赤影 一

 新大久保と高田馬場の中間にある自宅マンションのソファに寝転んで、フォイはスマホでアイドルの動画を見ていた。K-POPを徹底研究した最近の中国人アイドルは、どこまでも統制が取れていて、礼儀正しく、つまりは隙がない。そういうのがクールでいい、という若者の気持ちもわかる。わかるのだが、くたびれた三十路男としては、もう少し人情味があってもいいんじゃないか、と思ったりもする。たとえば、恥ずかしそうに青島の方言を話すファン冰冰ビンビンのように。

 歌の途中で、テレグラムに范冰冰じきじきのメッセージが届いた。もちろんこの〈范冰冰〉は偽名で、彼女の本名を知る者は、我々のような駒にはだれもいないし、知る必要もない。わかっているのは彼女が青島出身で(青島弁丸出しだから)、青島を拠点とする、あの有名なサイバー攻撃部隊・61419部隊の幹部ということだけだ。彼女は毛主席を知る最後の世代であり、文革後の荒廃した時代に成功をおさめた、要はタフなおばちゃんだ。その性格は陽気で、がさつで、頭が切れて、そして残酷だ。

 指定の時刻にビデオ通話につなぐとすぐに、おう、元気にしてるか、とダミ声が帰ってきた。田舎の市場のおかみさんのような満面の笑みだが、目だけは笑っていない。

「お気遣いありがとうございます。范さんもお変わりないようで」

「お前は相変わらず硬いなあ。堅苦しくて肩が凝る」

「すいません。では、……冰冰ちゃん元気そうで嬉しいナ、ルンルン」

「やめろ。凍死させる気か」

「すいません」

 范がタバコに火をつけた。また禁煙に失敗したらしい。

「うちの部隊の若いのが日本自衛隊の駐屯地を片っ端からハックしていたらな」

「ご苦労様です」駐屯地の数は百を大きく超える。下っ端連中は馬車馬のようにこき使われているのだろう。本当にご苦労様だ。

「富山駐屯地で妙なものを見つけてな」

「なんでしょう」今度は富山か。うまい寿司でも食うか。

「出どころは駐屯地出入りの〈気の毒なクリーニング〉って店の顧客データ、っていってもまあ、ただのエクセルファイルだ」

「〈気の毒な〉ってのが店名ですか? なぜそんな名前なんでしょう?」

「あたしにわかるか。日本語はお前の専門だろ。そんなに変な意味なのか?」

「〈可怜的清洁店(かわいそうな洗濯屋)〉という意味です」

「まったく、小日本は摩訶不思議な国だ」

「ほんとうに」

 范が深々と煙を吸い込み、うまそうに吐き出す。

「だが、気の毒なもんか。我らが人民解放軍は痕跡を残すなんて愚かな真似はぜったいにしないからな。そういうのを小日本では〈立つ鳥跡を濁さず〉って言うんだろ」

「はあ……」

「店員も自衛隊員も情報流出にまったく気付かない。だから、店が情報流出を責められるといった気の毒な目に遭うこともけっしてない。かくして平穏な日々はいつまでも保たれる。我々は平和主義のトップエリートなのだ」

「おっしゃる通りで」

「それで本題だが、顧客名簿の中に一人、奇妙な名前を見つけたのだ」

「なんという名前で」

「高橋スタープラチナ」

 李は吹き出した。

「やはり変な名前なんだな。カタカナばかりで、しかも長い。これは我が国でいうところの〈奇怪的名字キラキラネーム〉だよな」

「恐れながら、それは間違いなく偽名です」

「ほう、なぜわかる?」

 李は〈スタープラチナ〉をネットで検索し、画像を一枚范に送った。

「なんだこれは」

「スタープラチナです」

「漫画か。顔色が悪いな」

「さようで」

 范がタバコの灰を落とし、最後に根元を一服して火を消した。

「范さん、あまり根元を吸わない方が……」

「わかっている。だがな、根元が一番うまいんだ。お前もわかるだろう?」

「タバコのことは、ちょっとご勘弁ください」

「ははは、お前は偉いよ。……で、こいつ、おかしいのは名前だけではないのだ。他の自衛隊員は生年月日、住所、電話番号、所属部隊、と情報がきれいに揃っているのに、高橋スタープラチナだけ、生年月日しか情報がないのだ。お前はどう考える?」

「思うに、それは、ただの短期アルバイトか……」

「あるいは」

「あるいは、駐屯地側は情報を極力秘匿したかったのだが、お誕生日特典だけは商売上必要だと店が主張し、生年月日だけ聞き出したのか」

「まあ、そんなとこだろう」

「生年月日はいつですか」

「一九八四年二月二九日。今年四〇歳」

「失礼ですが、生年月日がでたらめという可能性は?」

「それを言うと〈高橋〉という姓すらでたらめかもしれない。言い出すとキリがない」

「たしかに」

「とりあえず姓と生年月日は正しいという仮定で話を進める」

「かしこまりました」

「経験的には、スパイでもない限りそこまで完璧に自分を偽るやつはそうそういない」

「そうすると、その年齢では短期アルバイトの可能性は低いですね」

「そうだ。そこで君ら〈赤影〉に、高橋スタープラチナが何者なのかを調べてほしいのだ」

「失礼ですが、手がかりは高橋という姓と生年月日だけですか」

「そうだ」

 バカ言うな、ぜったい無理だ。

「住基ネットに忍び込んで調べる、ということはできないのでしょうか」

「それは不可能だ。住基ネットは外部とまったくつながっていない。どんなに優れた鍵職人でも、扉のない建物にはさすがに入れない」

「そうであれば、大変申し上げにくいのですが、我ら小規模な〈赤影〉では……」

「最後まで話を聞け。ネットによれば、富山県にいる高橋姓は約四六〇〇人。そして四〇歳男性の人口に占める割合は〇・七%。だから該当者は単純計算でたったの三二人だ」

「はあ。ですが……」

「我らが人民解放軍には企業や学校からハックした膨大な名簿がある。もちろん完璧ではないが、九割以上はカバーできていると思う。そのデータを四〇歳、高橋姓、男性、でふるいにかけた。そして会社員や自営業など、明らかに自衛隊員ではない者を除外した。そうして一三名まで絞り込んだ」

 なんと洗練されたやり方だ。そして恐ろしい。

「この中に高橋スタープラチナがいないか調べてほしいのだ。一三名の中には年齢不詳の者も七名含まれているから、調査はもっと楽なはずだ。これならできるな」

「はい」

「そして、自衛隊において高橋スタープラチナがどういう役割を担っているのかを突き止めてほしい」

「かしこまりました」

「しかし、無理はするな。〈ジーン〉を使ってもいいが、足がつきそうなら退避だ。〈立つ鳥跡を濁さず〉でやってくれ」

「了解です」


    *


 さっそく富山ICインターチェンジそばにあるラブホテルの二階をワンフロア確保した。こういう場所はどんなに怪しい格好でも怪しまれないのがいいし、経営者の韓国人ともよそ者同士で話がはやい。駐車場はあるし、コンビニもわりと近いし、なんといっても風呂がでかいのが嬉しい。

 范とのビデオ通話から一〇日が経ち、〈赤影〉の六名と助っ人二名の全員が揃った。全員が日本語の達者な手練れだ。

 年齢不詳の七名の確認はリン紹葳シャオウェイ一人に任せた。林の〈ジーン〉は戦闘には無力だが、諜報活動には大いに頼りになる。

 四〇歳だと判明している六名については、チャン于静ユージンワン淑燕シューヤンチン玲玉リンユーの女三人に、浮気調査依頼を装って探偵事務所に職場を突き止めさせることにした。三人とも薬の飲み過ぎで顔色が悪いから、夫に愛想を尽かされた女房と言われても誰も疑いやしない。

「俺たちは何をしたらいい?」と、暇すぎてスマホをいじるのにも飽きた戦闘員・タン俊亮ジュンリアンが李に尋ねた。

「近くでうまい寿司屋を探してきてくれ」

「予算は?」

「ひとり二千円」

「〈冗談はよし子さん〉」

「なんだそれは」

「ジャパニーズ・ジョークだ。こういう気の利いたジョークを言えると、俺みたいなこわもてでも女を落とせるらしい」

「誰に訊いた?」

「助っ人のライ昌星チャンシンだ。奴は荒くれだが、粋なジョークをいろいろと知っている。お前さんも教わって、女っ気のないドルオタ生活からさっさとおさらばするといい」

「頼はどこだ」

チョウ克華カーファーと風呂だ」

「あいつらゲイなのか?」

「バイだ。やつら、抜けるんだったら犬でもこんにゃくでも何だっていいのさ。自分で雇っておいて知らなかったのか?」

「お前ら仲が良さそうでなによりだ」


    *


 ワークマンで買った紺の上下の作業着を着た林紹葳は、空のダンボール箱を左手に抱えて古びた家のインターホンを鳴らした。

「すいませーん。高橋健介さんにお届け物でーす」

 年季の入った玄関のドアが開くと、寝ぼけた様子の爺さんが出てきた。

「こんにちは。高橋健介さんでらっしゃいますか」

「ああ」

「ただいま、市議会選挙に立候補することになりました山田喜一のご紹介に伺わせてもらっています」

 そう言って林は、山口組組長の顔写真がでかでかと印刷されたいんちきの選挙チラシを見せた。

「配達じゃないんけ?」

「ごきげんよう」

 林はそう言って、右手の人差し指を爺さんのこめかみに当てた。爺さんは急に睡魔に襲われたが、林が門を閉める音で目を覚ました。


 林はマンションのエントランスで、七〇七、とボタンを押した。

「すいませーん。高橋治郎さんにお届け物でーす」

 はい、という女性の声がスピーカーから聞こえ、オートロックが開いた。

 林は空のダンボール箱を持ってエレベーターに乗り、七階で降りた。

「こんにちはー」

 重そうなドアがゆっくりと開く。中年女性だった。

「高橋治郎さんにお届け物でーす」

「ごくろうさま」

「高橋治郎さんは四〇歳でらっしゃいますか」

「え、何でそんなことを訊くんけ?」

「本人確認です」

「ええと、……四三歳ですけど」

「惜しい!」

「え?」

「荷物はお渡しできません。代わりに山田喜一の選挙チラシをどうぞ」

「な、なによあなた」

「ごきげんよう」

 林はそう言って玄関の中へすっと入り、右手の人差し指を女性のこめかみに当てた。女性は急に睡魔に襲われたが、林がドアを閉める音で目を覚ました。


「すいませーん。高橋誠一さんにお届け物でーす」

「玄関前に置き配でお願いします」インターホンから女性の声がした。

「書留宅配便ですので、お客様のサインが必要なのです」

「〈書留宅配便〉なんて聞いたことありませんよ」

「とにかくそういうことなんで、開けてくださーい」

「警察呼びますよ」

「サイン頼みますよ。ほかにも配達があるんですから」

「いやです」

「業務妨害罪で訴えますよ。奥さんもね、裁判なんて嫌でしょ。私だってそうです。でも、会社がそういうルールなんで、私もそうせざるを得ないんです。お願いします。開けてください」

「……わかりました。開けますから、十五分だけ待ってください」

「十五分もですか」

「うんこが漏れそうなの。それにあたしイボ痔だから、うんこに時間がかかるのよ」

 林はあきれた。が、このまま帰っては自分の姿と声が女性の記憶に残ってしまう。

「わかりました」

 いつ女性のうんこが終わるかわからなかったので、林はその場でずっと待った。

 しばらくすると玄関前にパトカーが止まった。

「そこのあんた、ちょっといいかい」

 さいわい警官は二人しかいない。

「チラシを配っていただけなんです」

 林はそう言って二人に選挙チラシを渡すと、すばやく二人のこめかみに触れ、記憶を改竄した。

 頭の中に二人の人物が浮かんでいるとき、林は、その二人を交換できる。いま二人の警官の頭の中には、林と、チラシに印刷された山口組組長の二人の顔が浮かんでいた。それを林は交換した。つまり二人の警官のいまの記憶は、〈山口組組長の顔をした男が不審なことをしていた〉となっていて、林の顔は記憶の糸が切れてしまっている。

 ただし、どんな記憶でも改竄できるわけではない。林が改竄できるのは海馬に存在する新鮮な短期記憶に限られ、大脳皮質に刻み込まれた過去の長期記憶は改竄できない。

 この改竄を可能にしているのが、林の指先から出る微弱な電磁波だ。電磁波が海馬を流れる電気信号へ介入することにより、記憶の改竄が行われる。脳への介入は寄生生物が得意とするところだ。そうした能力を林は遺伝子コードの付加によって獲得している。人体実験が豊富に行える中国にしか開発できない技術だ。

 このような遺伝子操作による獲得能力を、中国人民解放軍はひそかに〈GENEジーン〉と呼んでいる。

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