第2話

 私の耳に入り込んだ掠れ声。老人のようではあったが、その声は確かに目の前の彼からのものだった。

 驚きから、もう一度スプーンを取りこぼしそうになる私に、彼はもう一度小さく開いた口の隙間から乾いた声を絞り出した。


「ち……づる……もっと……」


 今まで動きのなかった彼。硝子ビードロのような透き通った瞳が、しっかりと私を見ていた。


「あ、えっと……」


 私は悩んだ。何せ、父との約束では匙一杯分。それを越えてしまった結果が今だ。これ以上与えて良いものか、だが腹を空かせている彼を前にして、駄目だとも言えない。


 悩んだ挙句、私は――再度注射器を手にしていた。ちょっと待っててね、そう告げて血を抜いて再び銀のスプーンを赤く染めていく。彼の口を開けて流し込めば、彼は舌で味わうように転がして嚥下した。大層満足したように、「はあ」と熱の籠った息も吐く。


「ちづる、ありがとう」


 丁寧な礼を告げた声は、もう枯れてなどいなかった。清々しい青年の声。西洋人形ビスクドールのようだと思っていた印象が消えて、ようやく彼がのだと実感した瞬間だった。


「ねえ、ちづる。姉さんもお腹が空いているはずなんだ。だから、」


 姉さんにも。そういった顔は強請るように私を見つめ続けた。言葉と目でしか、意思表示できないのもあるのだろう。姉さんと言葉で紡いでも、彼は一向に首を動かそうとはしなかった。

 私は、姉さんと呼ばれた隣の彼女へと目をやる。端正な顔のまま行儀良く座る彼女。

 私の手には、まだスプーンも注射器が握られたままだった。

 身体は、勝手に動いた。まだ何をするとも決めていないのに、ふらふらとした足取りで彼女の前に立つ。注射器の中には、二度目に採取した血液がまだ少しだけ残っている。

 注射器を眺めながら浮かぶ思考に、私はスプーンを握りしめた。


 ――彼女は、どんな声で話をするのだろうか


 そう考えると、わずかな迷いこそ残ったが、好奇心の方が優った。

 父との約束も忘れたわけではなかったが、目の前の彼と彼女に比べると小さなことだ。どうせ、父が気にしているのは私がきちんとお世話をしているかどうかだけで、私自身のことではない。

 私は彼女の口へと二度目のご飯を流し込んだ。

 反応は直ぐにあらわになる。瞼がぴくりと動いて、瞳孔が開いたり収縮したりを繰り返す。そして――


「……ちづる……ありがとう」


 表情こそ変わらなかったが、彼女の涼やかな声のお陰か、笑っているようにも見えた。




 それからというもの、与える血の量は次第に増えていった。

 いけないと感じつつも、二人の声音は家族の誰よりも優しくて、単純な私は簡単に絆された。


 ただ、日々楽しいもので今まで私が話しかけるだけだった二人は、しっかりとお喋りができる上に表情まで作るようになっていく。次第に指先が動くようになり、首が回るようになり、ついには……立ち上がるまでになっていた。

 

 そうしてまた、しばらく経った頃。私は再び殴られた状態で地下へと訪れた。

 覚束無い脚は、二人の目の前で倒れ込み、目眩で立ち上がることは困難になっていた。そんな私を前に、二人はそっと私の側に座り込んで青い瞳で覗き込む。 


「千鶴、誰にやられたの?」


 正直に言えば、喋る気力も尽きかけていたのだが、「三番目の兄さんよ」と答えると、彼が「仕返しはしないのか」と聞き返してきた。

 仕返しなど、私の頭にはなかったものだ。男相手……ましてや、兄は私よりも格が上の存在で逆らえば家で生きていけなくなってしまう。もしかしたら、お世話の仕事も取り上げられてしまうかもしれないのだ。


「逆らったら駄目なの」

「どうして?」

「私は役立たずだから、あなた達のお世話ができればそれで良いの」


 だから、少しだけ待っててね。そう言って、私は瞼を閉じた。





 目を覚ますと、角灯のあかりはまだ消えてはいなかった。と言うよりも、新しい蝋燭に取り替えられていたのだろう。橙色に照らされたままのそこで、私の頭は彼女の膝の上で身体には寒時のために用意していた毛布がかかっていた。


「……ありがとう……もう、起き上がれるよ」


 なんとか身体を起こせそうだ。腕に力を入れて上体を起こそうとするも、肩を抑えて制止され、私を覗き込んでいた四つの青い瞳がギラリと光った。


「ねえ、千鶴。もし、私達が自由になりたいと言ったら、あなたは協力してくれるかしら」


 彼女が、淡い笑みを浮かべて私に問いかける。

  

「自由? 地下から出たいの? だめよ、お父様に叱られるもの」

「叱られないさ。僕と姉さんとで、守ってあげる」


 そう言って、彼は私に向かって柔らかく笑いかける。

 二人の表情は、優しげでありながらもどこか冷たい。けれども、私には大丈夫、何も考えなくて良いと、いつもの声音で私を絆そうとする。


「もう兄さんが君を痛めつける事はなくなるよ。僕たちは、ずっと千鶴と一緒にいたいんだ」

「ああでも、最後にもう少しだけ血をもらわないといけないけれど……」


 どうする?

 二人に見下ろされ、私はぼんりとした頭のなかで、地下でない場所でも二人と楽しく過ごせたら良いな……そんな子供みたいなことを考えてしまった。

 父にも邪険にされず、兄にも疎まれず、私の居場所があって、二人の居場所があって。


 私は、つい。頷いてしまった。


「ご飯……どれだけいるの?」


 そう言うと、彼女は優しく笑う。


「そうね、しばらく千鶴が起き上がれないくらい必要かも……嫌?」


 私が大丈夫と答えると、彼は私の腕を引っ張り上体を起こした。背後では、彼女が私の身体倒れないように支えて、彼とは正面で向き合う形になる。正面で見る彼は、端正な顔を崩して申し訳なさそうに目を細めていた。


「痛いけど、ごめんね」


 そう言った彼は、私の右肩に触れる。そして――――勢いよく、首筋へと齧り付いた。何かが突き刺さる同時に、激しい痛みに襲われる。程なくして、背後からも熱い吐息が首へと当たる。

 彼女もまたもう一方の首筋へと齧り付いて、多重の痛みが私を襲った。

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