乙
「あんた、こんな仕事よくやるね」
会議終了後の休憩中、薫が談話室で手持ちのノートパソコン相手に作業をしていたちづるに話しかけてくる。
その手には二つのコーヒーカップが置かれていた。
「そ~でも、ないですよ~。悪い仕事じゃ、ないですし~」
いつもよりさらに間延びした声でちづるが返事をする。
「飲む?」
薫はちづるがうなずいたのを確認すると、パソコン操作の邪魔になりにくいよう彼女の左横にコーヒーを置いた。
「ありがと~、ございます~」
ちづるは肩をぐるぐると回した後、カップの蓋を取った。
香ばしい匂いがちづるの胸いっぱいに広がっていく。公安五課のコーヒーメーカーに使われている豆は、一級品ではないが十分に高級なものだ。
「いただきます~」
ちづるはためらいなく口を付けると、ブラックのそれをちびちびと流し込んでいく。
カフェインの力でちづるの意識ははっきりとしていった。
「ほら、髪が入りそうだしぃ」
円形のテーブルの向かいに腰掛けていた薫が、腰を浮かせてちづるの髪を軽く梳く。
「あんた素材はいいんだしぃ、もっとちゃんとしたら?」
「できたらします~、いえ、前向きに~、善処します~」
「やらないと思わてからの政治家答弁って……」
薫は苦笑いしながらも、クリームをたっぷりと入れたコーヒーに自分も口を付けた。
陰キャとギャルだがなぜか気が合い、二人は会議後にこうして話すことが多かった。
しばし異国の香りを堪能した後、ちづるは再び言の葉を紡ぐ。
「私は~、今の仕事気に入ってますよ~。自室にこもりながらできますし~。いい人ばかりですし~」
「ま、あんたはそうか」
薫は金髪をかき上げながら、換気扇の回る天井を仰ぎ見た。
「薫さんは~、なんでこの仕事に入ったんですか~?」
「金。人生楽しむには、金かかるじゃん」
スマホで休日の予定をチェックしながら薫は答えた。
竹内流柔術という流派を継承する彼女の実家は、代々整骨院を営んでいた。
決して稼げない仕事ではなく、令和の不況下でも道場を併設できるくらいには儲かっていた。だが下積みとしてジジババの腰ばかり揉まされる仕事に飽き飽きし、薫はある日衝動的に家を飛び出す。
だが高卒の学歴のままで住み着いた都会は甘くない。バイトで食いつなぐだけの生活は家賃と食費を差し引くとほとんど手持ちの金は残らなかった。
やがて彼女の出奔を聞きつけた実家が公安五課に連絡し、彼女を紹介したのだ。
実家の紹介ということで最初は嫌がっていた薫だが、背に腹は代えられず引き受けることになる。
「もう今年で二十だしぃ。いい相手見つけて寿退社でもしたい」
「お相手は~、いないんですか~?」
「公安に限らず警官ってのは、出会いが少ないから同業者が多くなるしぃ。でもプライベートでも可夢偉使いと一緒、ってのは重くね?」
「まあ~、そうですね~」
ちづるはパソコンにロックをかけてから、コーヒーメーカーにお代わりを取りに行った。
「あんたは…… って、まあ言わなくてもバレバレか」
隈の浮いた目とぼさぼさのくせっ毛、深緑の制服の上から羽織った白衣。
磨けば光る宝石をあえて粗削りにしている彼女の心を占める男子は一人しかいない。
「おしゃれすると、変な目で見られることも多いですから~。見てほしい人が、気にかけてくれれば、いいですしね~」
「は~。こんな仕事早く辞めて、いい男に養ってもらいたい~。まあ、相方の示現は生きがい感じてるみたいだけど」
併設されている道場に目を向ける薫。
「まだまだでごわす! あと素振り二千回! 『朝に三千、夕に八千』が示現流でごわす!」
「新入りだからといって特別扱いはしないでごわす」
門下生たちの悲鳴にならない悲鳴のすぐ後。示現流専用の皮をむいた丸太を縦にした打ち込み台に、ユスの木刀で打ち込んでいく弟子たちの掛け声が聞こえてくる。
「暑苦しいわ~。乙~」
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