全ての人々が平等に幸せを受けとる、夢の国
「そんなことはありませン」
戦いの場に似合わない、昔の高僧や聖者を彷彿とさせる優しげな声が聞こえてくる。声の方を千佳が振り向くと、一人の人間がゆったりとした足取りで近づいてきていた。
「あんた、いつの間に…… 宗徳? どうしたさあ?」
「恵まれない人たちを思い、義挙に走った。あなたの行動は、賞賛されるべきものでス」
耳に染み渡るような、人を落ち着かせる声。
だが宗徳はその声が近づくたびに震え、歯を鳴らす。
自分を呼ぶ千佳の声が、すぐ近くのはずなのにどこよりも遠い。
忘れるわけがない。忘れたくても、忘れようとしても記憶にこびりついている。
可夢偉を使わなくてもわかるほどの、圧倒的な感情の暴風。
温厚な仮面の中に隠された忌まわしいほどの狂気。
「オーノ・忠常牧師!」
宗徳の悲痛とも言っていい叫びが響き渡る。
「おや、そこにいるのはミスター・ムネノリ。ご無沙汰していましたネ」
「知り合いさあ?」
宗徳はそれに答えず、ただ怒りと恐怖を必死に抑えていた。
「牧師様!」
「ミスター・シバタ。アナタはよくやりましタ。下がっていなさイ」
首元に白い詰襟がついた黒い長そでのシャツと黒のスラックス。肩から膝まで届く長い白のストール。
海外の血を思わせる彫りの深い顔立ちに、熊を思わせる大柄な体。
「確か以前ボランティアの帰りに見かけた、神父さぁ?」
「神父ではなく、牧師ですヨ」
「あんたが、黒幕さあ? なんでこんなことをしたさあ?」
黒煙と瓦礫を視界に収めながら、千佳は吐き捨てる。
「罪なき方々に恐怖を与えたことは、神に懺悔しなければなりませン。しかし必要なことだったのでス。全ては我らの理想、未だ為されたことのないユートピア、『エデン』のため」
「エデン?」
「そこでは全てが理想の世界。貧しいものも、富むものもなイ。全ての人々が平等に幸せを受けとる、夢の国」
牧師は恍惚として己の理想を語る。傍らの柴田はその説教に聞き入っていたが、千佳が冷や水を浴びせた。
「私は願い下げさあ、そんな胡散臭い国」
「胡散臭イ?」
「だってそうさあ。そういう言い方はサギや新興宗教の勧誘の手口と同じさあ」
「サギ、ですカ」
オーノ牧師の表情は変わらないが、声音に怒りと冷たさが混じる。
「初めて聞いた方が理念を理解できないのは、仕方がありませン。しかし理念を否定するのであれバ」
オーノ牧師がストールをめくると、そこには一振の刀が帯に差し込んであった。
緩やかだが無駄のない動きで刀が抜かれた。刀身は仄かな青みを帯び、波紋がのたうつように不規則な波を描いている。
「『粛清』せねばなりませんネ」
「あんた、可夢偉使いだったさあ?」
牧師の服をまとって刀を振るう姿は、どことなくミスマッチだ。
「わが小野派一刀流は、代々牧師が継いでおりましてネ」
オーノ牧師はそのまま切っ先を千佳に向ける。正眼のお手本ともいうべき理想的な構えだった。
肩の力が抜け、腰が落ち、後ろ足の踵がわずかに浮いている。
「『止水』」
彼は何らかの可夢偉を発動させたらしいが、正眼の構えのまま微動だにしなかった。
「やめろ、千佳」
「どういう可夢偉かは知らないけど、先手必勝さあ、『春燕』!」
宗徳の制止にもかかわらず千佳が可夢偉を放つ。刀の間合いの外からでも触れるものを切り裂く不可視の刃。
だがその刃は、オーノ牧師の目前まで迫った直後に動きを止めた。見えなくとも使い手である千佳には、己の可夢偉が急速に力を失ったのが伝わる。
「今、何かしましたカ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます