ちなつさんの腕はきれい

ハープ

ちなつさんの腕はきれい


「ねえねえ、聞いてよ! うちのクラスのちなつさんって腕にリスカの痕があるんだって!」


 ある日、友人のサチが私にそう言ってきた。サチはクラスメイトの色々な噂をよく私に教えてくる。そういう噂話が好きなのだ。彼女は悪い子ではないのかもしれないが、私は彼女のそういうところが少し苦手だった。

「……そうなんだ」

「あれ、驚かないんだね。もしかしてリスカの意味知らない? リストカットのことなんだけど」

  それは勿論知っている。私が驚かなかった理由は別にあった。


 私は、ちなつさんの腕に傷痕があることを既に知っていたからだ。


 ちなつさんはクラスメイトだけど、あまり話したことがない。それは私だけではなく、クラスの大半の人がそうだろう。私もサチ以外に友人が多いわけではないが、ちなつさんは少なくともクラスには友人がいないのではないかと思う。それくらい休み時間や放課後に誰かといるところを見かけない。長い黒髪に眼鏡をかけていて、顔はサチ曰く「まあ平均よりは上なんじゃない?」だそうだが、「でも髪はボサボサしてて、ちゃんとケアしてなさそう」と言われている。私はお洒落をすることに詳しくないのでよく分からない。


 ではなぜ私がちなつさんの傷痕のことを知っているのかというと、それは偶然だった。


 私たちがこの高校に入学したばかりの頃、私は用事があって図書室に行った。そこでたまたまちなつさんが本を選んでいるところに遭遇したのだ。


 その時はまだ制服が冬服の時期だったので、長袖だった。でも本を手に取るために伸ばした腕から覗く傷痕は、ちらりと見ただけでも衝撃的で、私は驚いてそっとその場を離れた後にどきどきしている自分の胸を抑えた。


 私は、ちなつさんの傷だらけの腕がとても綺麗だと思ったのだ。


 こんな気持ち、本人はおろか他の人には言えない。悪趣味だし、不謹慎だし、初めて他の人のリストカットの痕を見て吊り橋効果のようになっているのかもしれない。でも私はそれからちなつさんのことが気になるようになっていた。


 クラスメイトとはいえ、私はちなつさんと接点がない。だから一方的に想像してどきどきしていた。なぜちなつさんがリストカットをしていた、あるいはしているのかは私には分からなかった。もしかしたらいじめられていたり、家庭に事情があるのかもしれないけれど、正直いってあまり理由を知りたいとは私は思わなかった。リストカットを今もしているとしたら止めたいという気持ちもなかったし、逆にちなつさんに不幸であってほしいと思っているわけでもなかった。ただ、ちなつさんの腕は綺麗だなあと考えていた。


 多分これは、例えばサチが「〇〇君がイケメンだよね〜」などというのと似ている感覚なのだろうと思う。最近は他の人の容姿に言及するのはハラスメントになるといわれているけれど、そうでなかっとしても「ちなつさんのリストカットの痕がきれいなんだよね〜」と言わないだけの常識は流石に私にもあって、だからこそ自分の気持ちに戸惑っていた。


 サチはその後もしばらくちなつさんのリストカットの痕について話していたが、彼女はちなつさんのことを口では心配しながらも面白がっているようだった。おそらくこの話は近いうちにクラスに広まるだろうけれど、他のクラスメイトたちも概ね似たような反応をするだろう。でも彼女ら以上に悪趣味で不謹慎な考えを持っているのは私なので、何も言い返せなかった。


 しばらくして、ある日ちなつさんは学校を休んだ。リストカットの話が広まったからなのかは分からなかった。先生がプリントやらなにやらをクラスの誰かにちなつさんの家まで届けてほしいとHRで話していて、私は少し迷ったけれど自分が行くことにした。もしもちなつさんが学校を休んだ原因がメンタル的なことで、このままちなつさんが学校に来なくなったらもう会えなくなってしまうかもしれないからという気持ちがあった。先生には親切心からだと思われたようで、褒められて複雑な気持ちになった。


 今まで私がちなつさんに自分から話しかけなかったのは、彼女が孤立していて話しかけづらかったのもあるけれど、私が彼女の腕を綺麗だと思っていることを本人にばれたくなかったからだ。それを知ったらちなつさんは私を軽蔑したり、気持ち悪いと思われることは十分想像できた。それは私にとってとても悲しい想像だった。


 ちなつさんの家に到着し、呼び鈴を押した。少し待つと本人がドアからでてきて、私が持ってきたプリントなどを受け取った。ちなつさんはぼそぼそと届けてくれてありがとうといった意味のことを言っていたが、私はろくに聞いていなかった。この距離で正面からちなつさんと話すのが初めてだったので、緊張していたのだ。それでつい、彼女の腕の傷痕があるあたりに目をやってしまった。そして、ちなつさんは私の視線に気づいた。


 ちなつさんが当然だがあからさまに嫌そうな顔をしたので、私は更に慌ててしまった。何かフォローしようと口を開きかけた時、先にちなつさんが言った。

「こういう傷があるから、私は可愛い服が似合わないんだよね」

 冗談を言う時のような口調だった。確かにちなつさんはその時、部屋にいたからだというのもあるだろうが地味な格好で、私はその時初めてちなつさんの私服を見たのだが、そういうことに気づくほどその時の私は気が回っていなかった。


 私がその時思っていたことは、そんなことはない、ということだった。だってこんなにちなつさんの腕は綺麗なのに。


「そんなことないよ!」と私は言ってしまった。それはお世辞でも慰めでもなんでもなかったのだけれど、当然ちなつさんには伝わらず、彼女はお説教をされた子どものような表情になり、無言でドアを閉めた。


 ちなつさんの家からの帰り道で、私は完全に失敗したと思った。きっと私のような人間がちなつさんに少しでも関わろうとしたのが間違いで、私は自分の恋心を自分の想像の中だけにずっと閉じこめておくべきだったのだろう。そもそも、傷痕を見てその人のことを好きになるなんておかしいのかもしれない。私の方がちなつさんよりもよっぽどメンタルに問題があるのかもしれない。


 だから、これから自分の家に帰って、自分の部屋のベッドの上で布団をかぶるまでは、泣くのは我慢しなければいけない。それも、声をあげて泣かないようにしないと。誰にも気づかれないように。


 私はそう自分に誓うのだった。

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