一章 1
「おっはよーさん。鍵、どしたー、なんか元気なさそーじゃん?」
「うるさいぞ。俺はいつだって元気だ」
「嘘をおっしゃい。何か今日顔が暗いぞー。なんかあったのか?」
俺が下駄箱から上履きを取っていると、一人の男子高校生に声を掛けられた。
名前は相沢たつき。高校一年生にして、彼女持ちだ。
彼女持ちだからこそ、彼は俺に対してのろけ話を披露する。
正直胸焼けするというか何というか、聞いていて生々しいのでできれば聞きたくない話題ばかりだ。
俺はほう、とうんざり気味に吐息をつく。
こいつと会話するのはもう慣れてはいるが、それでも朝っぱらからこいつに会うとどうにもため息しか出てこないな。
べつにたつきのことが嫌いってわけじゃない。むしろ好きな部類には入るだろう。
友達としては、だ。
だがのろけ話を聞かされるときは、俺も正直できれば耳をふさいで眠っていたいと思う。
「昨日雨すごかったよね」
「そうだな」
「めっちゃ濡れたし。もうたいへんだったよ」
俺は適当に返していく。
雨……か。
そういえば昨日、荻原は無事に家に帰れたのだろうか。
若干の不安がある。
あのあと帰れたとしても、塞ぎ込んでまた自傷行為に走らないなんて保証はできない。
むしろ精神状態が悪化した、なんて言うことも考えられる。
いや、考えすぎか。
いくらなんでも昨日の今日で隣人が自殺したなんてことはないだろう。
楽観的かも知れないが、人はそうそう死なない。
だが万が一……ということもあり得る。
そう考えると俺の肌が、ぷつ、ぷつと粟立った。
心配になってきた。
どうして昨日ちゃんと家まで送り届けてやらなかったんだと。
――だがその心配は杞憂に終わった。
おれの目の前で、友達と楽しそうに会話する荻原の姿があったからだ。
手にはもしかしたら包帯が巻かれているのかも知れない。
今は十月の半ば。
なので彼女はブレザーを着用していた。
袖の部分まで隠れるから、多分傷跡は友達からも見えないと思う。
案の定、荻原の隣を歩いている友達が聞いた。
「ねぇ美琴ちゃん、その包帯どうしたの?」
「あぁこれ? いやー、マンションの階段走って降りてたら、すっころんじゃって。べつに大したケガじゃないんだけど、捻挫って感じ」
「へーいたそー。大丈夫?」
「へーきへーきこんくらい。骨折はしてなかったみたいだしねー」
荻原は嘘がうまかった。
だからこそ、俺は少しばかり心配になる。
いや、俺が心配する義理なんてこれっぽっちもないのだが、どうしても心に引っかかるものはある。
そうやって嘘ばかりで塗り固めてしまっていいのかと。
まぁそれが彼女なりの生き方というのなら、とがめはしないけどな。
「いいよなー女王陛下。何かやっぱ近付きがたいオーラがムンムンに溢れてるよな」
「そうか?」
俺は首を傾げた。
なんせ彼女のあんな姿を見てしまった直後だからかも知れない。
とうてい俺にはそうは思えなかった。
だがたつきの意見は、この学校中の男子の総意に近いのだろう。
ふつうの男子ならば、彼女に近付きがたいと思う。
なんせあれだけオーラを放って、校内を歩いているのだ。
容姿だけではなく、成績もいい。常に彼女は学年一位だ。
そして運動神経も抜群。
もうこれ以上言うことがないと言うくらい、完璧美人。
たしかに近付きがたいと思うのもむりはないかも知れない。
「お前彼女持ちだろ? いいのか女王陛下にうつつを抜かしてて」
「いいのいいの。『推し』と『恋人』はまったく違うものだからね。逆に『推し』と付き合うと、案外うまくいかなかったりするモンさ」
まぁ、な。
言いたいことは分かる気がする。
近年の若者の間では、『カエル化現象』なる概念が流行ってるらしい。
好きな人に好きになってもらった瞬間、その人のことを気持ち悪く感じてしまう現象らしい。
転じて、好きな人の見たくない瞬間を見てしまうと、ドン引きする……という意味にも使われる。
まったく、不自由な世の中になったものだなとおれは思う。
恋愛なのだから、多少はその人の悪い部分が見えてくるのは当たり前だというのに。
俺から見ると、たつきは恋人のいい部分も悪い部分も知っているのだと思う。
たつきの恋人は、黒川ちかげという名前だ。彼女はいわゆる陽キャグループのトップに近い位置にいて、それこそ荻原のように敬われることが多い。
閑話休題。話が逸れたな。
えっと、一体なんの話をしていたんだか。
あぁそうか。『推し』と『恋人』の話か。
たしかに『推し』と付き合うことは、意外と難しいかも知れない。
荻原は一見完璧に見えるが――彼女は裏に闇を抱えている。
それは昨日の件でよくわかった。
まぁその闇がなんなのかは、おれもよくわからんが。
教室に入り、鞄を置いた。俺は前の席に座るたつきとしばらく会話して、ホームルーム前の時間を潰した。
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