この世に理想郷なんて、絶対に作れない
「牧師様。今の話は、本当ですか」
柴田の震えるような声に対し、オーノ牧師は穏やかな笑顔でうなずいた。
「わかりましたカ? ミスタームネノリはかつてお世話になった組織を抜けて、弾圧する組織の側についたのですヨ」
「ミスタームネノリ。今からでも遅くありませン。可夢偉使いとして、『エデン』に戻れば今までの件は不問としまス」
柴田に対しては無言の圧力をもって。千佳に対しては脅すように。宗徳に対しては慈悲深く告げた。
「それが、どうしたさあ」
だが千佳はオーノ牧師の言葉を鼻で笑った。
その表情にはいささかの動揺も、その声にははったりの色もない。
「そんなことは知ってるさあ。知って、私は宗徳とバディを組んでるさあ」
「過去にいろいろあっても、宗徳はすごいやつさあ。ちづるだって…… そんな宗徳だから頼りにしてるさあ」
千佳の表情に苦いものが混じり、凍った指を握りしめる代わりに唇を噛み締めた。
「宗徳にこれ以上ひどいことを言うんなら、容赦しないさあ」
だが一歩踏み出した宗徳が、千佳を止めた。
「ありがとう、千佳。でも引いて。後は僕がやる」
「これくらい、どうってことないさあ。刀も握れるさあ」
「下がって。指が腐り落ちて、切断する羽目になる」
「そういうことでス」
オーノ牧師が慈悲深い笑みを浮かべ、目を細めた。
「医学でいう三度の凍傷は壊死を引き起こス。指が無くなれば、もう刀を振るうことはできず、可夢偉使いとしては致命傷。上級国民のイヌにとってふさわしい末路でス」
その言葉に千佳は凍った指を再び地面にたたきつけるが、ヒビすら入らなかった。
自身の指の感覚がなくなっていくとともに表情は絶望にいろどられ、切れ長の瞳から涙があふれる。
「下がって治療してもらえ!今ならまだ間に合う!」
「でも、宗徳一人で…… こいつ強いさあ」
「僕の可夢偉で時間を稼ぐ!これは命令だ!」
千佳を心配するあまり、オーノ牧師への怒りのあまり、宗徳は声を荒げる。
バディを組んでから今まで宗徳は後輩の千佳に対し一度も命令したことがないし、強い口調で遮ったこともない。
どこか達観しているような視線で常に冷静に状況判断を行う、そんな宗徳はどこにもいなかった。
「おお、忘れていましタ」
オーノ牧師が再び中段に構えた妖刀村正を振り下ろす。
宗徳と千佳はとっさに身構えるが、彼らには何も起こらなかった。
代わりに、牧師に背を向けてじりじりと下がっていた柴田の周囲の地面が凍り付く。
氷から立ち昇る真っ白な煙は瞬く間に白い氷と化し、柴田を閉じ込める檻となった。
「巻き込まれないよう、そこで見ていなさイ、アナタなら『北ノ庄』で暖を取れるでしょウ」
「千佳を追わないの?」
柴田を閉じ込めていた間に凍り付いた指で刀を握ったまま逃げていく千佳を、オーノ牧師は一瞥もしなかった。
「あのような者、どうでもいいのでス。それよりもミスタームネノリ。あなたの可夢偉は特別ダ」
「『エデン」に戻れって言うなら、お断りだよ」
「なゼ…… 我々の理想が、理解できないあなたではないはずダ。理想には犠牲が必要ということモ」
「犠牲を払って作った理想でも、必ずほころびは生じる。エデンを抜けてわかったんだ」
エデンに入る前も、抜けた後も宗徳はいろいろな世界を見てきた。今日食べるものもない貧乏人も、衣食住すべてに不自由のない金持ちも。
金持ちの裏側も。普通に生きてきたのでは学べないことも、公安五課の下で多く学んだ。
そして、一つの結論に達した。
「この世に理想郷なんて、絶対に作れない」
宗徳の言葉にオーノ牧師は涙を浮かべた。熊のような体を丸め、彫りの深い顔に涙が伝う。淡い色の瞳が濡れて光っていた。
「それが結論ですカ。悲しいことでス」
宗徳の「森羅」にもオーノ牧師の嘆きの感情が伝わってきた。
彼は妖刀村正から片手を離し、胸の前で十字を切って祈る。再び両の手が村正に添えられた時には彼の表情は一変していた。
「ミスタームネノリ。アナタを『粛清』しまス」
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