんだよ、俺は死にたくないだけなんだ……。

 明官さんはおとなしいコミュ障のオタクで、大声をあげたり感情を露わにする人では決してない。なのに彼女はいま、両手で俺の背中をつかみ、大声で泣いている。

 いや、泣いていると言うよりは、吠えていると言うべきか。

 〈うえーん〉や〈わーん〉ではなく、〈ごおおお!〉。

 この小枝のような小さな体から、どうしたらこんな大声が出るのか──いつもうじうじ腐っているだけの俺は、その剥き出しの生命力にすっかり圧倒されてしまった。

 俺の中の〈逃げる〉という選択肢は、背中のシャツ越しに伝わる明官さんの声の力によって完全に消された。

 中二病という装甲の下には、こんなにも激しいマグマが煮えたぎっていたのか……。

 ああ、俺にもこんな、どんな人の視線も気にならなくなるような、でたらめな生命力があったなら……。

 ほしいものをなりふりかまわずに捕まえる、そんな傲慢さがあったなら……。

 ……だが俺はまだ死にたくない。

 まだ死にたくない。

 死にたくない……。

 ……。

 誠一おじさん、ごめん。俺はちょっとだけ明官さんに関わることにするよ。


    *


 明官さんと俺は学校の近所にある花咲神社のベンチに座った。

「結城くん、用事は大丈夫なんですか?」

「ああ、泣いとる女子を振りほどくほどの用ではないちゃ」

「ごめんなさい」

 明官さんは俺がおごったモンスターエナジーを開け、一口飲んだ。

「私、感動したんです」

「昨日の?」

「はい。どんなラノベよりも、圧倒的、圧倒的、圧倒的に感動したんです。だから結城くんにはまず、ありがとう、と伝えたかったんです」

「いや、べつに大したことじゃ……」

「ありがとう」

「……いやあ、どういたしまして」

 そんなにド直球で言われると返事に困ってしまう。

 しかし困っていたのは明官さんも同じだったようだ。

「……人に『ありがとう』と伝えると、どうしていたたまれなくなってしまうんでしょうか?」

「言われた方もおんなじちゃ」

「ごめんなさい」

「あー、〈ごめんなさい〉はもう二回目。それ、言われてもあんまりうれしくないし、もう〈ごめんなさい〉は禁止」

「ごめん……じゃない」

「あはは」

「ふふ」

「アレはもう三年やっとるけど、〈ありがとう〉なんて言ってくれた人、明官さんが初めてちゃ。だから俺からも、ありがとう」

 って、俺はなにを言ってるんだ? こんなセリフ久美ちゃんに聞かれたら一生ネタにされてしまう。

「結城くんほんとにありがとう。この窮屈な現実世界で、ほんものの黒魔術を見せてくれて。現実に黒魔術が存在しうるなんて、私、思いもしてませんでした」

 え? あれは黒魔術なんかじゃ……。

「私のこと、現実と妄想の区別がついていない危ない人、ってみなさん思っています。が、そうじゃないんです。現実は現実、妄想は妄想って、ちゃんとわかっているんです。私はぜんぜん危なくない、人畜無害の人間なんです」

「そう、だよね」

「ただそれは、あとから分析すると区別ができる、っていうだけで、生きている最中はわからないんです」

 それは区別がついてないってことなんじゃないのかな……。

「人間って、生きている時はみんなバカだと思うんですよ。だって人は、たとえばホラー映画を見て、それはフィクションだってわかっているはずなのに、本気で怖がってしまいます」

「そう言われるとそうだね」

「人はフィクションで喜び、悲しみ、そして大事なことを学ぶんです。そんなことができるのは、人間がみんなバカだからだと思うんです」

「バカも捨てたもんじゃないね」

「そうです。人間はバカだから、生きている最中は現実とフィクションの区別がつきません。現実もフィクションも、どっちも等しく現実なんです。人間のすばらしい能力です」

 明官さんの熱弁が止まらない。明官さんはこんなにしゃべる人だったのか。

「いつもクールな結城くんだって、妄想くらいしているはずです」

 俺はクールだったのか。そんなこと初めて言われた。

「頭が良くてスポーツ万能で誰からも慕われて女にモテまくりの俺、なんてしょうもない妄想をひそかに抱いているはずです」

 ……はい、おっしゃるとおりです。

「だから、つらい現実に楽しいフィクションをブレンドして、そのなかを生きれば、学校生活もすこしは楽しくなるんじゃないか、って私は思ったんです。そう、私の中二病のことです」

 ちゃんと自覚はあったのか。

「明官さんは大人だね」

「そんなふうに言われたの、初めてです……」

 明官さんはそう言って押し黙った。そして顔がゆがみ、また泣き始めた。

 え? 褒めたつもりだったのに、どうして?

「大人ぶるのは、ちょっと、やっぱり、つらいんです……」

「ご、ごめん」俺はとりあえず謝っておいた。

「〈ごめん〉は禁止です」と明官さんは泣きながら言った。

「ごめん……じゃない」

 明官さんは涙を拭きながら、ふふ、と小さく笑った。

「私も日合くんのようになれたら、と思うんです」

「日合? あのアホみたいに?」

「現実とフィクションを絶妙にブレンドする、日合くんのあのブレンド力は遠目からでも惚れ惚れします。あんなにさりげなく超能力者を気取ってジョジョ立ちなんかして」

「あんなくだらない場面を見とったんけ?」

「自分もあんなふうになりたいんです。が、ブレンドのさじ加減がへたくそなので、いつもドン引きされて終了します。私もいつか、くだらねー、って笑ってもらえるようになりたいんです」

「俺は、日合みたいになりたくない、としか思ったことがないなあ」

 明官さんがモンスターエナジーを両手で、ごくっ、ごくっと飲んだ。

「あのあと、勇気を出して高橋さんに声をかけたんです」

「久美ちゃん?」

「そう。私、高橋さんに注意されたんです。写真撮っちゃダメって。で、気まずくなっちゃったんですが、でも、この感動をどうしても分かち合いたくて、私、思い切って声をかけたんです」

「そう」

「なのに私ったら、すっかり興奮してたから、いつもの中二病のくせが出ちゃって。それで、高橋さんをドン引きさせちゃったんです」

「ああ、久美ちゃんはドン引きがデフォルトだから、あんま気にせんほうがいいよ」

 俺がそう言っても、明官さんは前を見て固まっていた。が、膝の上の手をゆっくりとグーにすると、うつむいて、「……やっぱり〈僕〉って言っていいですか?」と、絞り出すように言った。

「え?」

「心の中では、一人称はいつも〈僕〉なんです。〈僕〉って言うと、心が少し軽くなるんです」

「……別にいいよ」

 すると、明官さんが微笑んだ。

 このままずっと笑っていてくれ。女子に泣かれると生きた心地がしない。女子が〈僕〉って言ったって、たしかにものすごくオタクっぽいけど、別にどうでもいいじゃないか。俺もじつは、自分を〈俺〉と称することに少しだけ違和感がある。たんに〈僕〉や〈私〉よりも違和感が少ないから〈俺〉って言っているだけだ。自分にぴったりの一人称があるなんて素敵なことじゃないか。

「〈序破急〉って知ってますか?」

「序破Q? ……なんか聞いたことある」

「はじめはゆっくりで、それが破綻して、急展開する、っていう意味。物語の構造のことです」

「ふうん。んで、それがどうかしたんけ?」

「僕、十歳までずっと入院してたんです。だから学校に慣れることができなくて。体もちっちゃいし、勉強もできないし、女子同士の付き合いも難しすぎて」

「そうだったの」

「だから、いっぱい馬鹿にされて、いじめられて。まあ、べつにそれくらいはどうでもいいんですけど」

「女子のいじめはおぞましそうだよな」

 俺がそう言うと、明官さんは三度大きくうなずいた。

「だから、だからラノベに現実逃避! しかし現実は終わってくれないのです。ドン引き、ぼっち、嫌がらせ。なんでこんなにしつこいの? そして再び現実逃避! これが僕の〈序破急〉の〈序〉、どうしようもない袋小路、先週までの僕なのです」

 急に声のトーンが上がる。ああ、この人は心の底からラノベが好きなんだな。滅入る話だというのに、目がキラキラしている……。

 やばい。明官さんがなんだかいとおしく思えてきた。

「ええと、じゃあ、今週は違うの?」

「あの黒魔術で、僕の中の袋小路はドッカーンと破壊されたのです」と、明官さんはバンザイしながら楽しそうに言った。「〈序破急〉の〈破〉、〈破壊〉の〈破〉です」

「それは、いいことなのかな?」

「前に進むのは、大変だけど、いいことです」

 明官さんってけっこう前向きだよな。

「ラノベのキャラになりきって中二病ライフをエンジョイするには、ごまかしが必要なんです。いやなこと、かなしいこと、つらいことにフタをして、見ないフリをしないといけないんです。ラノベのキャラはなんてったって軽さが信条ですから。でも、生ゴミはきちんとリアルで処理しないと溜まり続けるんです。だから、やがて見ないフリもできなくなるほど、鬱玉は大きくなるんです」

「ウツダマ?」

「鬱を入れる心の中のポリ袋です。誰にでもあります。結城くんにもあります」

「そうなんだ」

「大きくなりすぎた鬱玉は宿主を乗っ取ります。すると男は引きニートに、女はメンヘラになります」

 すがすがしいほど偏見まみれだけど、なんかわかる気がする。

「すると、明官さんはメンヘラになっちゃったの?」

「危なかったです。しかし、僕は結城くんの黒魔術で救われました」

 明官さんの頭の中では、俺はすっかり黒魔術師ってことになっているらしい。

「黒魔術じゃないんだけどなあ。まあ、たしかに石は黒いけど」

「僕が求めていたのは、現実と妄想がごちゃまぜになった、僕みたいなクズでも輝けるリアルの世界です。自分のみじめなところを見ずにすんで、いくじなしの自分に勇気を与えてくれて、自分の背中をぐっと後押ししてくれる、どこまでいっても都合のいい夢のような世界です。そんな世界の存在可能性が、あの黒魔術でほんとうに現れたんです。あんなものが何のごまかしもなしに実現できるんだと知って、僕は自分の中の袋小路に出口を見出したんです。あんな世界が存在できるんだったら、僕の夢見る、妄想まみれのご都合主義的な人生なんてものがあったって、ぜーんぜんかまわないんだって、僕はごまかしなしに思えたんです」

 明官さんがぐいぐいくる。おいおい、距離が近い……。

「いやいや、あれはね、ごまかしだらけの手品なんだよ」

「お願いがあります!」そう言って明官さんは俺の手をぎゅっと握った。

「な、なに?」

「僕に種を教えてください!」

 何を言うかと思えば……。

「だーかーらー、それはできないって」

「僕は今、とても恥ずかしいんです。僕だけが一方的に自分をさらけ出して、トラウマ級に恥ずかしいんです。でも、最後まで言います。あの黒い石のように真っ黒な心を持った僕が、あの石のように光輝くためにはどうすればいいのか、その種を教えてください!」

 明官さんが何を言いたかったのか、俺はやっとわかった。

「それが僕の〈序破急〉の〈急〉なんです。僕はもう、こんなみじめな独り相撲を終わらせたいんです。だから、どうかお願いします!」

 何を何を。〈種〉ならすでに君の中にあるじゃないか。そして子葉が芽吹く準備だってすっかりできている。

 マグマの熱を伝えるルートがあれば、黒い石はきれいに輝くのだから。

 だから──。

「そんなことなら、僕に教えられることはないちゃ」

「そんなこと、って……」

 明官さんがぼうぜんとして言った。

 クールな俺はたんに、すこしいじわるしてみたくなっただけなのだ。

「こちらこそよろしくお願いします」

 こうして俺は明官さんと付き合うことになった。

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