三章 3
一時間ほど経って、荻原は泣き止んだ。
「悪かったわね。取り乱しちゃってさ」
「気にしない。お前が取り乱すのは、いつものことだってわかったからな」
改めて思う。
荻原美琴という女の子について。
彼女は学園のアイドルと名高いのだ。陽キャグループの頂点に立ち、学校行事のあらゆる面で活躍する彼女。
誰隔てなく仲良くし、みんなからの好感度も高い。
そんな悩み事の欠片もなさそうな女の子が、こんなにも親との関係性のことで悩んでいたなんて。
それも、自傷行為に走るくらい、重く、深く。
彼女の秘密は、俺しか知らない。
いや、あの母親は、とっくに荻原の秘密について気がついているのではないか?
精神を深く病んでいるという事情に、母親は気づいているんじゃないか?
だとしたら、……胸くそ悪いな。
俺は直接、荻原の母親を見たわけじゃない。
俺はあくまでその母親にとって他人の立場だが、少なくとも荻原とは他人同士じゃない。
「俺の話をしてもいいか」
荻原はコクン、とうなずいた。
俺はそのまま話を続ける。
荻原が自分のことについて話してくれたおかげで、おれの方も自分のことについて話しやすくなった。
いわゆる「自己開示」という奴だ。
相手のことを知ったら、自分のことを話さずにはいられない。
まるで魔法だな。
「話、とはいっても、お前ほど重くはない。不幸度合いで言ったら、お前の方が遥かに上だろう」
「そんなん、測れるもんじゃないでしょうが」
「……そうだな」
荻原から返ってきた言葉が意外すぎて、思わず笑ってしまった。
自分の不幸を棚に上げて話すところが、いかにも荻原らしいって言うか。
こいつの根っこの部分は、めちゃくちゃ優しいのだろう。
話してて、よくわかる。
「おれ、中学までいじめられてた」
「うっそ――!」
荻原が飛び上がらんばかりに驚いた。
「あんたが? 嘘でしょ? そんなに斜に構えてるくせに?」
「おい。……まぁ逆だ。俺が斜に構える原因になったのが、そのいじめってわけだ。当時まで俺は、クラスでは目立たない一の、ふつうの男子生徒だった。言葉を換えるなら、陰キャ、って奴だな」
「……まぁ、なんとなく想像できる。っていうか、今も陰キャじゃね?」
「黙って聞けよ。……まぁとにかく、俺には友達が少なかった」
「うん」
素直にうなずかれたことは癪だったが、話が進まないので無視する。
「ところが、俺はとくに仲良くしてるつもりはないのに、向こうからやたら話しかけてくる奴らがいた。あ、全員男な」
「その人達にいじめられてたってこと?」
「そのときはまだいじめられてなかった。というか、俺はそいつらと一緒に放課後遊ぶくらい、仲がよかったんだ」
俺は当時のことを思い出しながら、ひとつひとつ言葉を選ぶように続けていく。
「ラウンドワンとかもいったし、自転車で静岡まで行ったこともあった」
横浜市から、静岡まで。すさまじい旅路だった。思い出すだけでも筋肉痛になりそうだ。
「すごいね」
「……あぁ。もともとそいつら自体は仲のいいグループだったんだ。そこに、俺が加わるようにして、遊ぶようになった、って感じだな」
「……」
荻原は真顔だった。まぁそりゃそうだろう。これから話が転落していくわけだからな。
「仲のいいグループは四人組だった。そこに俺が入ることで五人。ところがそのグループに、もう一人入ることになった。元々のグループと仲がよかった奴だ。
そいつはかなりマウントとるタイプでな。完全に陽キャタイプの男だった。
だから俺という存在が気に入らなかったんだろうな。
俺はあるとき、その陽キャくんから呼び出された。
校舎裏だ。笑うだろ? 今時校舎裏に呼び出す奴があるか。
だが怖かった俺は、言われたとおり校舎裏に行った。
そこで――まぁ、かつあげにあった。
おれたちのグループにいたいのなら、金をよこせってな」
「うわ……さいてー」
「最低だな。本当に最低だな。
だが俺は言われたとおり、指示に従い金を出した。
相手も中学生だったからな。けっきょく千円で許してくれた。
だが、そのカツアゲは日に日にエスカレートしていった。
五千円、一万円、三万円……。どんどんどんどん金額が増えていった。
友達って、金で買うものなのか?
おれはそう、なんども自問自答した。
だが考えても、俺は金を巻き上げられた。
あるとき校舎裏に行って、おれたちのグループ全員が勢揃いしていた。陽キャくんも含めてな。
そこで、俺はその四人達に蔑まれたような視線を送られていることに気がついた。
今まで、俺はそいつらのことを友達だと思っていたのに。
彼らはそれまでのような視線を送ってはくれなかった。
人間、かかわる人間次第で、どこまでも性格が変わってしまうんだな、そう思った。
陽キャクンがグループに入ってきたせいで、ここまで人間関係が変わるなんて、思いもしてなかった。
陽キャクンが『金出せよ』と叫ぶ度に、その取り巻きの四人達も俺に対して危害を加えることになった。殴る蹴るは当たり前だ。
情けないだろう。
だが当時の俺は、やり返す気力すら残ってなかった。
自分が信じていた人たちに、ここまで裏切られるとは思ってなかったからな。
俺は泣いた。泣いて、親にも相談した。
そのときにはもう、学校の誰も信じられなくなっていた。
親は、ある提案をしてくれたんだ。そんな悩んでる俺に対して。
『高校は、どこか遠くに行ったらどう?』
ってな」
「それが、あんたの一人暮らしするようになった理由?」
「そうだ。お前とは正反対の理由だろ」
俺は、心配してくれた親からの提案で一人暮らしできた。お金も月ごとに払ってもらってるし、生活に不自由したことはない。
荻原は、親から突き放されるために、一人暮らしを強要された。
そこには、天と地ほどの差がある。
だからこそ、俺は、話していてさらに情けなくなっていく。
「俺にとって、正直お前は尊敬の的だ」
俺は荻原の目を見て、まっすぐにそう言った。
嘘はない。
荻原はその言葉を受けて、わずかにたじろいだ。
感情が顔に出やすいタイプだからな。
ちょっと嬉しかったらしい。
「あんなに料理ができて、掃除のスキルもすごい。お前は、結婚したらいい嫁になるだろうな、って素直に思えるくらい、家事の技術に長けている」
今日の俺はやけに素直だなと思った。
だが今日くらいはいいだろう。
荻原は顔を真っ赤にして、「そ、そんなことないし……」と呟いている。
荻原はゆっくりとココアをすすって、口を開いた。
「なんか、抱え込んでるのはアタシだけじゃないんだって、ちょっと反省した」
「反省する必要がどこにあるんだ?」
「アタシばっかり自分が人類で一番不幸な人間なんだって、思い込んでるみたいで」
俺は口を噤む。
荻原に比べれば、俺の抱えてきたものなどたいしたことがない。
それどころか、すでにその問題はどこか遠くへ行っている。
現に、高校は地元からかなり離れた場所にあるからな。
俺は、裏切られた。
荻原は、認められない。
勝手に『似たような経験をしてきた二人』なんてまとめることは、絶対に許されないだろう。
現に俺の境遇は、おれの心の弱さが招いた結果である。
翻って荻原は、荻原のせいじゃない。母親が娘を認めなかったら、娘はどこまでも悲しむだろう。悲しまない方がどうかしている。
荻原が、明るい顔をこちらに向けて、そして言った。
「話してくれてありがと。なんか、おかげで楽になったって言うか。似たような思いしてる人って、世界中にたくさんいるんじゃないかって、そんなことも思った」
「そうか。まぁ少しでも救いになってくれたんなら、俺としても万々歳だ」
「……あはっ、あんたのそういうところ、あたしはけっこう好き」
「どういうところだ?」
「そのむだに大人っぽさを強調するところ?」
「……耳が痛いな」
俺は苦笑いを浮かべた。
完全に図星だ。図星を突かれた。
俺は荻原の言うとおり、大人じゃない。子どもだ。ケド大人の振りをしていないと、自分の精神が壊れてしまう。
どこまでも、闇に飲まれてしまう。
荻原みたいに、自傷行為に走るレベルじゃないが、自分をひたすらに嘆き、苦しむくらいの自信はあるな。
メンタルの強い人間を見ていると、どこか羨ましくなることがある。
しかし、いかにもメンタルの強そうな荻原でさえ、これだけ多くの傷を負っていたのだ。
人間見た目じゃわからない。
そうやってその人のすべてを知ることのないまま、死んでいくのが人生なのかも知れない。
荻原はにんまぁ、と笑みを浮かべながら、頬杖を突いた。
そして、そのきれいな唇を開いて、こんなことをのたもうた。
「――ねぇ、あんたんち、明日から行っていい?」
「それはどういう意味だ?」
俺は戸惑いを隠すように言った。
女子が男子の家に来るなど、不健全である。
いやそうでもないか。友達同士だったら、べつに問題ないかも知れない。
友達、友達か……。
おれたちの関係性は、今どこにあるのだろう。
隣人。そして友達。
わからない。わからないが、べつに結論を出すような問題でもないだろう。
「……べ、べつにあんたの期待してる意味じゃないし。っていうか、エロいことしたらマジで殺すから。……んま、あんたなら大丈夫でしょうけど」
「逆に信頼されているのか、おれは」
「あんたがそういう人間じゃないことくらい、とっくにわかってる。性欲なさそうだしね」
どうだろうな。俺は健全なレベルで、性欲はある。
だが、荻原に対してそういうことをしたいとは、思わない。
俺と荻原は、恋人同士じゃないのだ。
「あんたの家で料理作ろうかと思って。夕食。ほら、毎日タッパで渡すのめんどいじゃん? どうせならあんたんちで作っちゃおうってわけ。名案じゃない?」
「……それはありがたい申し出だが、悪い気もする。だいたい、夕飯代を俺は払ってないんだ。罪悪感だらけだぞ」
そうだ。俺は毎日、荻原に夕食のおかずを作ってもらってはいるが、夕食代を払っていない。
完全に荻原に甘える形になってしまって今まで気づきにくかったが、俺はただ飯を食らってるわけである。
「……えー……。あんたってそういう細かいこと気にするタイプなんだ。っていうか、アタシけっこうお金自体はもらってるから、べつに気にすることないのに」
「……現実的な問題って言うよりかは、おれの心の問題だ。さすがにただ飯を毎日もらうわけにはいかんだろう」
「……んじゃ、こんな形でどうよ。あんたが夕飯代の材料費の七割を出す。それでアタシが作る」
「なんで七割なんだ」
「アタシの人件費込みってことで。どう? これなら文句ないでしょ?」
たしかにな。
それなら文句はないかも知れない。
「べつにお金いらないのにな……」
荻原は呟いた。だがまぁ、払わないわけにもいかないからな。
「七割か。いいだろう。それで頼めるか?」
「はーい。んじゃ、明日から作りに行くね!」
荻原は楽しそうに言った。
もしかしたら、俺に料理を振る舞うことが、荻原にとっての生きがいになっているのかも知れない。
いや、そんなことはないか?
まぁなんにせよ、荻原が楽しみにしてくれるのであれば、俺にとっては文句はない。
明日が待ち遠しくなってきた。
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