四章 3
そのあと、アタシは三十分くらいでオムライスを作った。
お手伝いの小林さんが手伝ってくれると言ってきたけれど、アタシはそれを断った。
自分一人で作り上げないと意味がない。
いつもより、力が入った。
石上くんには申し訳ないけれど、彼に作ったものよりも遥かに上手にできた。
ふだんなら十分くらいでできるが、今日はたっぷり三十分掛けた。
料理している間は、さっきのことを思い出さずにすんだ。
本当は大事にしたくなかったけれど、この際仕方がない、とすら思っている。
アタシがしてきたことは、世間一般から見れば異質だ。
それが、日の元に晒されただけで。
お母さんは、わかってくれるだろうか?
アタシがどれだけ、お母さんのことが好きか、っていうことを。
もしかしたら、オムライスを机の上に置いた瞬間、拒否の感情を示されるかも知れない、と思った。
けど、腹をくくるしかなかった。
「おまたせ」
おおぉ、とどよめきの声がスーツ達から上がった。
その反応はアタシにとっては嬉しいものだったけれど、当のお母さんからなにも反応がないのは辛かった。
お母さんはまじまじと、アタシの作ったオムライスを見つめている。
「全部、一人で作ったのね」
「うん、小林さんの手は借りてない。全部、作ったのはアタシ」
お母さんはオムライスを眺めたあと、すちゃっと、眼鏡を外した。
裸眼だと視力はいくつくらいなんだろうか、とどうでもいいことを考える。
お母さんは迷わず、オムライスにスプーンを突っ込んだ。
それが――なによりも嬉しかった。
緊張した。
手と足が、どうしようもなく震えている。
アタシの人生の中で、一番に待ちわびた瞬間だったと言っても過言じゃなかった。
アタシは唾を飲み込む。
お母さんは、口の中にそのオムライスを入れた。
ごくふつうの、定食屋さんで出しそうなケチャップオムライスだ。
中身はチキンライス。これももちろん、フライパンで炒めて作った。
お母さんはそのオムライスを咀嚼して、たっぷり三分掛けたあと、スプーンを置いた。
心臓が壊れるかと思った。
まさか、食べてくれるなんて思わなかったから。
となりの石上くんも、息を潜めて状況をうかがっている。
冷や汗が首筋を流れるのも構わず、アタシはお母さんの第一声を待った。
そのあとさらに三十秒後に、ようやく念願の声が聞けた。
「伝えておいた方がいいことがあるの」
お母さんは口をぬぐって、思いも寄らぬことを言った。
伝えておいた方がいいこと?
なんだろうそれは?
アタシはそんなことよりも、オムライスの出来の方が気になっているというのに。
お母さんはあたしの目を見ず、机の一点を見ながら言った。
「あなた、昔からオムライス好きだったのよ」
「……………………え?」
昔から?
一体何時のことだろうか?
だいたいオムライスを好きなことを、なぜお母さんが知っている……?
っていうか、アタシは今、オムライスが特別大好物というわけじゃない。
好きか嫌いかで言えば好きだが、めちゃくちゃ好きってほどでもない。
アタシはお母さんの声に耳を傾けた。
「今はどうかは知らないわよ。けど、あなたが小さい頃、そうね、五歳くらいの時だったかしら。あなた、私の作ったオムライスよく食べてたのよ。オムライスだけじゃない。卵を使った料理全般が好きだったの」
アタシの知らない、アタシ。
「……………………うそ、うそだ。そんなの」
アタシは震える声をなんとか絞り出した。
お母さんが、アタシのために料理?
そんなわけない!
このお母さんが、アタシのためになにかをしてくれたことなんて、アタシの記憶にはない!
「今さら! 今さらムシのいい話しないでよッ! そんなの記憶にない!」
「そうでしょうね。だから言ってるでしょう。あなたの幼いときの話だって」
そんな……。
そんな時期があったのか?
アタシは驚きを隠せない。
戸惑いがどんどん広がっていく。
お母さんはさらに続けた。
「おいしい、おいしい、といってくれたわ。ある日まではね」
「ある日って?」
「ある日を境に、仕事が急に忙しくなったのよ。それで、その日以降アタシはあなたに料理を振る舞うことがなくなった。
ちょうど物心つき始めた時期でしょう。
小林がお手伝いにやって来たのもその時期よ。
だから、娘として大事な時期に、アタシはあなたにかかわることができなかったのよ……」
な、にを………………。
なにを今さら、反省してますみたいな言い方をしているんだろうかこの人は。
「そ、そんなのっ! 納得できるわけない! 言い訳じゃん! ただの! 忙しかったからって!」
あたしは叫んでいた。
半ば自分でなにを言っているのか分からなくなるくらい、アタシは混乱していた。
「そうね。あなたに構うこともどんどん減っていった。
これでも……一応親らしいことは、してみたつもりなのよ……。
けど、できなかった。
むいてなかったのよ、私には。
誰かの親になるなんて。
だからあなたを常に拒絶し続けた。
そうね、あなたの言った通りよ。
私はあなたが怖い。なんでもできてしまうあなたが。
それはつまり、私に似ているってこと。
それも、私なんかよりもさらに優秀なんですもの」
お母さんの言っていることが、全然理解できない。
だから、拒絶した?
そ、そんなの……っ!
な、納得できるわけないじゃんか……。
アタシの瞳から涙があふれ出た。
なにを言っていいのか、わからなくなる。
お母さんはオムライスの皿をスプーンでコツコツ鳴らしながら、言った。
「このオムライスもそう。私なんかより、遥かに上手にできてる。しかも、私の作ったのと、似たような味がする。あなた、ほんの少しコンソメ混ぜているでしょう?」
アタシはハッとする。
全身に鳥肌が立った。
なんで?
なんでわかんの!?
は?
意味分かんない!!
「私も入れてたのよ。多分あなた、その味覚えてたんでしょうね。それで、似たような味になってる」
そ、そんな……。
嘘だ。
アタシが無意識に、お母さんの作った料理と自分の作る料理を重ねてたって言うの?
あたしの顔が真っ青になっていく。
どうしようもなく、この人と親子なんだってことを実感した。
お母さんはうつむきながら、言った。
「あなたに、伝えておくわ。『このオムライスはおいしい』。ただそれだけを」
「なんでっ……………………! なんで言ってくれなかったんだよッッッ!!」
そうすれば、すれ違うこともなかった。
教えてくれれば、言ってくれれば、アタシがあんなに悩むことなんてなかった。
お母さんがアタシのことを嫌いなんじゃなくて、ただ不器用だってことに気づけた。
それなのにッ!
それなのにさッ!
なんで言ってくれなかったんだよ………………。
「意地をはるところまで一緒なのね、って、今気づいたわ」
……………………………………あ。
アタシは自分に嘘をつくのが下手だ。だから他人に対しては嘘をついてしまう。
そしてその嘘が、後になった響いてくるのだ。
お母さんも一緒ってこと?
お母さんが不器用なのと同じように、アタシも不器用ってこと?
なんだ、それ……。
思わず笑みが浮かんでしまう。
なんだよそれ………………ぇええ。
「あなたには、散々申し訳ないことを言ったと思う。
まさか、そこまで追い詰められてるなんて思ってもいなかった。
私は、あなたのことをどう思っているか、いまだに自分でもわかってないところがあるの。
嫉妬しているのかも知れない。それとも、娘として愛してるのかも知れない。その愛が巡り巡って、拒絶を引き起こしてるのかも知れない。
あなたって、どうしようもなくなんでもできてしまうのよ。
そういうところがあたしと似ていると思ってしまう。
けど、似ているからこそ、優劣がはっきり見えてしまうのよ。
あなたの方が、恐ろしい。
私なんかよりもずっと、眩しいのよ……っ」
そう言って、お母さんは肩を跳ねさせた。
ハンカチで自分の目元をぬぐっていく。
アタシは、どういう感情でそれを受け止めればよかったんだろう。
こんな時まで不器用だ。
まっすぐ受け止められれば、それですべて丸く収まるのかも知れない。
けど、アタシにはその言葉が、まっすぐ受け止められるほど小さなことだとは思わなかったから。
だから、次に出てきた言葉は、アタシにもなんでこの言葉が出てきたんだろう、って思えるくらい、不思議とすっと出てきて、『あぁこれがアタシの聞きたかったことなのかな』と素直に思えるものだった。
「お母さんは、アタシのこと娘だって思ってくれてるの?」
自信はない。アタシはいつまで経っても、自信がない小娘のままなんだろう。
学校では取り繕って、自信満々に振る舞ってはいるけど、本当はどうしようもなく小心者だ。
だからこそ、今ここで答えを聞きたかった。
曖昧なままにされると、また病む自信がある。そういう自信だけは、ある。
お母さんの言葉を待った。
一分でも、二分でも待った。
お母さんがようやく口を開いたのは、三分以上たってからだった。
お母さんは、言った。
「娘よ。なににも代えがたい、娘」
アタシはその言葉に、ひどく安堵した。
お母さんはアタシのことを認めてくれている。
それだけで、とても安心できた。
となりに座る石上くんが、そっとハンカチを渡してくれた。
アタシはそれを受け取って、自分のそこから流れてくるものを拭き取った。
ハンカチはそれを吸いきれないくらいに、あたしは泣いた。
きっと、初めて、お母さんと『仲直り』できた気がしたから……。
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