森羅万象
いつの間にか凍てついた瓦礫がほとんど解けていた。頬を撫でる秋の風も暖かく感じるほどになっている。
「今のは惜しかっタ」
「……そういうことか。『止水』、飛び道具とかは止められても人間そのものを止められるわけじゃないんだ」
近接戦闘を幾度か繰り返し、これまでの違和感が腑に落ちた。感情と構えや動きを加味し、宗徳はそう確信する。
もし止められるのなら。さっきの攻防で宗徳自身を止めて突きを繰り出したはず。
宗徳を仕留められる絶好の機会だったのに、力を隠してまでそれをしない道理がない。
「これだけの立ち合いでそこまで見抜くとは、さすがはミスタームネノリ」
オーノ牧師は不意に中段に構えていた妖刀村正をだらりと下げた。
「森羅」で読み取れる感情も穏やかなものとなる。
踏み込むか。いや、罠か。
オーノ牧師は空いた手を宗徳へ差しのべた。
「もう一度だけ、言いまス。『エデン』へ戻りなさイ。ワタシとともに、もう一度目指しましょウ。皆が平等に暮らせる社会ヲ。誰も不幸にならない世界を共に、築きましょウ」
「我々の活動に不満があるのなら、改めるところは改めまス。ワタシ自らエデンの代表、『総書記』に掛け合ってもいイ」
宗徳は「森羅」で感情を探るが、はったりや嘘の感じはない。
この状況で、本心から勧誘しようとしているのか。
「……何度も言わせるな。この世に理想郷なんて作れっこない」
「なぜ、そのような寂しい考えを口にするのでス」
「誰かが得すれば誰かが損する。利害が複雑に絡まってできてるのが社会だからだよ。誰かが試験に受かれば別の誰かが落ちる。試合に勝てば別のチームは負ける」
「ならば、そのようなものを一切なくしてしまえばイイ。競争も勝負もすべて廃止すル。そしてただ能力に応じて働き、必要に応じて受け取ル。それだけを、世界の人たちすべてが行えばいいのでス」
「そんなロボットみたいな生活、誰が受け入れるんだ」
感情に一瞬だけ揺らぎが生じ、すぐに消えた。まるで凪の海のごとく、一切の揺れが無くなる。
穏やかで、落ち着いて、そして狂っている。
「わかりましタ。悲しい結論ですガ」
オーノ牧師が初めて中段の構えでなく、上段の構えを取った。
「アナタを神のもとへ、送りまス」
オーノ牧師が上段に構えた妖刀村正を振り下ろした。
切っ先から白い世界が円を描いて広がり、瓦礫も、アスファルトも、瞬く間に白く凍てついた。氷の檻の中で「北の庄」により暖を取っていた柴田でさえ身を震わせている。
宗徳は反射的に距離を取ったおかげで、かろうじて凍り付くことから免れた。
「これをかわしますカ」
宗徳はわずかに凍り付いた指先を口に含んで温め、凍傷を免れた。
あれだけの大規模な攻撃を行った直後だというのに、オーノ牧師には息の乱れ一つない。
だが宗徳にとっては、それ以上の問題があった。かろうじて生き残っていた周囲の動植物がすべて死滅したので、「森羅」が効きづらくなっている。
感情がどこからも伝わってこない状況は、まるで人気のない山の中に一人取り残されたような気分だ。
唯一残っているのは、オーノ牧師の狂った心と柴田のガクブルの感情だけ。
難を逃れ空高く飛ぶカラスが、歓声を上げるようにガアガアと鳴いている。
「やはりアナタは、この刀で直接手にかける必要があるようですネ」
オーノ牧師は構えを中段に戻し、白く凍り付いた地面をすり足で移動してきた。
丸太のような腕に熊のような背丈。自分よりはるかに大きい相手が泰然と間合いを詰めてくるのは恐怖であり、宗徳ほどの使い手でもそれは例外ではない。
宗徳は凍てついた地面に、空を飛ぶカラスに目をやり。
この場にいない千佳とちづるに思いをはせた。
この仕事に就いたときから殉職は覚悟している。目の前で友達が殺された時も、普段は飄々としている八重樫が一人部屋で泣いているのを見た時も覚悟は揺らがなかった。
だが、自分が無事に帰らなければ二人は悲しむだろう。
特に、まだ事件のトラウマが生々しい少女はどうなるのだろう。
宗徳は黒塗りの鞘に刀を納める。
「諦めましたカ」
「そんなわけないこと、すぐにわかるだろ」
刀は鞘に納まったが、鯉口は切られ、右手は柄に添えられたままだ。
オーノ牧師の攻撃に備えて腰の位置、足の幅、切っ先のわずかな狂いも修正する。
ふたたび鈍色の刀身が鞘から現れた時、宗徳の奥の手が切られた。
「『森羅万象』」
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