二、五章

 美琴視点


 なに作ってやろうかな。

 アタシはキッチンの前で悩んだ。

 いつもメニュー予め決めてから作るんだけど、今日はちょっと豪勢にいきたい気分だった。

 まさかあいつがプレゼントをくれるとは、思ってもなかったから。

 

 明日はおそらく、自分一人で誕生日を祝うことになるだろう。

 ……いやだな。

 アタシは誕生日が嫌いだ。

 他の子達は、お父さんとかお母さんとかからプレゼントもらって、楽しく家族でパーティーとかするんだろうな。

 正直、そういう子達が羨ましかった。もちろんみんながみんなそうとは限らないけど、それでも、アタシにはそういう経験がないから、やっぱり羨ましい。

 

 明日は母親が家にやってくる。誕生日に、直接生活費を渡しに来るからだ。

 基本的には銀行口座に振り込まれるようになっているのだが、誕生日がある月――つまり十月は別……という話になった。

 お母さんが視察にかねて、この家にやってくる。そのときに生活費を手渡される。

 来て欲しい。来て欲しくない。

 両方の思いが、アタシの中でせめぎ合う。

 十月二十七日。それはアタシにとって、特別な日なはずだ。

 

 けど、どうしてこんなにも、誕生日を迎えることが憂鬱なんだろうか。

 どうせなら、今日という日がループして欲しかった。

 また、石上くんに誕生日プレゼントをもらって、二人で笑い合う。

 この日だったら、永遠にループしていいと思えた。

 ただの隣人のはずなのに。どうしてこんなにも、嬉しくなってしまうんだろうか。

 

「……さ、作るか」

 

 アタシはエプロンをいつものように着けて、ご飯の支度をしていく。

 材料はたっぷりある。うーんそうね。オムライスでもつくって、直接お皿に盛り付けて石上くんの家に持って行く……とかもありね。

 いっつもタッパだと、なんかちょっと寂しいというか。貧乏くさいって言うか。

 せっかく石上くんが家にいることがわかってるんだもん。

 直接手渡しでもいいかもしれない。

 

 よーっし、とアタシは腕まくりをした。

 作るのはチキンのオムライス。洋食屋さんのオムライスを凌駕するレベルのを作ってやる。

 アタシはせっせと調理を進めていく。チキンは冷凍してた奴を使うことにした。

 

「~~~~~!」

 

 アタシは鼻歌を歌いながら、フライパンを操っていく。

 一個目が完成。ついでに二個目も作る。

 二個目は石上くんのにしよう。温かい方がいいもんね。

 

「できた!」

 

 アタシは火を止めた。

 ふん、じょーでき! 我ながら、うまく作れたと思う。

 これを石上くんのところに持って行く。彼はいったいどんな顔をするんだろうか。

 へへっ、なんかちょっと楽しみ。

 いかんいかん。アタシの頬が思わず重力に負けてしまった。

 

 だらしない顔をしていると、石上くんに笑われてしまう。

 けど、ま。あいつにならだらしのない顔を見せてもいいかな。

 そんなことを考えながら、アタシは玄関の扉を開けて――動きを止めた。

 マンションの廊下。その奥にはエレベーターが設置されている。

 そのエレベーターから、一人の女性が降りてきた。

 

「……うそ………………なんで……………………っ!」

 

 アタシは完全に思考停止に陥る。

 母親だ。スーツ姿で、いかにもキャリアウーマンといった風貌の女性。

 

「あら、久しぶりね。元気だった」

「な、んで、明日じゃなかったの?」

 

 アタシの脈が、とく、とくと速くなっていくのを感じる。

 や、ばい……。なにも考えらんない。

 頭の中は完全に恐怖で支配されていた。お母さんに会えた、その事実で、まさかここまで混乱するとは思ってもいなかった。

 

「都合がつかなかったのよ。べつに誕生日じゃなくてもいいでしょう?」

 

 お母さんは淡々と言った。その声音は、有無を言わせない。

 

「ほら、これ。今月分の生活費。無駄遣いはしないように」

 

 アタシは無意識に受け取ってしまう。

 

「部屋の中を見せてくれるかしら?」

 

 どうしようか。部屋の掃除はいつものようにしてある。だけど、石上くんに料理を届けなきゃいけない。

 

「なんなの。早くしなさいよ」

「あぁうん……! はい。どうぞ」

「お邪魔するわね。……あれ、どうしたのこのオムライス」

「あぁそれ……」

 

 アタシは背筋にぞっと寒気が走るのを感じた。どう説明したらいいだろう?

 この料理は、お隣さんにあげるものだ。

 なんて言ったら、彼女はどんな顔をするんだろうか。

 べつにお隣さんに料理を振る舞うくらい、世間ではどうってことないことなのかも知れない。

 けど、このお母さんに、その言葉が通用するかどうか。

 玄関脇に置いたお盆。そしてその上に乗っかっている、チキンのオムライス。

 

「ふ~ん、あなた、料理は上達したんじゃない。中身の方は知らないけど、見た目の方はきれいね」

「あ、ありがと……」

 

 これは、褒められたうちに入るんだろうか。

 けど、見た目は褒められた。嬉しかった。

 

「で、どうしてこんなところに置いてあるのかしら?」

「そ、それは……お隣さんに渡そうと思って。お隣さんと仲いいんだ」

「お隣さん? 男性? 女性?」

「だ、男性………………」

 

 怒られるかと思った。きっと、厳しいお母さんなら、アタシが男性とかかわりを持っていることに対して激怒すると思った。

 だから、その言葉は予想外だったんだ。

 

「そう。まぁ、あなたの好きにすればいいわ」

「い、いいの?」

「いいの? って。だってあなたがそうしたいと思ったのでしょう? ならそうすればいいわ」

 

 アタシはぱぁっと、顔を輝かせた。な、なんだ……。お母さん、話せば分かってくれるじゃん!

 あたしは思わず笑みを浮かべた。だけど次のお母さんの一言で、アタシは完全に凍り付いてしまった。

 


「――あなたが悪い男に騙されようが、アタシの知ったことじゃないもの」

 


「………………ぇ」

 

 アタシには言いたいことがたくさんあった。お隣さんは悪い人じゃない。そんな……女の子を遊び道具としか思ってないような男じゃない。

 け、けど……っ!

 言葉が喉に引っかかって出てこない。まさかお母さんから、そんな言葉が出てくるなんて思ってもなかったから。

 

「おっけーよ。粗方部屋はきれいに片付いているわ。大麻とかやられていたら、さすがに注意するけど、そんな形式もなし」

 

 なにを……言ってるんだろうこの人は。

 アタシは体の芯が冷え切っていくのを感じた。まるでアタシという存在の拠り所が、この世からなくなってしまったような感覚だった。

 

「卒業したら、この家の解約はあなたがやりなさい。必要な書類があれば、アタシもはんこを押すけど」

「……………………ちょ、ちょっと待って」

「なに?」

「あ、いえ、なんでも……ない……」

「そ。帰るわね。忙しい中来てあげた親に対して、なにか言うことはないの?」

 

 アタシは両手を合わせて、半歩だけ下がった。怖い。この人に逆らったらなにを言われるのか、わかったもんじゃないから。

 

「ありがとう」

「そうね。じゃあね」

 

 お母さんが靴を履いて、玄関の扉を押し開けようとした。

 アタシはバッ! と、お母さんの腕に抱きついた。

 

「ま、待ってッ! まだ帰らないでッ!」

「なにか用なの?」お母さんの氷のような声。それに怯まず、アタシは言った。

「せ、せめて……その、食べてって」

「はぁ? なにを言ってるの? 私は忙しいと言っているの。まさかあなたの作ったオムライスを食べろって言うんじゃないでしょうね。そんな余裕ないわよ」

「ひ、一口でいいからッ!」

 

 アタシは自分でなにを言っているんだろうと思った。多分、焦りと不安から、こんなことを口走っているのだとは思う。

 頭は混乱の極致だった。せめて、この人に認められるものが欲しい。その一心で、オムライスの載ったお盆を彼女に差し出した。スプーンもついてる。

 

「た、食べてみてよ……」

 

 石上くんに渡す予定だった料理だけど、そんなことを考えている余裕なんてなかった。

 お母さんは眉をひそめた。イライラしたようにカツカツと靴で床をならしていく。

 その瞬間だった。

 

 ぴんこん。というチャイムが鳴った。

 家のチャイムじゃなくて、エレベーターがこの階に到着した音だ。

 誰かが降りてくる。黒スーツで、髪をガチガチにセットした、いかにも仕事できそうな男の人。

 彼は腕時計を指し示し、カチカチと指で軽く風防ガラスを叩いた。急いでいる、というのはアタシでもわかった。

 

「あなたのくだらないままごとに付き合ってるヒマはないの。……はぁ、なんであなたなんて生まれてきちゃったのかしら」

「うま……っ」

 

 アタシは完全に意識を手放しそうになった。オムライスは? ねぇオムライスはどうなったの!? アタシは子どもみたいに泣き叫びたかった。けどできない。そんなことをしてしまったら、きっと彼女はさらに幻滅する。あなたはもう子どもじゃないんだから、といってアタシをさらに突き放すだろう。

 ねぇッ! 待って! 待って待って待ってッッッ!

 行かないでよッ! 

 あたしは叫び出したかった。

 

 彼女の背中がマンションの廊下を遠ざかっていく。やがてエレベーターの箱に載って、一階のボタンを押した。その間彼女はアタシと一回も目を合わすことがなかった。

 ねぇ……ッ!

 アタシが腕を伸ばした先で、エレベーターの扉が閉まっていく。ボタンの点滅する階が変わっていき、あたしの声はもう彼女には届かないんじゃないか、そうとすら思ってしまった。

 待って!


 待ってよ。せめて、食べて欲しかった。アタシが作った料理を。べつにマズいって言われてもいいから、おいしくないって言われてもよかったから……ッ!

 なのに彼女は、食べずに行ってしまった。次の仕事があるからと。

 

「……………………うあッ………………………………!」

 

 ヤバい。ヤバいヤバいヤバい――ッ!

 これは今までで、一番心に来たかも知れない。もう明日から、学校に行けないかも知れない。それくらいのダメージだ。

 どうして彼女は、アタシのことを平気で傷つけるんだろう。

 あぁそっか。

 アタシは、彼女にとっての罪の象徴だからだ。

 過ちの象徴だからだ。

 

 だからアタシが生きていることを許容できない。許せない。

 もしかしたら、あんたなんか死んで欲しいと思ってるのかも知れない。

 アタシの頭の中を、なんどもリフレインする言葉があった。

 ……はぁ、なんであなたなんて生まれてきちゃったのかしら

 思い出して、思い出して思い出して、さらに辛くなった。

 忘れろ……ッ! 忘れろ忘れろ忘れろ……ッッ!! 

 頭の中で総司令を送るのに、その言葉は何度も何度もあたしを執拗に追いかける。

 

「………………ぁっ……………………ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 涙があふれ出た。ぼろぼろと、アタシの体から流れ落ちていく。こんなに親から拒絶されたのは初めてだ。電話でひどいことを言われて、公園で自傷行為に走ったあの日よりも。

 きっと、あたしが一人暮らしを始めたからかも知れない。アタシという存在が家にいなくなって、彼女はますますアタシのことをどうでもいい存在と見なすようになった。

 

 ――せ、せめて……その、食べてって

 バカみたい。

 バカじゃんアタシ。

 なにが食べてだ。

 なにが食べてだよッ! 

 

 自分の中でなにかがキレたような気がした。皿をひっくり返す。割れる音が響く。壁中に、卵の塊がへばりつく。ケチャップがアタシに降り掛かる。

 お盆を蹴り飛ばす。宙に舞ったそれは、壁材を破壊した。もう壊れてしまえ。いっそのこと全部壊れちゃえよ――――――――ッッッ!!

 

「なんで……………………なんでなんでなんでッッ!」

 

 心が壊れていく音がした。もう耐えきれそうになかった。

 死ね。しねしねしね! アタシなんか死んでしまえ。

 洗面所に行ってカミソリを掴み取った。アタシは震える手首を見て、あぁ、今日なら大丈夫、と思った。アタシは一気にその腕を振り下ろして、

 ――ばっ、と、手首を掴まれた。震えるカミソリとあたしの腕が、洗面所の鏡に映り込んでいる。

 

「なによ」

 

 そいつはなにも言わない。ただ鏡の中にいるアタシをじっと見つめている。

 

「笑いに来たの?」

 

 その男は無言で、じっとあたしの目を見つめている。


「ふざけんなっ! アタシが………………アタシがなにをしたッ! なんで! あんたは……あんたに止められる筋合いはないのに…………ッ」

 

 言いたい放題言って、アタシは崩れ落ちた。カミソリがカツンと、洗面台の上に零れ落ちる。

 

「アタシ、恥ずかしい……」

 

 言葉が、こぼれていた。同じように涙もこぼれ落ちていく。ぼたぼたと、止めどなく流れてくる。

 それを掌で押し上げるように、なんども、なんどもぬぐっていく。

 なにしてんだ、アタシ。

 

 バカじゃん。本当に……。なんなんだ、もう……。

 

「あれは俺のオムライスだったのか?」

 

 その男は言った。アタシはゆっくりと、彼の顔を見上げた。

 彼は真顔だった。いつもみたいに、世の中なんてつまらない、そんな顔をしている。

 だけど、今のアタシには、その表情が何よりも嬉しかった。温かかった。

 いつもの、石上くんだ……。そう思うと、なんでか知らないけどまた涙が溢れてきて。

 

「お前の分もあるのか?」

 

 アタシは一瞬、なにを言われているのか分からなかった。

 けど、彼は言葉を止めることはなかった。いつもみたいな顔で、いつもみたいな態度で、軽く言ってのけた。

 

「――とりあえず、食わせてくれないか? お前のオムライス、食ってみたい」

 

 あなたにはなにもわからない。

 そうヒステリックに叫んだったよかった場面だ。

 ケドその言葉の代わりに、涙がまた出てきた。どんどんどんどんと出てくる。

 自暴自棄になった。散々モノを壊した。

 けど、壊れなかったものもたしかにあった。自分で築き上げて、壊れなかったものがたしかにそこにあったのだ。

 なら、それを大切にしたい。

 

「立てるか?」

 

 彼は腕を伸ばしてきた。アタシはその手を取った。

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