四章 2
美琴視点。
アタシは緊張で頭が真っ白になっていた。
反対に、隣にいる石上くんはいつもと変わらない様子だった。
ううん、彼の首筋に汗が流れているから、もしかしたら彼も緊張しているのかも知れない。
アタシはお母さんの顔を見た。
いつも通りの表情。凍て付いていて、隙のひとつもない。
たまに彼女がヒステリーを起こすことは、よく知っていた。
お母さんは、ゆっくりお茶をすすって、アタシの方を見た。
「とにかく、おままごとに付き合ってるヒマはないの。アタシだって疲れてるのよ」
そう言われると言い返す言葉がなかった。
疲れている。お母さんは忙しいのだ。
だったら、アタシがむりに彼女が休むのを引き留める理由はなくなってしまう。
「どうしても、食べてくれないって言うの?」
アタシの心臓はバクバクいっていた。
ややもすれば倒れそうなくらい、アタシは緊張している。
けどっ。
お母さんに食べて欲しかったから。
その一心があるから、あたしは今倒れずにすんでいる。
こんな流れになるのなら、最初からお弁当かなにかにつめてくるんだったな。
失敗した。
けど、過去には戻れないのだ。
「もしかして、この間のこと? あたしがあなたの家に行ったとき、あなたのオムライス食べなかったから、食べて欲しいってわけ?」
お母さんがあたしの目をまっすぐに見ていった。
アタシはうなずいた。その通りだったから。
お母さんはため息をついた。なんで?
「だったら尚更諦めることね。あなたの料理なんて食べる気にならないから」
ぎりっ、と隣で音がした。
石上くんが歯噛みした音だ。キレる寸前って感じだ。
気持ちはわかる。けど、ここは抑えて石上くん。
アタシはこっそり、石上くんの腿を叩いた。落ち着いて、と合図する。
「なんで、アタシの料理を食べてくれないの? お母さん、なんか意地になってない?」
アタシは暗いトーンで言った。
母は、この挑発にみごとに乗った。何年も一緒に暮らしていれば、母親の触れられたくない部分がきちんと見えてくる。
アタシはわざと、地雷を踏みつける。
「――はぁ? 私が? ふざけないで。だいたいなに? あなたの立場はいったいなに? なに不自由ない暮らしを与えてあげているのに、なにその態度?」
「お母さん、アタシのことなんて見てくれないじゃん。ずっとさ――! 運動会だってきてくれなかったし、アタシが学年一位とって自慢してもいっつもいっつも無視してきたじゃんッ!!」
「それとこれと、一体なんの関係があるの? 私が意地をはる理由になるの? そもそも、私は意地などはっていないわよ」
「嘘だ。お母さん、アタシのこと嫌いなんじゃなくて、アタシのこと、本当はどこかで怖いって思ってるんじゃないの?」
なっ、とお母さんの瞳が揺らいだ。
恵子ちゃんが言っていたとおりだった。
やっぱ、恵子ちゃんはすごい人だ、と改めて実感した。
「私が? なぜあなたに恐怖しなくちゃならないのよ」
「お母さん、いっつもアタシの能力認めてくれない振りしてるけど、本当は誰よりも認めてるんじゃないの? そうやって、構ってない振りをしてるけど、本当はいっつも心の中にはアタシがいるんじゃないの!?」
天板が思いっきり叩かれた。
お母さんがついにキレたのだ。
「バカにしないで。あなたのようなガキに構ってる時間などないからよ。なに? 勘違いも甚だしいんじゃないのあなた?」
アタシはさらにトーンを暗くしていった。もう後戻りはできない。
「ガキってなに?」アタシは思い切りお母さんに感情をぶつけるように言った。「ろくに育てようともしなかったくせに、子どもをガキ扱いするってなに? だとしたらあんたがイケないんじゃん。子どものこと無視したあんたがさ」
「だまれっつってんの! あなた何様なの? 親に学費まで払ってもらって、不自由ない暮らし与えられて、いったいなにが不満なのよ!!」
落ち着いてください、と後ろの黒スーツがなだめる。
ケドお母さんは聞く耳持たない。
「学費? そんなんそれだけもうかってりゃ大した額じゃないでしょうよ。こんな都合の時だけ親みたいな顔すんなバーカ」
「なっ――」
アタシが反抗してきたことがよほど想定外だったらしい。
お母さんは口をパクパクして、固まってしまった。
「なんなの――、ホント何なのあなた――」とブツブツ呟いている。
アタシは呼吸を整える。
頭が真っ白だ。次の言葉がまったく思いつかない。
お母さんの反撃が始まった。
「あなたのせいで、どれだけ苦労したと思ってんの? 出産のせいで仕事は滞るし、営業だったあいつと別れたことで散々悪い噂が立った。でき婚、とかふざけた噂まで立った。あなた知ってるの? あんた産んだせいで、こっちは社長の座から引きずり下ろされそうになったのよ? あぁほんと、生まなきゃよかった」
アタシは固まった。
まただ。
また言われた。
アタシはその言葉を聞く度に、震える。自分の存在意義を、見失いそうになる。
もちろんわかっている。
ケンカをふっかけたのはアタシだ。
だから言い返される覚悟もしていた。
ケド、親の立場を利用されて論破されそうになると、こちらとしては返す言葉がどんどんなくなっていってしまうのだ。
生む権利は、親にある。
ケド、生まなきゃよかったなんて、言って欲しくない。
ぽつり、と。
涙がこぼれた。けどお母さんは止まらない。止まる気配すら、ない。
「あなたさえ生まれてこなければ、あいつともすんなり別れられたはずなのに。あんな禍根残す形で別れたの、全部あんたのせい。今でも夢に見る。あいつの怒った顔とか――」
あいつ、っていうのはあたしのお父さんのことだろう。
よくもまぁ、人のことをそこまで悪く言えるものだと感心する。
「それでも、一応は親の体面を保つつもりでいた。あんたにはとりあえずふつうの生活ができるだけの援助はした。それなのに、なに? 私の育て方が間違っていたって言うの? あぁほんと? 信じられない。子どもって親のよくわからないところで反抗するんだ。こんな不良娘に育って。あーあ。ホント最悪」
呪詛のように言葉が止まらない。
言葉のひとつひとつが、アタシの胸を穿っていく。
心がぼろぼろになっていく。
グサリグサリと、音がしていた。胸の中で。
アタシの壊れちゃいけないものがどんどん崩壊していく。
気力が削がれていく。
返す言葉は、ほんのわずかでもあったはずなのに。
その言葉すら失われていく。
アタシって、生まれてこなければよかったの? 生まれてこなければよかった命なんて、本当は世の中にいくらでもあって、そのひとつがアタシなんじゃないの?
そう思った瞬間、自分がバカらしくなった。
アタシ、何やってきたんだろう?
一生懸命やって来たつもりだった。
それが、バカみたいに思える。
むだな努力。
――ど緊張しながら、初めて美容室に行った日を思い出す。髪を染めるなんて初めてだったから、どうなるんだろうとドキドキしながら美容師さんにカラーリングしてもらった日のこと。
――高校に入って、初めて隣の席の女の子に話しかけたことを思い出す。中学の頃なんて友達全然いなかったから、戸惑った。ケドその子はアタシと仲良くしてくれて、今でも付き合いは続いている。
そんなような思い出が、全部バカらしく思えてくる。
――公園で自傷行為に走ったとき、石上くんと出会った。もともと知り合ってはいたけれど、きちんと会話するのは初めてだった。
そんな彼は、諭すでもなく、ただやめろ、とだけ言った。
彼は不思議な人だと思った。
そんな人と出会えてよかったな、と思っている自分が、徐々に出来上がっていることに気がついた。
けど。
今までのアタシが、まるっきりバカみたいに思える。
全部お母さんに認められたくて、認められなかったから。傷ついて、それでももがいた結果なのだ。
全部裏目だったんだ……
アタシのしてきたこと、全部むだだったんだ……
そう思ったとき、さらに涙があふれ出てきた。拭いても拭いても、涙が溢れてくる。
お母さんは頑なに、アタシの料理を食べないという。
お母さんは、アタシのことが本当に嫌いなのだ。
だから認めてくれない。
認めようともしたくない。
アタシって何のために生きてるの?
ねぇ、誰か、教えてよ……
その瞬間、
隣で動く影があった。
「――え、」
アタシは一瞬固まってしまった。彼の行動の意味がわからなかったからだ。
そんなする義理はないはずなのに。
この件については、全くの他人と行っていい彼が、
「ちょっとなにしてるのよ!」
お母さんの絶叫が響き渡る。
アタシはまだ、目を疑っていた。
「石上……くん?」
アタシの隣で石上くんが土下座をしていた。座布団を押しのけて、それはもうきれいな土下座をしていた。
「なに……してんの?」
「見てわからないのか、土下座だ」
「……えっ! ちょっと待ってよ! ホントになんで!? なんであんたがそんなことしなくちゃなんないのよ!」
あたしは叫んだ。
だけど石上くんには、あたしの声なんて届いていなかったらしい。
発言の矛先を、お母さんに向けた。
顔を上げる。石上くんの瞳には強い意志が宿っていた。
「お願いだ。食べてやってくれ」
「はぁ? そんな安いポーズだけで私が動くと思っているの? っていうか、ずっと前から思っていたけれど、あなたは美琴の何なの?」
今日初めて「美琴」と名前を呼ばれた気がした。
それもアタシに向けてじゃなくて、石上くんに向けてだ。
あたしは石上くんがなんて返すのか気になっていた。
なんで、石上くんが頭を下げなきゃなんないの?
しかも、べつに頼んでない。
けど石上くんにはがんとした意志があるようだった。
「俺は荻原の友人だ。そして隣人でもある。彼女と同じ学校に通っているし、彼女のことを、誰よりも深く知っていると思う」
石上くんは恥ずかしげもなくすらすらと答えた。
マジで言ってんのかこいつ、とアタシは彼の正気を疑ってしまう。
けど、彼の目を見る限り本気だった。
よくこんなこっぱずかしいセリフを堂々と吐けるものだ、と感心してしまう。
「そうなの、美琴?」
「な、なによ。そうよ。彼の言うとおり」
アタシはうなずいた。
けど、本当にうなずいてよかったんだろうか。
『彼女のことを、誰よりも深く知っていると思う』
その部分まで、肯定してしまってよかったのか。
石上くんはそう思ってくれている。
ケド、アタシは彼のことをどう思っているんだろうか。
彼とはよき友人だと思っている。出会い方はちょっと変わっているし、彼のために料理を振る舞うって言う不思議な仲だけど、間違いなく友人だ。
彼と過ごした時間は、お母さんと過ごした時間よりも短い。
けど、石上くんと過ごした時間は、お母さんと過ごした時間よりもずっと濃い。
それは間違いない。
だから、アタシにとっての最大の理解者が石上くんで、間違いないのだろう。
今まで蓋をしてきた感情が、一気に流れ出てきたような気がした。
アタシはこの日、石上くんの横顔を初めてまじまじと見つめた。
なんて頼りがいのある人なんだろう、と一瞬だけ思ってしまった。
「で、その男友達クンが、わざわざ頭を下げているこの状況……。美琴、あなた、情けなくないの? あなたもよ? 男友達くん」
「承知してる。だが、引きたくない」
「……へぇ。ついに感情に訴えようってわけ」
お母さんがギラリと眼鏡を光らせた。
本気で怒っている。
アタシはぞわっ! と、鳥肌が立つのを感じた。
部屋の空気が一変した。寒い。
同じ空間にいることが怖くなるくらいに、お母さんは怒っていた。
どうしてそこまで、アタシ達を拒絶するのだろうか。
アタシには理解できなかった。
べつに親だから理解してくれ、って言いたいんじゃない。
ただ、少しでも聞く耳を持ってくれてもいいんじゃないか、と思うのだ。
それとも、そうできない理由があるのだろうか?
そうしたくない絶対的な理由があって、お母さんはそれに怯えているのだろうか――?
そんな考えは打ち消した。
お母さんに限って、そんな感情ある訳ない。
もともと淡泊な人なのだ。
けど、と思う。
そんな感情があると仮定すれば、そこに付け入ることができるんじゃないか?
もんもんと考える。しかし答えは出なかった。
石上くんはにやりと笑った。
「ちげーよばーか。最初から感情に訴えてんだよ」
「――なっ」
石上くんはあくまでもやり通すつもりらしかった。
アタシは戦慄する。
なんでそこまでしてくれるの?
アタシ達はたしかに友達同士だ。
けど、そこまでしてくれる義理は、ないんじゃないか。
もしこれ以上この話題を引っ張ったら、石上くんは傷付けられるんじゃないか。
お母さんは容赦のない人だ。相当な権力を持っている。
だから、石上くん一人の存在なんて、本当はどうにでもできてしまうのだ。
「あなた、いったい何様のつもりなの? さっきから言いたい放題言って」
「悪いか? 言いたい放題言って悪いのか。俺は今日は、あくまで荻原の付き添いだ。あんたを説得するための、いわば協力者の立ち位置でしかない。
だから俺の言っていることは、べつに無視しても構わない。
だがな――」
石上くんはゆっくりと立ち上がった。
アタシはまた、身震いした。
今度は石上くんの気迫に押されてだ。
石上くんはがっ!! と、お母さんの胸ぐらを掴み上げた。周りにいたスーツ達が一斉にこちらに駆けよって、事態を収めようとする。ケド石上くんは止まらなかった。
彼はお母さんの体をぐいっ!! と引き上げて、叫んだ。
「てめぇの娘の要望くらい、母親なら聞いてやれよ! てめぇのせいでどんだけ娘が苦しんでると思ってんだよッ!! 親ならきちんと向き合いやがれ――!! こいつは、てめぇのせいで手首切ったりして、精神追い詰められてんだよッッッ!! 全部てめぇのせいだ! てめぇそのこと知ってんのかよッ!」
ぞくっ、とした。
周りのスーツ達が動揺する。
一斉にアタシの方に目が向いた。
「……ぁ」
とアタシは固まってしまう。
お母さんの目まで、こちらに向いた。
顔面が蒼白になって、口をパクパク動かしている。
「………………ほんと、なの?」
石上くんは握る力を緩めて、さらに続けた。
「あんた、知らなかったんだな。あんたがオムライス食べるのを拒否したあの日、こいつがしようとしたこと――」
石上くんはその日にあったできごとを、端的に語った。
けど、はっきり言って石上くんにはそのことを語って欲しくなかった。
アタシを傷付けたのは、完全にアタシの責任だ。お母さんのせいじゃない。
アタシが勝手に血迷って、傷ついただけだ。
だから、その責任をお母さんに擦り付けるのは、よくないことだと思ったからだ。
それでもことがあまりにも重大だったからだろう。
話を聞いていた黒服達が、「さすがにそれは……」と口々に言っている。
石上くんは、ふぅ、と息をついて言った。
「あんた達が話し合えよ。本当に正しい、母と子どものあり方なんて誰にもわからない。だがひとつ言えることがある。これはたしかなことだ。あんたは、間違ってる。自分のせいで、娘が傷ついて、それを気づきもしない奴に、親を名乗る資格があるとは思えないな」
石上くんの声は鋭かった。
お母さんは感情をどこにやったらいいのかわからない顔で、アタシのことを見つめている。
膝がガクガク震えているのが見えた。
アタシは、なんて言ったらいいのだろうか。
そっと、自分の手首を隠した。
本当は、隠したかったことなのだ。
このことが公になったら、どうなってしまうのだろう。
学校にばらされて、学校にいられなくなってしまうかも。
そうしたら友達にも会えなくなってしまう。
そんなのは、いやだった。
そこまで大事にしたくなかったから、ずっと隠してきた。
石上くんにだけ、話したのだ。
「悪い。荻原。けど、これが最善だ」
石上くんはアタシの方を見ずに言った。
そうだ。
彼は間違ってない。
これが最善だった。
お母さんを納得させるためには、これが最善の策だった。
アタシの秘密を暴露して、お母さんを無理矢理にでも振り向かせる。
「あんたにもう一度問いかける――」
石上くんはお母さんに向けて、言った。
「それでも、こいつの料理を食べないって言うつもりか?」
その言葉は、あまりにも力強すぎた。
アタシは知らず、涙を流していた。なんで泣いていたのかわからない。悲しかったからかも知れないし、悔しかったからかも知れない。それとも嬉しかったからかも知れない。真相は、アタシにもわからない。
ただ言えることは、アタシは石上くんにとても感謝していると言うことだ。
お母さんは、「………………………………わかったわ」と負けたように呟いた。
唇を強く噛んで、スーツの肘の辺りをぐいっと掴み寄せている。
その姿はまるで子どものようだった。
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