三章 1

 アタシが机の端を見つめてぼーっとしていると、石上くんがカップに入れたココアを持ってきてくれた。

 

「ありがと」

「うちから持ってきた。ここの家の棚荒らすわけにはいかなかったんでな」

 

 あたしは半ば意識を手放しかけている。疲れがどっと押し寄せてきた。こんな日にはよく眠れるとは思うけど、まさか石上くんの前で眠りこけるわけにはいかなかった。

 アタシはココアをすする。

 温かい。苦めの、砂糖が余り入ってないタイプだ。

 あたしの好みのココア。

 ちなみにアタシの家にココアはない。あるのはコーヒーだけ。


 ふぅ。

 気分が少し落ち着いてきた。

 

 頭の中はいつも通りの罪悪感とか、石上くんへの申し訳なさとかで一杯だったけど、当の石上くんはいつもの石上くんだった。

 彼は、アタシのあんな姿を見ても動揺しないのだろうか?

 まさか。

 動揺くらいはしているはずだ。あんなに狂った女、どうも思わないわけがない。

 あぁ、思い出してしまう。

 

 ――なんであなたなんて生まれてきちゃったのかしら


 どうしてそんなことが言えるの?

 アタシの瞳から、涙がぼろぼろ出てきた。

 心がズタズタに引き裂かれてしまった気分だ。今すぐに、泣き叫んでいいよと言われたら泣き叫びたいくらい。

 胸の痛みは、治まることを知らない。それどころか、アタシが自分のことを責めれば責めるほど、さらに痛みが広がっていく。

 

 どうしようもなく、暴れたい。この押し寄せてくる、止めどない激情に身を委ねて、いっそのこを身を滅ぼしたい。

 自分以外のすべてが、どうにでもなってしまえ、今はそんな気分だった。

 

 やばいかな……アタシ。

 けど、もう心が限界なんだ。

 悩んで、悩んで、期待して、裏切られて。

 お母さんは、アタシのことを認めてくれない。

 アタシが作ったオムライスを食べてはくれなかった。

 それがどんなに、辛いことか。

 

 アタシ、一生懸命作ったんだけどな。ケドお母さんからすると、食べる価値もないものだったのかも知れない。

 ……ううん、ダメだ。考えたってしょうがない。

 痛みは、自分の中で消化しなきゃダメだ。

 目の前で、石上くんがココアをすすっている。明後日の方向を向いていた。

 アタシはこんなところで完全に崩れてしまうわけにはいかなかった。

 じゃなきゃ、石上くんに迷惑が掛かってしまう。

 耐えろ。

 今は耐えるときなんだ。

 

「ごめんね、なんかアタシが迷惑掛けちゃって」

 

 石上くんは、なにも言わずにあたしの目を見た。

 ――そんな強がりはやめろ

 瞳は、そんな言葉を湛えていた。

 アタシは、また、涙を流した。

 救いようのないアタシの目の前に、救いの手を差し伸べてくれた人がいる。

 石上くんはすっと目を閉じた。それから口を開く。

  

「なにがあったんだ?」

 

 彼はただ、それだけを口にした。

 アタシは、石上くんに今日あったことを話した。

 誕生日の日に、生活費を直接渡しにお母さんが来てくれること。それが、お母さんの事情で一日早まったこと。 オムライスを帰る前に食べて欲しいと言ったら、食べてくれなかったこと。

 

「なんであんたなんて生まれてきちゃったの、って言われた」

「……………………そうか」

 

 アタシは、自分でそのことを言葉にしてしまうことで、楽になれると思っていた。

 だが事情は反対だ。自分から吐き出された言葉に、アタシの胸はまたチクリと痛む。

 



 アタシはいったい、これを石上くんに伝えることでなにを期待しているのだろう?

 いや、果たして期待なんてしているのだろうか。

 石上くんは便利屋じゃない。

 アタシの悩みを吐露したところで、救いの手を差し伸べてくれる、便利な道具じゃないのだ。

 もしかしたら、石上くんはあたしの味方になってくれるかも知れない。

 そんな淡い期待もあった。

 ケド、やっぱり他人は他人だ。

 

 たかが隣人同士でしかない。同じ学校の生徒だけれど、それ以上の関係性じゃないのだ。

 アタシは、わがままだ。

 見栄っ張りで、自分勝手。

 石上くんにこれ以上迷惑は掛けたくない。

 だからアタシは、身を引いた。

 

「ごめんね、こんなこと石上くんに話したってしょうがないのに。

 オムライス、食べよっか。

 冷めちゃったけど、これ自信作だから」

 

 アタシは言った。

 石上くんはなにか言いたそうな顔をしていたが、アタシは彼の言葉を遮るように、オムライスの皿を彼に寄せた。

 

「食べて」

 

 アタシのオムライス。

 お母さんには食べて貰えなかったオムライスだ。

 石上くんはきっと、おいしいと言ってくれるはずだ。

 アタシだって、自分の料理にはそれなりの自信がある。

 だって自分でおいしいと思うんだもん。

 当たり前じゃん?

 

「いただきます」

「はいどーぞ」

 

 アタシはオムライスをすくって食べる石上くんの顔を眺めながら、自分の分をスプーンで掬って食べた。

 おいしい。間違いなく。

 

「うまいな。やっぱりお前、料理うまいよな」

「へへっ、でしょ」

 

 アタシは笑顔で応えた。石上くんには、それが屈託のない笑みに映ってることだろう。 

 ところが、石上くんの次の言葉で、アタシの表情筋が凍り付いた。

 

「……で、お前の話がまだ終わってないんじゃないか?」

 

 正直、探りを入れられるって言うのは、アタシにとっても辛いことだ。

 アタシの中にある、根っこの部分。それを彼に話してしまったら、アタシと彼はもう、ただの隣人同士でいられなくなってしまう。

 アタシは、この関係性を好んでいる。

 ただの隣人。お互いに挨拶とか、世間話はするけれど、それ以上の話はしない。

 アタシの思考を読んだかのように、石上くんは言った。

 

「お前は隣人同士の関係性を壊したくない、とか思ってるんじゃないだろうな」

「……なんで? あんた思考読めるの?」

「読めない。だが推測でだいたいわかる。特に今のお前は弱ってるせいで、よく表情に浮かび上がる」

 

 うそ……。

 あたしは思わず自分のほっぺたを触ってしまう。

 取り繕ってるはずのものが、取り繕えてない。

 

「お前には、お前の顔が見えないだろうがな。俺にはバッチリと見えてる。図星だろ」

「……えぇ、そうよ。ただ、あたしの話をあなたが聞く義理はないんじゃなくて?」

 

 アタシが冷や汗を垂らしながら言うと、石上くんは顔を凍り付かせた。

 それは戸惑いとか、驚きとかからじゃない。

 アタシに対して、彼は冷たい目を向けてきているのだ。

 それはつまり、アタシに対する『厳しさ』だった。

 

「話せ」

 

 アタシはビクッと震えた。

 石上くんがこんなに怖い顔をするなんて思わなかったから。

 

「……いいの? あんたに聞かせるような話じゃないかもよ」

「それは俺が決めることだ。自殺しようとしている隣人を放っておく隣人がどこにいるんだ?」

 

 それはたしかに、そうかもしれない。

 アタシは、自分の行動を恥じた。そして悔いた。

 どうして、またやっちゃったんだろうか。

 けど、今考えたってしょうがない。そのときは、衝動的に死にたいと思ってしまった。

 とにかく自分を壊したいと思った。

 母親から、また拒絶された。

 アタシにとってその事実は、とても辛いものだったから。

 

「わかった。一応、話はする。ケド、あんたにこれ以上迷惑を掛けたくないから、話を聞いたあと大人しく身を引いてくれる? 

 アタシの問題に、あんたを巻き込むのは、申し訳ないって言うか。

 アタシ自身の問題は、やっぱりアタシ自身が抱えるべきだと思うの」

 

 アタシの言葉に石上くんは動揺を見せない。

 それどころか、近くにあったティッシュで口を拭き始めた。

 なんて強靱なメンタルなんだろう。

 あたしは素直に感心してしまう。

 

「いい、話すよ」

「…………あぁ」

 

 そうして、あたしは話し始めた。

 あたしにあったこと。アタシの根源的な部分。痛み。そのすべてを吐き出すように――

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