ちづる

「あぁぁぁっっっ!」


 公安五課情報担当、溝口ちづるが悲鳴を上げながら跳ね起きる。枕もとの眼鏡をかけて周囲を確認すると視界に映るのは自室の天井と壁紙、シンプルなカーテンが張られた窓。


「うん、大丈夫~、大丈夫~、ほんと、だいじょうぶ~」


 狭い場所を嫌うちづるの寝室は家具が少なく、ごく最小限の荷物しか置かれていない。


 研究用の資料も勉強用の本もすべてを別室にしまい込んでおり、寝室には中央に置かれたベッドと目覚ましや水差しを置く低いチェストしかない。


 パジャマの胸元をかきむしるようにして、荒い呼吸を必死に落ち着かせる。


 秋も暮れてきたというのに汗が全身に張り付いて気持ちが悪い。


 夢。あれは夢。


 今いるのは、安全な公安五課の寮。この建物にいるのは正真正銘の女性だけ。


 必死にそう言い聞かせるが、一度波だった心はなかなか落ち着かない。


 チェストの上に畳んで置いてある「それ」を愛おしむように引き寄せ、


 クンカクンカ。


 スーハースーハー。


 一心不乱に匂いを嗅ぎ、肺の中を「それ」が醸す空気で充満させる。


 脳にしびれるような甘さが伝わり、胸と下腹部が熱くなり、恐怖が打ち消されていく。


 ちづるは再び横になり、「それ」を抱きしめながら目を閉じた。


 次に見たのは蜜のように甘い夢。己が願望のすべてが叶えられた、幸せな夢。


 その日の朝、快眠が過ぎたちづるはあやうく遅刻しかけた。


 大急ぎで顔を洗って歯を磨き、最低限の身支度を整えてパソコンの前に映ってはいけないものがないかチェックする。


 立場上、情報リテラシーには一般人以上に気を使わざるを得ない。


「おはよ~」


 パソコンのモニターに向かってちづるは朝の挨拶をする。


 ぼさぼさの頭にヘッドセットを装着し、上半身だけ制服を羽織る。


 一年から買い換えていない制服はボタンがすでにきつく、臙脂色のブレザーは前開きにしないと息苦しいほどになっていた。


「おは~」


「りょ」


「昨日の課題、やった?」


「形だけは~、仕上げたよ~」


「いや、ちづるの形だけっていうのはうちらの『申し分ない』って意味だから」


 ちづるのヘッドセットから笑い声が重なり合って聞こえた。


 学校に来られない彼女を揶揄するでもバカにするでもない、仲間として認めている声。


 パソコン脇に置いた眠気覚ましの紅茶をすすりながら、ちづるは一限目の授業の教科書とノートを取り出していく。


やがてモニター越しに流れるチャイムの音とともに一限目の授業が始まった。


 早川女子学園の授業レベルはかなり高い。


 システムエンジニア、インフラエンジニアを代々輩出する高校なだけあって理数系、情報処理系の授業は高一ですでに大学レベルと称されるほどだ。


 知能指数が高いが対人関係を不得手とするギフテッド・学習障害といった生徒も多数在籍し、彼らのための特別室も備えられている。


音と映像が少しずれて映るオンライン授業でも、ちづるは何の造作もなく授業内容を書き取り、あるいは頭に入れていく。


三十年前のパンデミック以降一時的に流行したリモート授業。


対人経験の減少によるデメリットが問題となりすぐに対面式の授業が復活したが、諸事情により通学が困難な生徒のためシステムは残った。


一年前の事件以降、ちづるはこうしてモニター越しにしか授業を受けていない。


友人ともモニターかスマホ越しの会話しかしていない。どうしても学校に来る必要があるときは親や知り合いが同伴し、決して一人で外には出ない。


モニター越しに授業終了のチャイムが鳴るとちづるは伸びをした。制服が引き延ばされてブラ越しに軽い刺激が生じる。


一度モニターをオフにして室内のペットボトルで用を足した後、部屋を出た。


平日昼間の公安五課の寮は人が少なく見つけられる心配もない。


ちづるは眼鏡を揺らしながらぎこちない足取りで猛ダッシュして目的の場所へと向かう。


制服の下のふくらみが八の字に揺れるが、気にする人目もない。


公安五課の寮の一角。そこに目的のものはあった。


自分も設置にかかわった防犯カメラの死角と、人目が完全にないことを確認する。


それから素早く目的のものを抜き取り、持参したトートバックに入れて部屋に戻った。



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