隣に住む学園の女王様と呼ばれるギャルが、料理上手だった件
相沢 たける
プロローグ 雨の日
俺はマンションの窓から、とんでもないものを見てしまった。
外は大雨だった。どこかで雷の音が響き渡っている。
公園のベンチに一人の女子高生が座って、泣いていた。
覚えがある。っていうか、彼女のことなら学校の誰でもが知っている。
――荻原美琴。
一言で言うのならギャルである。学校中の誰彼にも明るく話しかけ、まるで太陽のような存在だ。
俺はべつのクラスだが、彼女の存在くらいは知っている。
太陽的存在。アイドル的存在。
いつからか彼女のついたあだ名は『女王様』あるいは『女王陛下』だった。
髪の毛はまっ金金に染められており、今は雨に打たれてそのきれいな髪の毛が茶色く変色していた。
藍色のブレザーが紺色に塗れている。
俺はマンションから、彼女の様子を眺めていた。
すると突然、しゃくり上げるように泣き始めた。
……泣いている、のだと思う。声はまでは聞こえない。
だが時々肩が上下に揺れている。
――明らかにふつうの精神状態じゃない。
すると彼女は、鞄の中からペンケースを取りだした。
おい、おいおい。ちょっと待て。
俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
ペンケースから彼女は、ハサミを取り出したのだ。
ちょっと待て!
いったいなにを考えてやがる!
俺は彼女の名前をベランダから叫ぼうかどうか迷った。
だが、外では大粒の雨が降っている。
それに雷の音もすごい。
この距離から、俺の声を届かせる自信なんてなかった。
どうしよう、
俺が戸惑っているうちに、
「あああああああああああああああああああああああ――ッ!!」
という叫び声が聞こえた。
俺は振り返る。
すると彼女は、ハサミで自分の手首を切り始めた。血が、真っ赤な血が、雨に打たれる度に流されていく。
自傷行為。
俺はその現場を初めて見た。
彼女に何があったのかは知らない。もしかしたら彼氏にでもフラれたのかも知れない。それとも、彼氏と思っていた男にやり捨てられたとか。
色々理由は考えられた。親に不幸があったとかも考えられる。
だが――俺は使命感に駆られて、マンションの扉を開け放った。
二本の傘を持って、マンションの廊下を走る。
俺と彼女は、隣人同士だ。マンションの俺の隣の部屋に住んでいるのが彼女、荻原美琴である。
時々顔を合わせることはあった。同じ学校の制服を着ていれば、それなりの親近感が湧くことはあるだろう。
だが、所詮は他人同士。
べつに俺は、彼女の友達でもなければ、恋人でもない。家族でもない。
ならかかわる義理なんて、ない。ないはずだ。
だけど、放っておけなかった。
自分が見ている目の前で自傷行為に走る一人の女子を、放っておけなかったのだ。
はっきり言う、それは優しさとか、生ぬるいものじゃない。
ただの使命感だ。見捨てた、なんて道を選ばないために、助ける。
それだけのことだ。
極力、俺は他人になんざかかわりたくはない。
急に叫びだして手首切り始める女子高生になんざ、はっきり言って常識的にかかわりたくないのがふつうだ。
だが俺は走った。
なんでだろうな。
手の中には二つの傘があった。
荻原美琴は肩を揺らして、息をしていた。
まるで垂れた稲穂のように、うなだれている。
手首どころか、腕の全面までもが血だらけだった。
傷跡が無数に走っている。
見る人が見れば、嫌悪感を抱くものだろう。
彼女はうつむいていた。
「風邪引くぞ」
俺はそっと傘を差しだした。彼女が雨に濡れないように、そっと。
彼女はばっと顔を上げた。
まるで自分がしてしまったことを隠すかのように、腕を手で押さえた。
だが俺にはバッチリ傷跡が見えてしまっていた。
――ちくり、俺の胸が痛んだ。
彼女は、一瞬だけ悲愴な顔を見せたあと、すぐに笑顔へと変わったのだ。
まるで中国の仮面芸術を見ているかのようだった。
貼り付けたキャラクターにうまく切り替えることができる者特有の笑みだった。
「……あはは、うんありがとね。石上くん」
彼女はその笑みを作って、俺に言ってきた。
何度も言うが、俺と彼女は他人だ。友達でもなければ、恋人同士なんかでもない。
ただの隣人同士。
彼女は作り上げたキャラクターを演じているんだろう。それくらい俺だって気がつく。
気がついてなお、俺はそれを指摘することはしない。
なぜなら俺も、作り上げたキャラクターを演じているからだ。
「なにがあったんだ?」
「……ううん、なにも。なにも……なかったよ……」
その尻すぼみになっていく言葉は、裏を返せば何かあったことを示していた。
「うそつくなよ。泣いてただろ」
「な、泣いてなんかないし! はは。泣いてたように見えたんなら、多分それは雨のせいだと思う」
「……」
俺にはなにも言うことができなかった。
なぜなら彼女が強がっているからだ。
彼女が強がっているところを見せてくると言うことは、すなわち俺は彼女から見て他人だと言うことを示している。
なら、できることは、ただ隣人として、あくまで常識的な範囲で接してやることだ。
「もう一度言うぞ。風邪引く。さすがに雨の中一人でいる女子高生を放っておくわけにはいかない」
「……なんか石上くんって、大人っぽいよね。クールって言うか、素っ気ないって言うか」
「そうか? 俺はべつにそんなつもりはねーんだけどな」
「そうだよ。石上くんが気づいてないだけかも知れないけど、石上くんは自分が思っている以上に大人っぽい」
俺の話題をすることで、彼女が自分のことを語らないようにしているのは明白だった。
俺は傘を彼女に押しつけるようにして、渡した。
彼女はそれを受け取る。
学園の女王様。女王陛下。
そんな彼女が、人知れずこんなところで泣いていたなんて、おそらく学校の誰もが知らないことだろう。
だけど俺はべつにそこに対して優越感を覚えたりとかはなかった。
優越感。抱くだけむだな感情だと思う。
「見てたぞ。お前が手首切るところ」
俺は言った。見ていたことを隠すだけむだだと思ったからだ。
「……そ、なんだ。……………………いわないで」
俺に対して、美琴が初めて焦りを見せた瞬間だった。
「やめとけ。傷が残る」
「…………………………うん」
たかが他人が、言っていいことではないのかも知れない。
彼女には彼女なりのエピソードがあって、ここまで追い詰められてしまったのかも知れない。
だが俺は彼女の悩みを解決してやることはできない。
俺は俺、荻原は荻原だからだ。
「傘はいずれ返してくれればいい。となり同士なんだから、いつでも会えるだろ」
俺はそれだけ言い残して、その場から立ち去った。
何の未練もない。
俺と彼女は他人同士だ。
運命って奴の存在を、俺は信じない。
ただそれだけのことだ。
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