第32話



 夢を見ていた。

 不思議な夢だったはずだけど、思いだせない。何か心を強く揺さぶる内容だった気がする。

 本当はもっと眠っていたかった。夢の続きを見たかった。

 起きたというより、誰かに起こされたんだと思う。温かい声で、もう起きる時間だよ、って。


 重い瞼をうっすら開けると、強い光に視界が白く染まった。

 アルコールの匂いがほのかに鼻をつく。

 やがて、点滅するように覆っていた光の玉が薄れ、視界が晴れる。柔らかな照明だった。それほど、長く眠っていたということだろうか。

 身体が鉛の様に重くて、視線だけを左右に彷徨わせる。

 誰もいない、知らない部屋だった。でも、すぐにここが病室だとわかった。漂う消毒の匂いと面白みのない内装。そして自分が横たわる大きなベッド。何度も妹の見舞いに訪れた病室と酷似していたからだ。

 窓の外に目を向けると、灰色の壁の隙間から白んだ空が見えた。太陽が顔を見せて間もない特有の明るさだ。


 少しして、身体が動くようになってきた。どこを動かしても痺れと痛みが駆け巡る。

 一体、どれくらい寝ていたのだろう。

 やせ細った自分の四肢を見て、ちょっと怖くなった。


 そもそも、どうして私は病院のベッドで寝ているのだろうか。

 ふとした疑問に記憶が蘇る。


 最初は何が起こったのかわからなかった。妹が私を突き飛ばしたことに憤りじゃなくて、驚きが勝った。確かに口喧嘩しながら帰っていたけれど、妹は決して暴力を振るう人間ではない。だから、擦りむいた膝の痛みよりも、強く打った頭の痛みよりも、どうして? という疑問が先走った。

 そして、振り向いた刹那、全てを理解した。

 青の歩行信号に視界端から勢いよく突っ込んでくるトラック。その鼻先に触れそうな妹。安堵の表情を浮かべ、私にニッコリと微笑みかけていた。

 一瞬にして通り過ぎるトラック。

 遅れて聞こえてくる急ブレーキにタイヤが擦れる嫌な音。

 周りの悲鳴と喧騒。

 多分、自分の吃逆きつぎゃくのような引きつった息を吸う音。

 青の信号が点滅し、赤く点る。

 

 地面に垂れる指先を温かい何かがぬるっと触れる。真っ赤な鮮血が、どこからか垂れ流れてきていた。


「ぅあぁああぁ……っ!」


 嗚咽交じりの悲鳴が病室を駆け巡った。喉が裂けたみたいに痛みをはらむ。

 こみ上げてくるものを必死に抑え、飲み込んだ。

 視界が揺れて気持ち悪い。乱暴に抜けた点滴痕が今さらじんわりと痛みを帯びる。


 涙が出なかった。泣きたいとも思わなかった。

 そんなことよりも罪悪感に今すぐ消えてしまいたかった。

 病気の妹に感じていた何となくの後ろめたさが、明確な罪へと変わる。

 身体中が軋むように痛い。喉が熱く燃えるように痛い。胸が押しつぶされそうなほど痛い。何もかもが痛かった。生きてる証拠を押し付けられる度に、苦しかった。

 どうして私じゃなかったんだろう。生きるなら、希望を持っていた妹の方が適当だった。

 私が生き残ったって、何の意味もないというのに。


 身体を再びベッドに預ける。

 このまま、何もなかったかのようにもう一度寝てしまおうかと思った。そうすれば、もう嫌な思いをすることもない。

 視界の端に白じゃないものがあることに気が付く。ベッド後ろの壁に何かが掛けられている。

 大きな絵だった。

 何もない病室に飾られるにはあまりに不自然に思える。

 無性に気になって、ベッドから降りて立ち上がった。足に力が入らなくて、すぐに膝から床に倒れてしまう。仕方が無いから、下から絵を見上げた。

 

 不思議な絵だ。

 入道雲が立ち昇っているのに、雪が降っている。夏を象徴するひまわりと、冬の花であるスイセンが一緒に描かれていた。中央に描かれた女性はセーターを着ているのに額にうっすらと汗が滲んでいる。それに、よく似ていた。


「涼音……?」


 音もなく涙が頬を伝った。

 どうしてか、絵から目が離せない。

 上手いな、というありきたりな感想に過ぎないのに、なぜか吸い寄せられる。

 静かに流れる透明な青が止まらなかった。

 自分の身体なのに、言うことを聞いてくれない。

 こんな風に何かを見て微笑みながら涙を流すなんて、これじゃまるで妹みたいだ。


 いつの間にか、胸にこびりついていた不快な感情が全て消え去っていた。さっきまでが嘘だったみたいに穏やかで、満たされた気持ちになる。

 この絵が何だと言うのだろう。どうして、私の病室に飾ってあるのだろう。尽きない疑問もどうでもよかった。

 絵の下に何かが貼ってあることに気が付く。まるで学校の美術作品のように、厚紙に黒いペンで書かれていた。


『8月、雪の降る世界で君を見つけた』


 きっと、この絵の作品名なのだろう。

 胸に灯るじんわりとした熱が、いつまで経っても冷めることはなかった。



 太陽が完全に昇る前に、巡回していた看護師に見つかって、すごく驚かれた。

 すぐに見知らぬ医者が飛んできて、いくつか質問をされた。名前を聞かれたり、最後の記憶はいつだ、眠っているときに何か覚えてることは? とか意図が良くわからないものばかりだった。

 結局、簡単な問診と会話だけに終わり、精密な検査などは後日ということになったらしい。


 再び戻されたベッドの上でぼんやりしていると、母親がやって来た。随分と慌てていたらしく、息を切らしたまま姿を見せる様子に、気まずさのようなものを覚える。

 母親は記憶よりも痩せていた。やつれていたという方が正しいのだろう。きっと、私たちのせいだ。

 私が何も口に出来ないでいると、母親も何も言わずに私を抱きしめた。

 とても温かかった。

 見知った人に会えて、ようやく目が覚めたんだと自覚できた。


 ひとしきり落ち着いて、私は母親と何気ない会話を交わした。訥々とした語りで、中身なんてない。事故のことも、妹のことも、互いに触れなかった。

 目覚めたばかりで重い話をするわけにはいかないという母親の配慮が見えていたけれど、私が切り出さなかったのは、単純に怖かったから。弱虫な私には、事実を受け入れるまでにもう少し時間がかかりそうだ。

 だから、他愛もないことばかり話した。


「この絵が気になる?」


 母親がクスッと微笑みながら言った。きっと、話をしながら時折視線を送っていたことに気づいていたのだろう。


「……多分?」


 母親は懐かしむように絵を見ていた。


「良い絵よね」


「そうなんだと思う……」


 母親は一旦、家に必要なものを取りに帰るらしい。そういえば、鞄も持たずにほぼ手ぶらだった。それだけ急いで来てくれたということなんだろう。


「そうだ。絵のことが聞きたいなら、あとで来るはずの男の子に聞いてみなさい」


「……えっ?」


 母親はそれ以上何も言わずに病室を出て行った。


 男性の知り合いなんて、特に思い浮かばない。それに母親の口ぶりから察するに、大人ではないのだろう。尚の事、想像が付かなかった。

 学校では妹が病気になってからは友達と呼べる人をつくった記憶がない。もしかしたら、妹の知り合いなのかもしれない。それだとしたら、絵に描かれている少女が妹にそっくりなのにも納得がいく。

 でも、それはすごく億劫なことだ。だって、もう妹は死んでしまったのだから。

 もしかしたら、私のことを非難しに来るのかもしれない。けれども、今は口汚く、お前が死ねば良かったんだって言われた方がいくらかマシな気もした。

 別に何を言われたってかまわない。それが親の見えるところでないのなら。それくらいの罪の意識は十分にあるのだから。


 面会時間ちょうどに病室のドアがノックされた。身体が急に強張る。


「は、はい……」


 病室の外に聞こえるかわからないくらいの声しか出なかった。

 ドアが開いて、一人の男性が姿を見せる。同い年くらいの艶がかった真っ黒な髪が印象的な人だった。

 なぜか彼を見た途端、心臓が強く暴れ出す。まるでずっと待ち望んでいたみたいに、心が弾んで嬉しい気持ちになった。

 見覚えもない人なのに、どうしたというのだろう。さっきから、事あるごとにまるで自分の意思ではない感情が溢れて止まらなくなる。何かが私の中にいるみたいだった。

 彼は私を見て、優しく微笑んだ。ちょっと不格好な笑みに、慣れていないんだろうな、という率直な感想を抱く。

 そして、その笑顔の中に色んな感情が混ざっていることも何となくわかった。嬉しさと、少しの悲しさと、喜びと、苦しみ。一つの表情にこれだけの想いを詰め込めるなんて、無意識にしても感情豊かな人なのだろう。

 だとしたら、この絵にも私では理解できない想いを込めているに違いない。それが、どうしても気になった。


「初めまして……というわけではないんだけど。まあ、いっか。初めまして、雨笠陽音さん」


 似ているわけないのに、なんだか妙な親近感に苛まれる。きっと、この人も自分から話しかけるのは苦手なんだろう。さっきの一生懸命な笑みといい、根本が私と似ている。そんな気がした。気のせいかもしれないけれど。


「ど、どうも。えっと……」


「鳥野翔琉です」


「鳥野さん……」


 彼はこめかみを搔きながらむず痒そうに少し唸る。


「良ければ、名前で呼んでもらえるかな。ちょっと、落ち着かなくてね」


 無理に距離を縮めようとしている、というわけではなさそうだった。


「別にいいですけれど……翔琉さん……?」


「うん、よろしくね。陽音さん」


 不思議な人だ。でも、なぜだろうか。彼と会話を交わす度、不意に目が合った時、胸が熱くなる。一目惚れなんて感情が私にあるとは思えない。じゃあ、この自分のものとは思えない気持ちのざわつきは何なんだろう。


「とりあえず、目を覚ましてくれて良かったよ。僕も涼音も一安心だ」


 心臓がキュッと音を立てて締め付けられる。


「あの、妹の知り合い……なんですよね?」


 彼は何か困ったように頭を悩ませる。


「うーん、説明が難しいんだけどさ、とにかく涼音のことはよく知っているよ」


 彼の口ぶりから、妹と仲が良かったことは容易にくみ取れた。


「そう、ですよね……。ごめんなさい……」


 彼は顔色一つ変えなかった。だから、重ねた。


「ごめんなさい」


 きっと、罵られるのだろう。妹とは性格が真反対なのに、顔だけは瓜二つ。こんな私を助けて、妹は死んだ。嫌な気持ちにさせるには十分な要素だ。


 すると彼はなぜか突然吹き出して無邪気に笑う。

 あまりに想定外の反応に戸惑いが隠せなかった。


「いや、ごめん。やっぱり陽音さんだね。あの時と全く同じこと言うんだもん」


「あの時……?」


「何でもないよ。こっちの話」


 彼は満足げに笑みを浮かべる。だけど、それは先ほどまで私に向けられていたものではなかった。私の方を見ているのに、私じゃない誰かに向けて送った感情に思えた。


「まあ、なんにせよ陽音さんとは長い付き合いになるだろうからさ、おいおい話すよ。僕のことも、涼音のことも」


「あの、私は別にあなたとは――」


「そうだ、陽音さんが退院したら一緒に景色を見に行こう。行きたい場所、たくさんあるんだ」


 人の話を聞かないところは、妹そっくりだと思った。だから、こんなにも懐かしい気持ちにさせられる。取り繕うのを忘れてしまう。彼は本当に変な人だ。


「そして、僕に陽音さんを描かせてほしい。最高の景色と一緒に陽音さんと涼音を描きたいんだ」


 彼は指で四角をつくって私を見る。どうしたらよいのか、わからない。

 気が付けば、彼の絵にまた魅入っていた。

 胸が熱い。もっと、彼のことが知りたい。

 私は無意識のうちに小さく頷いていた。

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