一章 2
マンションのおれの部屋の前に荻原がいた。
片手には、昨日俺が貸した傘が握られている。
黒い傘。男物だ。ざっと三百円くらいの奴。
俺より先に帰ってきていることに驚いた。
「お前、ずいぶんと早く帰ってきたんだな」
「お。来た来た。あんたが遅いだけでしょうが。なに、もしかして夕飯の買い出しでもしてた?」
「してないな。お前が早いだけだろう。俺はべつに回り道なんざしてないぞ」
「あっそ。んじゃああたしの足が速かったのかもね。――はいこれ」
俺は荻原から傘を受け取った。
「おう、ありがとさん。んじゃあな」
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよっ! もうちょっとなんかないわけ?」
「ないな。だいたいなぜお前に傘を貸しただけで、お前になにかしてやらないといけないんだ? 効率が悪くないか?」
「あんたって本当に面倒くさい。なに? そんな生き方いつもしてるわけ?」
「……」
言い返せないというか、言い返してもいいのだろうか。
荻原は、昨日の雨に打たれている荻原とは全くの別人になっていた。
いつもの荻原だ。
学校での荻原だ。
そんな彼女に、生き方を諭されてもなぁ……という感じである。
まぁ彼女なりに俺のことを気遣ってくれているのはわかる。
「逆に、お前はなにかしたいのか?」
「べ、べつにしたいわけじゃないけど、な、なんか申し訳ないって言うか。……昨日のことは、アタシもすっげぇ反省してる。ありがとね。傘貸してくれて」
「……まぁ」
「まぁって」
「いやそれ以外に感想がないからな。特に見返りとか求めてるわけじゃない」
「……そ。まぁあんたがそう言うのなら、わかった。あんたが貸しだと思わないのなら、アタシも借りだと思わない」
「あぁ。その方が楽だな」
正直隣人にかかわられても困るからな。
べつに俺は荻原のことが嫌いなわけじゃない。
だがどうしても隣人づきあいって言うのは、トラブルの元って言うイメージがある。
それがたとえ同じ学校の生徒だとしてもだ。
俺は鍵を取り出して、自分の家の扉を開けた。
「――ううわっ」
荻原の声が耳に入ってきた。
そんな反応をされるなんてな。
たしかにおれの部屋は汚い。だが女子から言われると、けっこう来るものがある。
溜まったゴミ袋、廊下には小説やら雑誌やらが無造作に積まれ、その他にも衣服とかその辺にほうっぽってある。
「あんた、掃除してんの?」
「……定期的にはな」
俺は引き攣ったような声で言うと、荻原がため息をついた。
「アタシ、あんたのこと勘違いしてたかもしんない」
「勘違い?」
「あんたけっこうクールで、何でもできる男子かと思ってたけど、なにこの部屋?」
「……返す言葉もないな」
「隣人がこんな汚い部屋に住んでるとか、考えただけでもぞっとするんですけど?」
「いやだがな。考えても見ろ。たしかに汚いといえば汚いかも知れないが、ここはおれの部屋だ。それに雑誌があちらこちらに散らばっているおかげで、意外と手が届く範囲に欲しい物があったりするんだぞ」
「言い訳はいいから。嫌なにその言い訳? 言い訳にもなってないんですけど」
俺は、きゅう、と口を閉じた。
彼女の言葉は正論で、俺にはなにも言い返すことができないからな。
「そんな熱弁されても、って感じ。うーん、あんたふだんなに食べてんの?」
荻原が顔をしかめて言う。
もしかしたら部屋の中から、生ゴミの臭いがしたとかか?
だとしたら、うんマズいな。
たしかにこの部屋は、人を呼べるだけの部屋ではないかも知れない。
今、初めて実感した。
「カップラーメンとかだな……」
「他は?」
「………………………………ブロックタイプのカロリーメイト」
はぁあああ、と荻原は深いため息をついた。
俺はうなだれることはしなかったが、顔をしかめた。
「あんたって、ほんとは痛い奴?」
「い、痛くはないぞ。たしかに部屋は汚いし、栄養は偏ってるかもしれんが、学校生活はちゃんとやっている」
「……はぁ。学校生活じゃなくて、私生活も充実させなさいよね。きったない。なにこの部屋。反吐が出る」
言い方……。
俺はけっこう今の発言には傷ついた。
まさか隣人の女子高生からこんなことを言われるなんてな。
「わかったわ。ちょっと待ってなさい。今ゴミ袋大量に用意してくるから。勝手に部屋にこもらないでよ、いい? わかった?」
「……………………わかりました……」
俺はついにうなだれてしまった。
数分経ってから、荻原が扉の前に戻ってきた。手にはゴミ袋が大量に収まっている。
って言うかマスクまでしてくるとは……。
俺の家はゴミ屋敷かなにかか?
と思ったが、俺はふと部屋を見渡して思う。
たしかにゴミ屋敷っぽさはあるな。
自分がふだん生活していると気がつかないこともあるもんだ。
ふむふむ。
「ちょっと、なに一人でうなずいてんの? キモいんですけど」
「キモい……。俺はお前の口からそんな言葉が出てくるなんて思ってもみなかった」
「……んー、まー学校ではけっこう演じてる部分があるからねー。女王様、なんて呼ばれてるけど、実際はアタシのキャラクターっていうか。建前で友達作るための手段? みたいな」
「……なるほどな」
俺は納得した振りをした。
正直気がついている。
こいつのキャラクターが演技なんてことは、あの雨の日の件を見れば明白だ。
「あんな姿見られちゃったし、演技しててもしょうがないかなって。
あとお願いだから、あの日のアタシのこと、絶対誰にも言わないでね?」
「わかってる。言わない。だいたい言ったところで誰も信じない」
「あっそ。ならよかった。
あんたの口のカタさのお礼として、この部屋掃除させてもらうから」
「……そうか、悪いな。助かる。……正直な話、俺掃除苦手なんだよ」
「んなんこの部屋見りゃ誰だってわかるっつうの。ほらやるよ。あたし一人じゃなくて、あんたも手伝うんだからね!」
そういって荻原はずんずかずんずかと部屋の中に入っていってしまう。
なぜかその表情が明るかったことは、まぁ言わないでおこう。
俺は部屋の鍵を閉めた。
そういえば花の女子高生が、高校生男子の一人暮らし部屋に、そんなに無警戒で入って行ってしまっていいんだろうか。
「お前、警戒とかしないのか?」
「あん? ……あぁ、まぁしない。あんたなにもしないでしょ? なんだか性欲とかそういうのに無縁そう」
実際俺は無縁ではないのだが、まぁべつに荻原を襲いたいとかそういう欲求もないので、うなずいておくことにした。
「あんたエッチとか興味あんの?」
「……なかなかぶっ飛んだ質問だな。興味自体はあるが、べつに誰でもいいってわけじゃない。だがあいにくと、今は恋人を作ることに興味がないんでな」
「……ふーん、そ。まぁたしかに恋愛沙汰とかに興味なさそー」
「お前はあるのか?」
「うーんどうだろね。あたし自身にはないかな。告白は腐るほどされるし、ちょっとうんざりするけど。
でもそのうちの誰かと付き合いたいと思ったことはないかなぁ。ケド、他の女の子達の恋愛話とかは聞くよ。けっこうえげつない話とかもあったりで、正直食傷気味」
高校生の恋愛は、大人が想像するよりもどろどろしていることが多いと聞く。
特に男同士の恋愛話は、必ずと言っていいほど肉体的な話題が出る。
たしかにうんざりするわな。
女子同士でも、けっこうそういう話題が出るのかも知れない。
「話を戻すか。おれの部屋の掃除だったな。どこからやるんだ?」
「んーそうね。んじゃあんたは、アタシの指示に従って動いてくれる?
そうねー、まずは雑誌類。どうせ読まないのなら、まとめて紐で縛る。それをまず部屋の隅に置いて頂戴。雑誌ゴミを出す曜日で出せるように。
それと、読まなくなった本は読みたい奴と読まない奴で分ける。いらない奴はブックオフに出しましょう。あそこは買い取りだけじゃなくて、処分も行ってくれるから。
あと衣類。汚い。ちゃんと着る物くらいハンガーにまとめなさいよね。
着れなさそうな奴はゴミ袋にぶっ込む。んでちゃんと衣類を出す曜日に捨てる。
片付けの基本って言うのはね。まとめることから始めるのよ?」
荻原先生の説教は、俺の耳に痛く響く。
たしかに、片付けって根本部分は簡単なのだ。日ごろ意識していれば、部屋の足場のふみどころがなくなるようなことにはならない。
だが意識を手放した途端に、ものが散乱する。
ちょっとくらいいいか、が火種となって、気づいたらあら不思議、ゴミ屋敷が誕生するのだ。
まったく、俺の自活能力の低さが嘆かわしい。
やれやれだ。
「あんたさ、部屋が汚いって、女の子に嫌われるよ?」
「? 意味がわからん。なんで俺の部屋が汚いと女の子に嫌われるんだ?」
「あんたはド天然か……。女の子連れ込むときに、こんな汚い部屋だったらドン引きもいいところ」
「……なんだそんなことか。べつに呼ぶ女友達なんぞいないからな」
「あっそうですか。あんた本当に恋愛とか興味ないんだね。まぁいいわ。さっさと始めちゃいましょう!」
こうして部屋の掃除が始まった。
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