三章 2

 おれ、石上鍵は彼女の言葉にそっと耳を傾けることにした。

 彼女が語る物語に、いっぺんの嘘はないのだろう。

 そう思わせるほどに、彼女の語り方は弱々しかった。

 痛みに耐えるかのごとく、口を動かして喋る。

 俺にはその姿が、電池の切れかけた自動人形のように見えた。

 俺にできることがあれば。

 少なくとも、おれの心は晴れる。

 ただ、彼女の話を聞いて、俺にできることがなに一つでもなければ。

 

 俺はただ、彼女の言うとおり、身を引くことしかできない。

 だが、俺にはそんなつもり毛頭ない。

 

「あたしのお母さん、社長なんだ。

 オギワラ食品っていう会社の社長。

 あんたも聞いたことあるでしょ?」

 

 俺は目玉を飛び出させるかと思った。

 オギワラ食品、だと。

 もちろんその名は知っている。

 有名なお菓子メーカーだ。

 主にジャガイモを使ったものが多く、ポテトチップスとか、えびせんとか、そんな商品が多い。

 俺も子どもの頃はよく食べていた商品ばかりだ。

 

「驚きだな」

「んでしょ。でも、これナイショにしといて」

 

 俺はなんとなくその理由を察する。

 母親がオギワラの社長。そして荻原美琴は、その社長の娘。

 親子関係をばらしてしまうと、美琴の方も、社長の方も、いい思いをしないのだろう。

 それだけ母親は荻原のことを嫌っていると言うことか。

 

「お母さん、けっこう色んなところに顔を出してて。

 ニュースとか、雑誌とかで良く顔見る人なの。

 スマホで見てみれば? 顔出てくると思う」


 俺は言われたとおり、スマホで検索した。

『オギワラ食品、社長』

 で検索する。

 出てきた。

 ザ、キャリアウーマンといった風貌で、なかなかに厳しそうな感じだ。

 優しさが、あんまり滲み出てこない感じだ。

 

「あの人、アタシが娘だってこと隠したいみたいでさ。

 お母さん、その会社の営業部長と結婚したんだよね。

 ケド二人は、もともとバリキャリな二人なわけでしょ?

 だからもう、顔を合わせる度に仕事の話ばっかりしてたみたいなんだよね。

 仲は最悪。

 だから二人の関係性も、長く続かなかった。

 けっきょく、結婚してから二ヶ月くらいして、別れ話になった。

 ――けど、その前に、お母さんの妊娠が発覚したってわけ」

 

 俺は彼女の言葉ひとつひとつを聞き逃すまいと、耳を傾けた。

 荻原の表情は、苦しげに歪んでいる。

 それだけ話すのが辛いのだろう。

 

「過ちって奴? お母さんの妊娠が発覚して、二人はもうそれはそれはすごい冷戦状態に入ったんだってさ。

 今でも、お母さんはお父さんのこと嫌いみたい。

 もっとも、アタシはおとうさんの顔なんて、写真でしか見たことないんだけどね。

 それで仕方なく、お母さんはアタシを産んだ。

 産んだ後、ものすごいケンカになったんだって。

 アタシの子育てを誰がするのかとか、もうそんなような話し合い。

 話し合い? あたしがその場にいたわけじゃないからわかんないけど、相当もめたんだと思う。

 で、お母さんはついにヒステリーを起こした。

 もうあんたなんか、出てって。のたれ死ねば?

 そんな感じで離婚が成立。

 お母さんはそのときから、うつに悩まされたみたい」

 

 荻原はゆっくりと、しかしペースを変えずに話し続ける。

 ぽつぽつ、と、彼女の瞳からは涙が落ちていった。

 

「あたしなんか、生まれてこなければよかったのかなぁ……!」

 

 堰が切れたように、荻原の涙があふれ出てくる。

 俺は、なにも言えない。

 なにかを言えるだけの権利が、あるとは思わなかったから。

 

「お母さんは、あたしに冷たく接するようになった。

 世話係を雇って、アタシはその人に育てられた。

 お母さんはあたしの顔なんか、見たくなかったんでしょうね。

 あの人との間にできてしまった異物。

 それがアタシだから。

 お母さんね、アタシを生む直前まで、経営状態がよかったんだって。

 ケドアタシを生んでから、一気に経営状態が悪化した。

 お父さんが会社を辞めたって言うのと、お母さんが動けなかったから、っていうのが主な理由だと思う。

 そこから会社の業績はどんどんどんどんよくなくなっていった。

 五歳くらいの時、アタシは直接言われた。

『あんたさえいなければ』

 って」

 

 あんたさえいなければ、こんなことにはならなかった。

 何とも自分勝手な理由だと思う。

 避妊をしなかったか、あるいは避妊が意味を成さなかったか。

 様々な理由が考えられるが、荻原美琴という人間は、この世に生を受けてしまった。

 望まれるぬ形で。

 考えられる限り、最悪の形で。

 

 皮肉なのは、母親が荻原美琴という子どもから離れれば離れるほど、荻原美琴からの承認欲求が強くなっていった、ってところだろうか。

 恋愛とかでもそうらしいが、相手が離れれば離れるほど、その人のことを好きになってしまう、みたいなパターンはいくらでもある。

 荻原は、母親の影を追いかけて追いかけて、けれどいつまで経ってもたどり着けないでいる。

 荻原は腕で目元をこすりながら、赤くなった目をこちらに向けて、さらに続けた。

 

「アタシ、小学校くらいの時からかな。

 勉強も、スポーツも、学年で一番になれるように誰よりも努力した。あの人に認めてもらいたかった。その一心で。

 ケドあの人は、アタシのことに関して、まるで興味を示さなかった……。

 アタシがいくら努力しても努力しても、まるでそれがむだなんだって言外に告げてくるみたいに。

 それで、勉強もスポーツも認めてくれないんなら、料理とか、そっちの方で認めてくれるかなとか考えた。

 

 お世話係の人に頼んで、料理を一杯教えてもらった。その人からも褒められるようになった。アタシはアタシで、十分に自信があるつもりだった。

 ケド、あの人はやっぱり、食べてくれない。

 肉じゃがも、野菜炒めも、小籠包もカレーもシチューもなにもかも。

 アタシが作ったから、って言う理由で、嫌悪するみたいにアタシの料理を遠ざけた。

 アタシのなにがいけないんだろう。そう思うこともあった。

 

 けど、わかってる。

 アタシの存在がいけないんだって。

 

 生まれたこと自体が間違いなんだって。

 お母さんにとって、アタシって言うのは父の遺伝子を継いでいる忌まわしき生き物なんだ。だからお母さんはアタシのことを、どうしようもなく嫌う。認めたくない。

 アタシの言葉は、どうやったって届かない」

 

 俺は母親に「生まれてこなければよかった、あんたなんて生むんじゃなかった」とか、言われたことがない。

 こういう言い方をしたらあれだが、少なくとも「ふつうの親」であれば、そんなことは言わないのだろう。

 俺は恵まれている。

 荻原の話は闇に似ていて、聞いているこちら側が吸い込まれそうになるほどに、辛く、重いものだった。

 俺は、荻原になにができるだろうか。

 

 自分という存在をここまで情けないと感じたことはない。

 荻原の話を聞いといて、けっきょくできることがなんなのか、全く判らないのだ。

 荻原の母親に直接殴り込みに行く?

 そんなことをしたら、よけいに荻原が嫌われることになる。

 

 クソみたいな親だ、

 

 そう荻原に言ってやれたら、状況はよくなるのだろうか。

 いやならない。

 荻原にとっては、どんなことを言われようが、その人物は母親だからだ。

 どれだけひどいことを言う人間であっても、荻原にとっては世界で一人だけの母親なのだ。

 だから俺は軽率な発言ができない。

 

「お前の母親が悪いな、それ」

 

 なんて言える訳がない。

 荻原は、彼女に認められたいのだから。

 俺は机の下で拳を握りしめた。

 多分、足にも力が入って震えていた。荻原もそれに気がついていると思う。

 学業成績、体育祭での活躍、猛勉強した料理……。どれもこれも、荻原の母親には認めて貰えなかった。

 それでも彼女は、認めて貰いたいと思う。

 

「…………………………ねぇ、ちょっとあんた」

 

 俺は荻原に言われて初めて気づいた。震える足が、次第にエスカレートしていく。

 どうして、

 おれは思った。

 目の前の荻原の瞳が、丸く見開かれていく。

 

「なんで、あんたが泣いてんの?」

 

 そう、おれはなぜか知らないが、涙を流していた。

 自分のことではないくせに。

 俺がどうにかできる問題じゃないくせに。

 俺は情けなく、惨めに、涙を流していた。

 

「………………悪い」

「………………べつに、いいけどさ……………………あんたが泣くようなことじゃないじゃん」

「勝手に……お前の辛さ、わかった気になってたみたいだ」

 

 手の指をもてあそぶ。視界は滲んでいた。

 おれは、うまく荻原の顔が見られなかった。

 だけど、彼女はおれの顔をまっすぐ見ているのだろう。

 荻原は鼻をすすると、袖で涙を拭き取った。

 

「あんた……………………あたしの話聞いて引かないんだ」

「引かないな。なんで引くんだ」

「だって……アタシバカみたいじゃん。お母さんに認められたいからって自分の手料理ヘラヘラ笑いながら彼女に手渡そうとして、けっきょく受け取って貰えなくて。あ~あ、なっさけない」

「情けなくなんかねぇだろうが」

 

 俺は強めに言った。荻原の肩がビクッと跳ねた。

 

「……あ、いや悪い」

「あんた、そんな声出すんだ」

「そうだな。俺も自分でビックリした」

 

 こんなに強めな声を出したのは何年ぶりだろうか。

 そうだ、俺いじめられていたとき、そのいじめっ子に対して一矢報いようと叫んだときだ。

 あのとき以来か。

 俺は怒鳴ると、声が高くなる。いやみんなそうか。だが俺の場合、きぃいいん、と甲高い音が鳴る。

 

 自分の声帯の事情についてはよくわかってないが、とにかく俺の怒鳴り声は高く、ふだんと違うために人をビックリさせやすい。

 荻原には申し訳ないことをした。

 だが、荻原が思っていることは間違いだ。

 母親に認められたいという欲求は、人間としてあってしかるべきだ。

 決して恥ずべきことじゃない。情けないことじゃない。

 

「全然バカみたいじゃないだろ。誇れよ、自分を。だいたい、お前の料理がうまいことは、俺だって知ってる」

「そう……かな。ケド、何か、すっごく子どもみたいじゃん。……………………認められるかな? って笑顔で突進して、忙しいからあっちいってなさいで片付けられるって、けっこうダサいじゃん?」

「……………………」

 

 荻原の言わんとしていることはよくわかる。

 自分のテンションと、相手のテンションが極端に違った場合、自分が大いに恥を掻くと言うことは往々にしてある。

 

「……………………お前は、どうしたいんだ」

「どうしたいって?」

「母親に認められたいのか?」

「そりゃ……もちろん。ケド、………………今日のことで、自信、なくなっちゃったし」

「……」


 たしかに、目の前で拒絶されたのだ。

 そりゃ自分に自信がなくなってしまうのもむりはないだろう。

 さて、俺はどういう言葉を掛けてやればいいか。

 慰めの言葉?

 それともアドバイス?

 

 ザンネンながら俺は教師でないんでな。誰かに対して、どういう導き方をしてやればいいかなんかわからない。

 だが、おれの心にはある感情がわだかまっていた。


 ――荻原をこのままの状態にしておきたくはない。


 わかってる。相手がただのお隣さんだなんてことくらいは。

 だがこのまま放っておいても、寝覚めが悪いことだけは事実だ。

 せめて、荻原と母親の関係性だけでもどうにかしてやりたい。

 俺はべつに、ここで救いの手を差し伸べて荻原をどうこうしたいわけじゃない。

 たしかに荻原は学校一番の美少女だし、太陽的存在だけれども、俺の中に下心は一切ない。

 って言うか、ここで下心を持ってしまうような人間でありたい、と思うことすら億劫だ。

 

 まぁまどろっこしいことはいい。

 俺はべつに、荻原のことが恋愛的な意味で好きなわけじゃないのだ。

 ザンネンながら、荻原は恋愛対象外だ。

 ただのお隣さん。

 だからこそおれは、彼女の問題に対して冷静な判断が下せると思った。

 間違いなく荻原の母親は、世間一般から見てできた母親とは言えない。

 しかし荻原にとっては、たった一人の母親。

 

 彼女はお母さんに、甘えることができなかった。

 ずっと、寂しい思いを抱えて生きてきたと言うことだろう。

 荻原は机の一点を見つめながら、言った。

 

「卒業したらね。自由なんだって。あたしの好きなように生きていいんだって」

「……」

 

 どうして、彼女はそんな言葉で自分の境遇を語ったのだろうか?

 それはつまり、親が子どもを見捨てる、という行為に他ならない。

 けれど彼女は、「好きなように」という表現を使った。

 あくまで母親からの愛情があるような言い方だ。

 だが俺からすると、そこに愛情の欠片のひとつもない。

 

「それは、あの母親が言ったのか?」

「そう」

「そうか」

 

 俺はただうなずくだけに留めた。

 荻原がそういう風に解釈しているのなら、俺から掛ける言葉はない。

 そして俺は、その母親の言葉とやらを直接聞いたわけじゃないからな。

 

「今日はとりあえずシャワーでも浴びて寝ろ。話は明日以降でも構わないだろう」

「………………うん。そうね」

「今夜は一人で寝られそうか?」

「多分へーき」

 

 おれはひとつため息をつく。呆れのため息ではなく安堵のため息だ。

 荻原が今夜しっかり眠れることを祈ろう。

 今おれにできることはそれくらいだからな。

 

「お前が辛いと思ったらいつでも俺を頼ってくれ。俺とお前は隣人同士だが、もうただの隣人じゃない」

 

 すると、荻原の表情が一気に瓦解した。

 おれの方を見つめる彼女の瞳からぶわり! と涙があふれ出てきたのだ。

 ばっ、

 音がした。

 荻原が椅子から立ち上がって、俺の胸に飛び込んできたのだ。

 正直拍子抜けする時間すら与えられなかった。

 荻原の頭頂からは表しがたいくらいいい香りが漂ってきているが、それくらいでドギマギする俺じゃなかった。

 荻原が顔を擦り付けるように、叫んだ――

 

「辛かったよ……ッ!! 苦しかったよッ!! ケド誰にも言えなくてッ!! 一人で抱え込んでッ!! ずっと寂しかった! みんなが知ってるアタシは、作り物の自分で、自分って言う存在がなんなのかわからなくなることもあってッ!」

 

 荻原の叫びは、さらにエスカレートしていく。

 彼女の抱え込んできた思いが、言葉となって迸る。

 俺はその言葉のすべてを受け止めることにする。

 隣人。

 けどおれたちは、タダの隣人同士じゃない。

 秘密を共有し合う二人。

 荻原の秘密を俺は知ってしまった。

 

「もう……抱え込まなくていいのかな……」

「いいんじゃないのか。……ひとつ言えることは、俺は高校卒業までに、ずっとお前の隣にいてやれるってことだ。辛かったら頼ってくれ」

 

 荻原の瞳が、こちらを見上げてきた。

 その表情はまるで幼い子どもが、親に縋るときのようだった。

 

「本当に?」

「おれは嘘はつかない」

 

 そして、俺は荻原の肩をそっと抱きしめた。

 柔らかく、細い。簡単に握りつぶせてしまいそうになるほどに、繊細な肩だ。

 荻原はこの肩で、抱えきれないものを抱えてきた。

 なら俺が、その重荷を少しばかり担いでやることだって、できなくはないだろう。

 荻原と俺は他人同士じゃないのだ。

 できることがあったら、やる。

 

「そうだな、荻原。もうちょっと話できるか?」

「……?」

 

 俺は荻原の体を自分の体から引き剥がし、言った。

 荻原の精神状態はまだ落ち着かないらしく、肩をなんども跳ね上げて泣いている。

 

「いいぞ、落ち着くまで待つ」

「………………うん、ありがと」

 

 荻原はそう言って、椅子に座り込んだ。

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