高橋久美 一
上気だった人の輪が解けていく。
父さんは道の脇に停めてあったレンタカーの軽トラをやぐらのそばまでゆっくり寄せる。そして耐火手袋をはめてゆきしろといっしょにやぐらを解体し、ガスボンベ二本と道具類を軽トラの荷台に乗せると、すぐに次の現場へ向かった。そのすべてが、私とは無関係の映像だった。私は赤く光り続ける石を遠くからぼんやりと眺めていた。
右そでをぐいぐい引っ張られた。ナギだった。
「クミのお父さんってカワイイよね。なんかクマのぬいぐるみっぽい。ほら、映画の、なんていうんだっけ……」
「パディントン」
「ちがう」
「プーさん」
「ちがう」
「テッド」
「そう、それっちゃ! あの中年のテディ・ベア!」
女子力ゼロの野生児・
「自分がテッドの娘ってのは、ちょっとイヤだな」
だが、まあ、見た目がそっくりなのは素直に認めよう。
すると今度は左そでを引っ張られた。ハルだった。
「ねえねえ、石が沈んだり、赤くなったりして、ハル、びっくりしたっちゃ。どういう理屈でああなるんけ?」
「ただの手品っちゃ」
「ええっ? じゃあ、どういう仕掛けなんけ?」
「手品の種を知りたいなんて、ハルは野暮なやつだなあ。教えらんないよ」
「えー、やーだ、教えてよ」
「じゃあ、ゆきしろに訊いたらいいよ」
「あいつに訊いたら絶対、『〈バコバコ〉が〈すうっ〉ってなるからだ』って言うっちゃ、真顔で」と、長身のナギが背の低いハルに背中から覆いかぶさる。
「ほんと、野暮なハルちゃんはかわいいなァ」
「野暮じゃないもん」
二人が私の体から離れると、私はなんとなく腕組みをしていた。
私は最近、喜びには幾ばくかの悲しみが、悲しみには幾ばくかの喜びが必ずついて回る、という思いを抱くようになっていた。
たとえば赤ちゃんはどうしようもなく可愛いが、容赦なく夜泣きをし、乳をせがみ、糞便を垂れ流す。女子は大人へ背伸びをするほど垢抜けて綺麗になるが、同時に陰湿で妬み深く残酷になる。男子は、……馬鹿だ。背伸びをするほど馬鹿がバレ、子どもに返り、そのまま図体だけ大きくなる。男子は馬鹿に限る。馬鹿は男子の特権だ。背伸びを拒み、馬鹿になれない男子は腐る。
ゆきしろはまだまだ全然ダメだが、少しずつでも成長している。当たり前だ。あいつはほとんど毎週土日を立山で過ごし、あいつなりに一生懸命やっているのだから。
ゆきしろは三郎さんとは違って、石使いの仕事に真正面から向き合っている。あいつは不器用だから、そのようにしかできないのかもしれない。だがそうだとしても、互いをよく知る者が真摯な姿勢を見せてくれるのは、私にとっても嬉しいことのはずなのだ。
が、それは私にとって悲しいことでもあった。
*
私は石使いのお手伝いをするのが好きだった。ふだん父さんと一緒に作業をしている自衛隊の三人は、みんなたくましくて優しかったし、そんなたくましい三人を率いる父さんの姿は幼い私にとって大きく眩しかった。はじめて手の中で石が粉をふいたときは仲間みんなに褒められて嬉しかったし、ふつうの人には見えない磁場を自分が見ることができるのはとても誇らしいことだった。そうやってできることが増えていくにつれて〈ここだけの秘密〉や〈母さんには内緒〉は増えていき、幼い私はなんだか大人の仲間入りをしたような気になっていた。そして母さんへの優越感を感じるようにもなっていった。
男臭い面子を哀れに思ったのか、みどりさんが時々来てくれるのも楽しかった。四人の男をやすやすと手玉に取るみどりさんは、おばあちゃんと呼ぶにはあまりにも若々しい人だった。
しかし、六年生で初潮を迎えたのを境に、私は次第に磁場が見えなくなっていった。
初めは病気だと思っていたが、いっこうに治らない。
父さんに相談すると、ひとこと、奈江姉さんのとこに行ってきなさい、とだけ言う。なにを訊いてもその一点張り。
奈江姉さんはゆきしろのお母さん、父さんのお姉さんで、すぐ近所に住んでいる。美人で気品があり、テディ似の父さんとはこれっぽっちも似ていない。立山連峰の登山ガイドをしていて、父さん曰く、〈美魔女ガイド〉で山男界隈ではちょっとした有名人らしい。私は奈江さんがすこし苦手だったが、静かな場所を好んだり、祭りがあまり好きでないところなんか、もしかして自分と似ている人なのかも、と思ったりもしていた。
私が約束の時間に行くと、奈江さん一人が出迎えてくれた。
奈江さんは、おいで、とだけ言う。
私は二階の薄暗いベッドルームに通された。そして、男どもは追い払ったから大丈夫よ、と言った。私は嫌な予感がした。
部屋には一人用のベッドのほかに、クローゼット、棚、そして小さな丸いナイトテーブルがあった。棚には本と、こまごまとした登山道具がきれいに収まっていた。私たちはベッドの縁に並んで座った。
奈江さんは丸テーブルの上に置いてあるキャンプ用のガスランタンのノブを回した。すると、シューというガスの音とともに橙色の炎が部屋を照らした。それは小さくて頼りなさげな炎だった。そのふるえる炎は私たちの影をぼんやりと壁へ投影し、小刻みに揺らしている。
「雰囲気あるでしょ」
「あ、はい……」
奈江さんは棚から一冊の写真アルバムを取り出した。
「フィルムを現像した写真のアルバム。久美ちゃん見たことある?」
「あまりないです」
奈江さんはアルバムのページをめくる。
「これ、誰だかわかるけ?」
奈江さんが指差したのは山で撮られた写真で、大人の男性の両隣に男女の子どもが並んで立って笑っていた。
「奈江さんと、父さんと、……おじいさん?」
「正解。これはね、誠一が山デビューしたときの写真で、みどりさんが撮ってくれたの。誠一が十歳で、あたしが十二歳──久美ちゃんと同い年の時のやつ」
「楽しそうですね」
「そう見える?」
奈江さんは私の目を見て、私の右手に左手を重ねた。
「この写真のあたしは笑っとるけど、正直なところ、笑いたい気分じゃなかったのよ。女の子はこれくらいの歳から作り笑いがとても上手くなる。久美ちゃんはどうかな?」
「たぶん下手です。思ったことがすぐ顔に出るってよく言われます」
「じゃあ、今はなにを思っとるんかな?」
「あのう……」
「誠一から聞いとるよ」
そして奈江さんは目を逸らして言った。
「それは病気じゃないの、女の子の宿命なのよ」
奈江さんは自分の経験を踏まえて、私が知りたいこと、そして知りたくないことも教えてくれた。
私はやがて磁場がぜんぜん見えなくなるということ。
石使いの手伝いすらもできなくなるということ。
そして、男には何の変化も起こらないということ。
「人はうれしいと笑顔になるけど、逆に、笑顔を作るとうれしい気分になったりもするのよ。だから体がおかしくなって不安になったら、写真の中のあたしみたいに、女の子はこうやって作り笑いをするの」
しかし私にそんなことはできなかった。
私は憤りと、生まれて初めての絶望を感じていた。
努力ではどうしようもないことがこの世にあるなんて、学校では教わらなかった。女だという理由だけで、仲間から外され、誇りを奪われることがあるなんて、そんなこと今まで誰ひとり教えてくれなかった。父さんも自衛隊のみんなも、ニコニコしているだけで本当のことを何も話してくれなかった。
信じてたのに……。
見上げると、奈江さんはおだやかな優しい目をしていた。そして無知だった子どもの私をゆっくり抱きしめてくれた。私は奈江さんの腕の中で声を上げて泣いた。一通り泣いた後、私は無邪気だった自分を少し懐かしく感じていた。
でも……。
でも、じゃあ、なんでみどりさんは?
みどりさんは磁場が見えるよね?
奈江さんはその理由も教えてくれた。しかし十二歳の子どもにすぎない私には、その事実をどう受け止めればいいのかまったくわからなかった。
「あたしもね、久美ちゃんとおんなじだったんだよ。なんで、って。なんで誠一ばっかり、ずるいよ、って」
奈江さんが私の頭を撫でてくれる感覚は今でも生々しい記憶のままだ。
「でね、この傷が消えることはないの。あたしの歳になってもね」
そう言って、奈江さんはもう一度私を抱きしめた。
「ずっと」
*
「ゆきしろも祈祷師になんのかなァ?」とナギ。
「いやあ、今のまんまじゃキビシイんじゃないけ?」とハル。
「んー、あいつ、いつもキョドってるじゃん。テディのようなふてぶてしさがないんだよな」
「クマっぽくもないし」
クマは関係ないだろ。
「もう、クミが祈祷師になればいいのに」
「さんせー」
「あたしは……」
なれないのよ、と言いかけて、あせった。やばいやばい。そんなことを言ったら、なんでー、どーしてー、と訊き返されるのはわかりきっている。
「あたしはさ、祈祷師なんて怪しい職業には就きたくないっちゃ」
だよねー、祈祷師はないよねー、と二人が言う。ふーっ、あぶないあぶない。
「今はね、ここ、砂防ダムで働きたいな、って思っとる」
「へえ」
「母さんがここで働いとるの。トロッコの整備とかやっとる」
「えー、トロッコ? 黒部みたいなやつけ? それってカワイイ?」とハル。
「あたし黒部で乗ったことあるっちゃ。なかなかカワイかったよ」とナギ。
あまいあまい。私はスマホを出し、ユーチューブのブックマークから砂防ダムのトロッコの動画をタップした。
「ふふん。砂防ダムのトロッコは黒部のより、うーんとちっちゃくて、うーんとヤバいんだから。ほら」
軽快なBGMに合わせて、大人の男性の背丈ほどしかない小さな車庫のシャッターが開く。そこから軽自動車よりも小さな牽引機関車が、観覧車のゴンドラのように小さな車両をたった三両だけつなげて、次々と出庫していく。別のシーンでは、ひとつの車両に大の大人が四人、膝を曲げて窮屈そうに座っている。
「ヤバいヤバい、超ヤバい!」
「これ、遊園地で子どもが乗るやつや! おっさん乗ったらヤバいっちゃ!」
二人が大声ではしゃいでいると、ほかの子も、なんだなんだ?、と寄ってきた。
──見てよこれ
──カワイイ!
──どこで乗れるんけ?
「これは砂防ダムの作業員しか乗れんの」
私はそう言ったが、ほんとうは砂防ダム見学ツアーの参加者も乗ることができる。だが、なんだか秘密にしておきたかった。乗れないと言われた方が、トロッコへの欲情を掻き立てられる気がしたからだ。
──残念
──乗りたいちゃ
「はやくここを出なさい。みんなバスに一時集合、いいな」と先生が言う。
しばらくはお昼休憩だ。男子はたまたま近くにいたもの同士がなんとなくグループになり、いっぽう女子はいつものクローズドなグループに分かれ、バスに向かう。
石は相変わらず赤く光っている。どのグループにも入れなかった、一人取り残されたような女子が、スマホで石の写真を撮ろうとしていた。私は駆け寄ってレンズを手でふさいだ。
「撮影は禁止な!」
私は、父さんやゆきしろが侮辱されているような気がして、きつい口調で制止した。スイーツやペット、インスタスポットといった陳腐な写真と同列扱いで石の写真がSNSへアップされ、うすっぺらなコメントとともに消費されると思ったのだ。私の態度は傲慢だったから、相手もキッとにらみ返してくると思った。が、その子、
「ごめんなさい」
そして赤く光る石をピンクサークル内の近距離からじっと見つめる。
「どうしたんけ?」
「写真が撮れないから、両目に焼き付けるんです」
「そう」
明官さんは動かない。ただただ直立不動で石を凝視し続ける。
「早く行かないと怒られるよ」
「……ああ、目が二つじゃ全然足りない」
「え?」
「……仕方ない、サードアイ・魔人眼を開眼しよう」
サードアイ? マシンガン? これはもしかして……。
「輝く石は光属性。対し、魔人眼は闇属性。果たして、僕の魔人眼が耐えうるか?」
なるほど、一人称は〈僕〉なのか。
「おかしい、魔人眼が疼かない。……はっ、さてはこの禍々しい赤い光、魔界由来のものなのか!」
ゆきしろは毎年こんなのを何人も相手していたのか。少し同情する。
それにしても〈禍々しい〉か。……そうかもしれないな。
明官さんは顔を両手で覆ってうなだれた。
「魔力を吸収しすぎて視界が奪われそうだ。ここが僕の限界か」
そりゃあ、あんな眩しいものをじっと見てたら目は痛くなるだろうよ。
「お前らなにやっとるー? 早く帰らんかー」と、先生が遠くからさけぶ。
「はーい、すいませーん」
私がそう言うと、明官さんがパッと身を起こした。
「……ああ、どうもすいません高橋さん。私いま、別人格に乗っ取られていました。もし変なこと口走ってたならすいません」
「大変ね」
「よくあるんです。困ったものです」
今も変なこと口走ってるよ、と私は心の中でつぶやいた。
「帰りましょう」
「はい」
明官さんと私は並んで歩いた。
一学年に二クラスしかない学校だから、大抵の人とは話したことがある。が、明官さんと話すのは初めてだった。明官さんは小さくて、勉強も運動もできなくて、休み時間も授業中も、いつも一人でラノベを読んでいた。もっと大きな学校だったら同志が見つけられたのかもしれないが、この学校は明官さんには小さすぎた。
「あの、高橋さんは、結城くんの親戚なんですよね」
「そうだけど」
ゆきしろを〈結城くん〉と呼ぶ人は初めて見るかもしれない。それになんで標準語なんだろう?
「〈バコバコ〉が〈すうっ〉って、わかります?」
「ああ、全然わからんちゃ」
「私、わかるんですよ。〈バコバコ〉も、〈すうっ〉ってのも。高橋さんですらわかんないのに。私、変ですよね」
えっ? 私はあせった。表情で気取られないよう私は顔を背けた。
いや、そんなはずはない。親戚で〈明官〉なんて苗字、聞いたことないし、だいいち明官さんは女子だ。いくら小さくて胸がなくても、もう中三だし、生理くらいきているだろう。……いや、もしかしたらみどりさんのような人なのかもしれない。
「わかる、って、どんなふうにわかるんけ?」
「なんかこう、空間が歪んでるんですよ。その歪みが石の光で消えてなくなる。地縛霊が成仏したみたいな感じがするんです」
私はもう一度顔を背けた。明らかに磁場の見え方ではないが、まるっきりのでたらめ、単なる中二病の妄想とも言い切れない。
「明官さんって面白い人なんだね」
「そうですか?」
「あたし、明官さんのこと知りたいな。小さい頃はどんな感じだったんけ?」
「私、低体重で生まれて、体も弱くて、小四までずっと病院暮らしだったんです」
私は三度顔を背けた。
かわいそうだけど、これは〈調査〉するしかない。
*
夕食後、私は話を切り出した。
「母さん、ちょっと席を外してもらっていいかな。父さんと石の話を……」
「はいはい」
母さんはそう言ってそそくさと二階へ登っていった。たとえ家族であっても、部外者には石使いの話を漏らしてはいけないことになっているのだ。それを破ったら私は石使いの庇護者である公安に殺され、揉み消される──明官さんが喜びそうなシチュエーションだ。しかしこれはラノベの絵空事ではなく、現実の話なのだ。
「今日のショーはどうだったかい? 父さんカッコよかった? なわけないか」
「毎年あんな感じでやっとるんけ?」
「そうだよ」
「あんな開けっぴろげにやって、父さん殺されない?」
父さんは笑顔をブーストさせて言った。
「だーいじょーぶ! ちゃんと〈おやじ〉の了承をもらっとるし。それに、いくら立入禁止区域で作業しとるとはいえ、お天道様の下で開けっぴろげに作業やっとるんだから、どうせいつかは人の目に触れる。そして怪しまれる。隠しとったら余計にな。だったらはじめから見せちゃえばいいのさ。立山信仰の宗教儀式ってことにしちゃえば誰も疑わん」
「そういうことなのね」
「それにしても、父さんのことが心配だなんて、まったく、久美はファザコンだなあ」
「断じて否定!」私は両腕をクロスさせ、全身で否定した。
「それに、もし父さんが殺されたら、石使いが三郎さんだけになっちゃうし」
「あれは頼りないよな」
「でしょ。三郎さんがゆきしろを育てられるとも思えんし」
「ユキシロ君なら頼れるんけ?」
「あいつは石のことだけは真面目にやっとるから、今は頼りなくても、きっと大丈夫っちゃ」
父さんは立山の方角を向いて、久美がそう言うんならきっと大丈夫なんだろな、と呟いた。
久美が男だったらなあ、とは父さんは絶対に言わない。私も母さんも、父さんがそう言いたいのはわかっているのだが、父さんが一度も言わないから、私たちも一度として言ったことはない。
石使いになれる人は限られるから、男の子をたくさん産むよう女性側は無言のプレッシャーを受ける。誰が悪いのでもなく、男しか石使いになれないという事実じたいがプレッシャーを生み出すのだ。母さんは私を産んだ後、二度流産している。
「ユキシロ君が小学生だった三年前までは三郎君とショーをやっとったけど、まあ、彼は大人だからそれなりにそつなくやりはするんだが、なんかこう、表情がさ、デートの日に急に休日出勤を命じられてふてくされる会社員みたいなんだよな」
「父さん、それすっごくわかるっちゃ!」
「反対にユキシロ君はさ、明らかにいっぱいいっぱいで、こっちもハラハラすんだけど、とにかく彼、ほんとに一生懸命だから、こっちまで一生懸命になっちゃうんだよね」
父さんはゆきしろを気に入っている。そのことが私には嬉しいし、同時に悲しい。
「話はそれだけかい?」
「ここからが本題。実は〈調査〉しなくてはいけない人がいるの」
「いま〈調査〉って言った? 物騒だねえ」父は顔をしかめた。
「あたしと同じ学年の、明官玲奈さん、っていう子なの」
「まじかよ、子どもを〈調査〉しろっていうんけ? 弱ったなあ」
私は明官さんのことを話した。歪んだ空間が、石の光で歪みを失うのが見えた、と言ったこと。低体重出生かつ病弱で、小四まで病院暮らしだったということ。背が小さくて胸もなく、一見して小学生に見えること。
父さんの顔がみるみる翳っていった。
「無自覚なまま磁場を見ている可能性が捨て切れんな」
やはり父さんもそう思うか。
「で、ほかには?」
「重度の中二病」
「そうか。……ああ、これが中二病の妄想だったらどんなにいいか。どうか彼女に神のご加護を」そう言って父さんは目を閉じ、十字を切った。
通常の〈調査〉は、公安による対象者の拉致に始まる。
もちろん対象者は必死で抵抗する。ここでクロロホルムを嗅がせて気を失わせられれば楽なのだが、それができるのはルパン三世だけだ。そんなことをしても実際は気を失うまでにけっこう時間がかかるし、点滴や心電図モニターなしに気を失ってしまったらすぐにでも心肺機能が落ちて死んでしまう。だから暴れる対象者には心肺への影響の低い麻酔薬のケタミンを少量ずつ筋肉注射してふらふらにさせるにとどめる。このとき対象者は悪夢を見ているという。
車から降ろされた対象者は、診療が終わって誰もいなくなった、薄暗い富山大学医学部附属病院の、そこだけあかりの灯った眼科に連行される。
待っているのは眼科医の森篤志教授だ。とても研究熱心な医師で、自分もいつか磁場を見てみたいと本気で願うマッドサイエンティストだ。
森教授は意識が朦朧とした対象者へ、まず機械で視力検査を行う。そして対象者を寝かせると、視力の悪い方の眼に麻酔薬を点眼し、眼球に針を三本挿入する。局所麻酔なので針を刺す様子は対象者にしっかり見えている。だから悪夢と相まって恐怖で失神する人が多い。
眼球に挿入した針で森教授は網膜の三箇所の細胞を生検する。そこに磁場感知タンパク質が含まれていればクロと判定される。退院は四日後。その間、採血による遺伝子検査やMRIなど、一通りの検査を行う。
対象者は何者かに誘拐され、暴力を受け、眼球に傷を負い、気を失っているところを通りがかりの人に救われた、ということになっている。対象者には拉致されて以降の記憶がほとんどないので、そう説明されるとみなそれで納得する。被害届が出されてもすべて公安がもみ消す。犯人が不明なので入院費用は全額対象者持ちだ。
これが〈調査〉である。
なぜこんな残虐なことをしてまで〈調査〉が必要なのかというと、磁場が見えればマグマの目詰まりが見て取れるからだ。マグマの目詰まりはパンパンに膨らんだ水風船のようなもので、そっと口を開けば水が流れて風船はおとなしくしぼむが、もし針でつつけばたちまち破裂し水が飛び散る。つまり磁場が見える者がもし悪意を持てば、あるいは悪意ある者に利用されれば、わずかな刺激で大惨事を引き起こすことができるのだ。だから治安維持を主務とする公安は磁場が見える者を管理する必要があり、そのために〈調査〉を切に必要としているのだ。
「久美、話してくれてありがとう。これは二人と、あと公安だけの秘密だ。ユキシロ君にも内緒にしてくれ。彼はウソが顔に出る」
「わかった」公安は妖怪だから人間にカウントするな、と父さんはつねづね言っている。
「あとは父さんにまかせてくれ。……いや、明官さんがユキシロ君に接近せんようにしてもらえると助かる。彼は純朴だから、もし久美に話したのとおんなじことを言われると、そうなんだよそうなんだよ、とベラベラ話してしまうような気がするんだ。だからユキシロ君を明官さんからガードしたい。できるか?」
そう言って父さんは両手を組み、細い目を開いて私をじいっと見つめた。
「いや、明官さんとゆきしろは同じクラスで、あたしは別のクラスだから、それは無理」
私は正直に言った。すると父さんは腕組みをして考え、スマホを手に取った。
「あー、ユキシロ君、夜分に悪いね。今日はお疲れさん。いま久美から話を聞いたんだが、明官さんっていう子と話したことある? ……ない。そうか。彼女、じつは超重症の中二病で、……知っとる? いいや、とんでもないレベチなんだ。ぜったいに関わっちゃいけない。もし向こうが話しかけてきたら、今忙しいから、って言って相手にするな。根掘り葉掘り聞かれて見ぐるみ剥がされるぞ。まだ死にたくないだろ。いいな。約束だぞ」
父さんはうなずきながらスマホを置いた。
「これだけ言えば大丈夫っちゃ」
大丈夫? ったく、男子はおっさんになってもマジ馬鹿だ。
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