金持ちが金を使わないと貧乏人に仕事がない
断言した八重樫の言葉に数麻呂が目を見開き、重々しくうなずいた。
「公安五課の方には、やはり隠し事はできないか……」
「それで、そいつらはもう捕まえたさぁ?」
「お恥ずかしながら、まだだ。娘には窮屈な思いをさせている」
明日香が飲み物に視線を移すふりをしてうつむく。表情に陰が差した。
「癒着を疑われないよう、民間が公安と直につながることは避けてきた。だが…… 今回で三度目だ」
「そんなに?」
宗徳と千佳は明日香が誘拐されたときに落ち着いていた情景がずっと疑問だったが、やっと腑に落ちる。
「初めての時は怖かったでしょ? 今は大丈夫? 夜に目が覚めたりしない?」
「宗徳さんはお優しいのですね…… でも、もう大丈夫です。時間も経ちましたから」
明日香は穏やかな笑顔を浮かべた。だが言葉や表情とは裏腹に、ドレスから出た白い手が震えている。
「そこで折り入っての頼みなのだが。君たちに学園での明日香の護衛をお願いしたい」
その言葉に、千佳たちどころか八重樫まで目を見開く。
「でも黒服の人たちが護衛についてるさぁ」
「お言葉ですが、この二人は可夢偉使いとはいえ一般庶民です。近衛家の方々のそばに置くのは如何かと……」
「常にそばにいられるわけではないし、明日香が窮屈な思いをする。それに同じ学園生のほうが自然に護衛できるだろう。何より一人は同姓というのが大きい。千佳も信頼しているようだ」
宗徳は天井を仰ぐ。汚れ一つない純白の壁紙が下々の苦労など無関係と言わんばかりに照明に照らされていた。
「ここに連れてこられた時点で断れないんでしょうね」
「根回しは既に済んでいるのだろうな。公務員は上の言うことに従うものだ」
オレンジジュースをあおりながら八重樫は言った。
美人を体現したかのような容姿の彼女は、ノンアルコールビールですらビールと間違えたらいけないと触れることもない。
だが千佳一人が不敵な笑いを浮かべ、刀を握るかのように手を曲げた。
「私は構わないさぁ。近衛家を警護するなんて滅多にできんし。それに卑怯と蔑まれてきた柳剛流の名を売るにはまたとない機会さぁ」
「決まりですな」
数麻呂は軽く手を叩き、穏やかに笑った。
デザートと共にお茶が運ばれてくる。白磁のソーサーに乗せられたのは最高級ブランドマイセンのティーカップ。スプーンに至っては純金だった。
喉に渋みが引っかかるティーパックのお茶と違い、喉を通るたびにすっきりとした香りが鼻まで抜けていく。先ほどまでのいざこざも、仕事の苦労も何もかもが溶けていく気さえした。
ふわふわとした夢見心地の中で、宗徳は一面ガラス張りの窓の外を眺める。
一面に星々のような街の灯りが広がり、この世の富が光となって咲き誇っているような気がした。
胸の内に暗いものが広がるのを感じつつ宗徳は視線をゆっくりと下ろし、明かりが届かない路地の上や公園に思いをはせる。
そこには屋根の下で寝ることすらできない人々が、ビルの谷間で風を避け、段ボールで寒さをしのいでいる。
ソーサーにマイセンのティーカップを下ろす音とともに、澄んだ声が宗徳を呼ぶ。
「宗徳さん」
出会ったときは下ろしていた黒髪をアップにすることで、むき出しになったうなじ。肩を露にするデザインのドレスが、剣に生きる少年の目を引き付けた。
「貧しい者を尻目に、こうして豪華なディナーを楽しんでいることが後ろめたいですか?」
心を見透かされたような一言に、宗徳はわずかに肝を冷やす。
「いえ、そんなことは。こんな豪華な席に招いてくださって、本当に……」
「構いません。わたくしも昔はそうでしたから」
明日香の宝石のような瞳が憂いを帯び、宗徳の視線から逃れるように目をそらす。
「わたくしも近衛家の事業の一環で、様々な福祉施設を訪れることはあります。無邪気にわたくしを慕ってくれる子供たちの相手をするのは嬉しいです。でもふと虚しさのような、罪悪感のような思いにとらわれることがあります」
明日香はそう言って空になったティーカップを掲げた。
「このカップひとつで、あの施設の子供たちが何人大学に行けるのか、と」
いつの間にか、テーブル上からは物音ひとつしなくなっていた。ピアノの音がわずかに聞こえてくる以外、宝石の瞳を持つ少女の声を邪魔する者はない。
数麻呂も娘の会話を見守り、千佳は身を乗り出して話に聞き入っている。八重樫はあえて無表情を作っているかのように見えた。
「ですが贅沢でも、こうしてお金を使わなければ家具職人さんも、コックさんも、給仕の方も、ピアニストさんもお仕事がないんです」
節約をすれば財政が必ずよくなるわけではないのは、日本史で習う徳川幕府の政策が証明している。松平定信や水野忠邦のそういった政策は経済を停滞させ、失業者を増やした。
「お金が国の隅々まで回るよう、考えて使う必要はありますけど」
「すっごい、いい子さぁ~」
「ひゃわっ?」
明日香がその地位に似合わない上ずった声を上げたのは、千佳が立ち上がっていきなり抱き着いたからだ。ドレス姿の美少女が二人抱き合っているのは、美しいを通り越して尊い。
数麻呂でさえ何が起こったのか、と言わんばかりに目を白黒させている。
八重樫は一瞬腰を浮かしたが、それだけで止めた。
「優しいし、よく気が付くし。名前も知らない人にさん付けなんて、普通上級国民の人はしないさぁ。綺麗なうえに性格美人とか、なにこれ詐欺? 奇跡?」
千佳は明日香の頬に自分の頬をなすりつけ、ぐりぐりと頬ずりしている。
「そ、そのようなことは……」
「正直お高く止まってそうなイメージもあったけど、いい友達になれそうさぁ」
数麻呂も八重樫も、近衛家に無礼を働いているはずの千佳を黙って見守っていた。
「僕もかな」
宗徳が黒髪の少女を見る目を優し気に細めた。
「賢くて、いい人ですね」
何のためらいもてらいもなく、明日香にそう告げる。
柔らかな容姿と中性的な印象を持つ宗徳が言葉穏やかにそう言うと、不可思議な魅力があった。
「な、なにを根拠に…… わたくしなんて、ただの学生です」
「僕にはわかるんです。わかりやすい悪人、偽善者、自分の言葉に酔っている人。色々な人を見てきましたから。明日香さんは酸いも甘いも嚙み分けて、それでも揺るがない自分を持っている」
数麻呂は興味深そうに宗徳の言葉に聞き入っていた。
「すみません、偉そうに語ってしまって」
「いや、構わんよ。娘のことをそのように言ってくれた人は初めてだ。改めて君たちに護衛をお願いしたい」
「もちろんです。明日香さん、これからよろしくお願いします」
「敬語は結構です。友人となるのですから。それにわたくしのことは明日香とお呼び捨てください」
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