裏切者
「待たせたな」
第二資料室の扉が再び開かれたのは、二人が退室して三十分以上経ってからだった。
「こんなに待たせて…… 夜勤明けにいきなり呼びつけておいて、その態度はないいさあ」
憤る千佳のそばで、宗徳も大きく開こうとする口を抑えた。
本来なら今日の夜に仕事は入っていなかったはずだ。
宗徳たちが夜勤明けの次の日の夜に再び呼ばれることは滅多にない。疲労が蓄積した状態で命に係わる仕事は基本やらせないものだ。
「そうきつい顔をするな。今日お前たちを呼んだのは、いつもの荒事じゃない。刀も仕舞ってきていいぞ」
「じゃあ何の用事?」
千佳がいら立ちを滲ませながら八重樫に言った。
「接待だ」
公安委員会最寄りの桜田門駅からほど近いところにある、とある高層ビルの最上階。
大企業の重役のみが食事を許されるとさえ言われる超々高級レストラン。その一角のゲストルーム。
精緻な意匠が施された絨毯が敷かれ、革靴で歩いても物音ひとつしない。
天井からつるされたシャンデリアは目に眩く、一面がガラス張りになった壁からは夜の街が一望できた。
「すごい、すごいさ、ムネノリ!」
「そうだね……」
慣れている八重樫は一瞥しただけだったが、ドレスに身を包んだ千佳は目を輝かせて見入っている。
一方タキシード姿の宗徳は眉根を寄せ、豪奢な内装を忌々しげに見つめていた。
高級そうなドレスを着て物珍しそうにはしゃぐ千佳と、仏頂面を隠しきれない宗徳。
あまりに対照的な二人だった。
「ムネノリはこういうところ、嫌いさぁ?」
「嫌いっていうか…… 苦手かな」
「まあ、その気持ちわからないでもないさぁ。ドレス、高級レストラン、夜景……どれを取っても上級国民でないうちらには一生縁のなかったはずのものさぁ。でも」
千佳が宗徳の手をぐいと引く。
「せっかくの機会。楽しまないと、損さぁ」
給仕にゲストルームへと案内されると、純白のクロスが敷かれたテーブルには接待の相手がすでに席についていた。
宗徳たちの姿を認めると立ち上がって頭を下げる。
「この度は娘を助けていただき、本当に感謝している」
「わたくしからも、改めてお礼を。学園では満足に話せませんでしたので」
近衛家当主近衛数麻呂と、その娘近衛明日香だった。
明日香は学校とは違いパーティードレスに身を包み、黒髪をアップにまとめていた。髪留めには宝石があしらわれている。
日本有数の財閥、近衛家の面々が一介の公務員に頭を下げている。もしこれが他の客席と壁で隔てられたゲストルームでなかったら、大騒ぎとなっただろう。
「それが仕事ですので。どうかお気になさらず」
スーツ姿の八重樫は泰然とした口調で返答した。千佳は雑誌やネットニュースでしか見たことがない近衛家当主の姿に冷や汗を流し、宗徳は笑顔を作って慇懃に頭を下げる。
「さあ、堅苦しい話はこれくらいにして。今日は食事を楽しみましょう」
近衛数麻呂に促され三人は席に着く。最低限のテーブルマナーは研修を受けていたので、席に座る際も混乱することはなかった。
五人が席に着くと、さっそく料理が運ばれてきた。こういう店ではワインやメインディッシュなどの希望を聞かれるものだが、勤務時の食事は五百円以下と決められている宗徳や千佳はすべて店に任せる。
会話を遮らない音量のピアノの生演奏が始まり、下界とは隔絶された天国のような雰囲気を一層盛り立てる。
宗徳も千佳も、何を話したらいいのか、どう振る舞えばいいのかわからずはじめは緊張していたが、すぐにその心配は杞憂となった。
近衛数麻呂も明日香も相手に寄り添ったトークをするのが上手い。
二言三言話しただけで話のテンポや話題のチョイスを見定め、打てば響くように会話を盛り上げてくれる。
学校のこと、普段の仕事、今まで出会ってきた人間。
宗徳たちが知らなかった様々な知識や世界。
時には静かに、時には大げさに。真剣さとユーモアを交えながらのトークに、宗徳も千佳も聞き入っていた。
知識の幅広さとさりげない気遣い、自然な笑顔に同席しているだけで幸せな気分になる。接待するはずなのに、逆に接待されていた。
これこそが「上級」の国民だと思わせる、そんなひと時を過ごす。
デザートが運ばれてくるころ明日香が救出された話題へと話が移る。
「それにしても…… 死角からの攻撃を難なく受け止める宗徳さんに、遠く離れた相手を剣で攻撃できる千佳さん。可夢偉使いって、本当にすごいんですね」
「私も、財閥や上級官僚との会合で話には聞いていたが…… 使い手を見るのは初めてだ」
「そんなに褒められると、照れるさぁ」
この短い時間で明日香と名前呼びになるほど打ち解けた千佳は、頬をかきながら喜色をあらわにする。
だが宗徳は飲み物を一気に飲むと語気を少し荒げた。
「……褒めるなら、僕たちだけじゃなく居場所を突き止めた情報担当の人たちにお願いします。仕事量ならそういった人たちの方が多いんですから。目立つところにいる人間だけを褒めるようじゃ、近衛家といってもたかが知れてますね」
「おい、但馬!」
毒を吐いた宗徳に、八重樫は顔色を変えた。
宗徳は言い過ぎたと思った。だが間違ったことは言っていない、この場にはちづるも招かれるべきだった、その思いがとっさに頭を下げさせなかった。
ちづるの目に浮いた隈は、過労のためだけではないのだ。
だが近衛数麻呂は興味深そうに宗徳を注視し、明日香はゆっくりと頭を下げた。アップにした黒髪がシャンデリアの光を受け金色に輝く。
「現場の苦労も知らず、知ったような口を聞いて申し訳ありませんでした」
あまりにも素直に頭を下げられ、宗徳は慌てふためく。
「いえ、こちらこそ…… 近衛家の方々に、とんだ無礼を」
八重樫はまだ何か言いたげだったが、近衛数麻呂のとりなしで矛を収める。
話題を強引に変えるように千佳が発言した。
「でも近衛家っていえば上級国民の中の上級国民。事実学校でも護衛が常に見張っていたさあ。それなのになんで、今回みたいな事態になったさぁ」
「ケネディ大統領暗殺やひめゆりの塔事件とか、護衛があっても阻止できなかった事件は多い。それらと比較しても今回の事件は不可解な点が多かった」
「……裏切者、ですね」
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