審判
@KawachiKera
第1話
長い長い人の行列は、鏡同士を向かい合わせたように、前も後ろも先が見えなくなるまでずっと続いている。気が遠くなるほどの時間が経って、ようやく一人分だけ先へ進む。
そもそも時間などという概念を考えるのはナンセンスなのかもしれない。ここには昨日も今日も、劣化も老化もない。始まりも終わりも関係なく、永遠に存在し続けている。この空間において無理矢理にでも時間を定義しようとするならば、ただ列の進み具合だけを基準とするしかない。そして、そんな時間の怠慢に引きずられるように、この長く曲がりくねった列も、緩慢に過ぎる動きを続けていた。
列は一本ではなく、並行していくつも伸びていた。それらのいくつかは進む向きが対向していて、自身との反対方向への動きが、電車のホームで反対路線の車両が動き始めた時のような錯覚を引き起こし、むしろ自分の列が後退しているのではとすら思えてくる。
このような状況でも、文句を言う者は誰ひとりいない。男も女も、老いも若きも、聖人も犯罪者も、誰もがこの状況を認識した上で、この世界の理に従っている。尤も、内心でどう思っているのかまでは分からなかった。彼らのごく少数とごく僅かで表面的な意思疎通しかしたことはないから、裏で不平不満をため込んでいても驚きはない。
だが少なくともここに存在する「自分」にとっては、この状況は不思議ではあるが、憤懣やるかたないという感情を湧き起こすものではなかった。これは与えられた前提条件で、覆すことはできないものなのだと、動物的本能のように悟っていた。そして、自分だけでなくここにいる他の人々も、この摩訶不思議な啓示を受けているという根拠のない確信があった。
この空間には分かりやすい始まりなどない。それはまるで宇宙や人々の言う”神”のようで、神聖にして侵されざる概念であった。そのような場所に存在する自分は何者だろうと自問するのは至って自然な帰結であろう。
しかし、初めは何一つ思い出すことは出来なかった。言葉で思考することは出来る訳だから、エピソード記憶に問題があるのだろう。そして、少しずつ、泥の中の砂金を探すかの如く、記憶は還ってきた。
今の自分は人間ではないのだ。そもそも「自分」などというアイデンティフィケイションにも自信が持てない。どうもここに来てから、以前とは生命の在り方が決定的に異なっているように感じられる。突然、言いようもない不安が襲いかかり、胸に手を当てる。やはり、心臓の鼓動は応えない…。
名前は、木島涼香です。年齢は、三十、七かな?えっと、まあ意味のないことですね、ここでは。
姉弟は、姉が一人。高校までは仲良かった方だと思いますよ。大学入ってからは一人暮らし始めちゃったんで、そんなに関わり自体がない感じです。大学を出た後は、三年もしない内に職場結婚して、そっからは専業主婦です。
両親との関係、ですか。
…普通だと思いますよ。ええ、分かってますよ、普通じゃ分からないですよね。母親とはあまり話さないです。父親とはたまに連絡をとるぐらい、って言っても、あちらから一方的に連絡してくるだけですけど。
いつからそういう風になっていったのか、覚えてますよ。そう、大学生で一人暮らしを始めてからですね。両親っていう庇護者に対して社会的義務として被っていた仮面を脱ぎ捨ててしまったんです。そうそう、親が子供にかける”健全な”プレッシャー。本当はそれよりずっと前から、心の奥底で両親との波風の立たない関係を望んでいたんでしょうね。
まだ家族のことが聞きたいんですか?
ねえ、これって心療内科の先生の質問みたいじゃないですか?それか面接か。会社の面接だったらこんな質問コンプライアンス違反ですよねぇ、はは。
記憶はほとんど取り戻していた。初めは、自分が誰かすら覚えていなかったのを考えると、得も言われぬ感覚だ。それ以前の、記憶のない意識はただの空洞ではなく、ただ外部から入力された変数に対して、感情というアウトプットを出す無数の関数の集合だった。
人間という個体は、記憶するに値する記憶の集積と、思考様式の二つが揃うことによって成立する。これ以上の定義は人間の想像力に過ぎない。それが、彼が無意識に確立してきた人間の要件だった。
その意味で言えば、記憶を取り戻した今の自分もれっきとした人間であると自信をもって言える、はずだった。しかしその自信は記憶を取り戻した時に失っていた。
自分の信念に従えば、記憶を失っていた期間は、自分は人間ではなかったことになるのだろうか?それに何より、現在進行形で続く肉体の不在は問題外としてよいのだろうか?
物理的な肉体の、より正確にいえば脳の欠如は感情に影響を与えた。睡眠不足もアルコールの影響もない、完全な自然状態。常に、肉体を持っていた時とは比較にならない明晰な思考が行われる。
麻痺していた感覚が研ぎ澄まされ、”常識”や”普通”という言葉でコーティングされていたかつての自分自身の観念にあらゆる疑念が浮かぶ。自らの行いに対して悔い改めよ、と言われているようだ。
不意に、周囲からの視線を感じた。見えないが、分かる。自分が殺した人間達がこのどこかにいる。
大学に入ってすぐが今思えばターニングポイントでした。サークルの勧誘シーズンで、コンパがありますよ、なんて誘われて。”そういう団体”だって知ったのはもう少し後になってからだったけど。
他にも唆されてやって来た人はいたけど、残った人は少数で。
僕はというと、それまで他に熱中していることもなかったんで、彼らの”教え”を聞いている内に、これこそが僕の使命、この世に生まれてきた意味なんじゃないかと本気で信じ始めたんです。積極的に活動に参加している内に、あれよあれよと地位も上がっていきましてね。ただ人から教えられるだけじゃなく、自ら策定し、行動するようになりました。勿論根本には”予言者”の指示がありましたがね。ただ、神懸った状態で言葉を発するものだから、なにもかも曖昧で、こちらも必死になって”解釈”するんです。今思えば、いつか逮捕されたときに言い逃れるためだったんじゃないでしょうか。
僕はのめり込むタイプだったんでしょうね。教えも本心から信じていたし、組織の中で何かを計画したりそれを達成するのに満足感があった。
今思えば、正気の沙汰ではないですよ。狂ってる。
自己弁護をしているんじゃないですよ。ここに存在して以来、何もかもが本当に他人事に思えるんです。
この列にしてもそうである。当初は何の疑問も抱かなかった。最初から並んでいたし、今も並んでいるし、これからも並ぶのだろう、と。今この人の列から思い起こされるのは、新しいゲームコンソールの発売日、アイドルの握手会、パチンコの番号抽選。そういった例えに使えるような知識や経験も徐々に思い出してきていた。
どうもここにいる人間のほとんどがそういうプロセスを経るようだ。そう、ここは空港のロビーのようだった。快晴の見える窓はなかったが、人の密集した空間と次の旅への予感がそう感じさせるのだ。
無限に思える時間の中で、気づいたことがあった。
子供、といっても法律的な未成年という意味ではないが、十歳くらいまでの幼い子達は、別の列に並んでいた。ここがどこであろうが、世間一般と同じく子供は優先的に扱われるようだ。
遊園地のファストレーンよろしく、彼らは特別な列で、早く進んでいく。ある時は列がはけて一人も並んでいない時すらあった。
誰かが誘導したり監視しているわけでもないのだが、誰ひとりとして子供たちの列に割り込む者はいない。ここではそれは”できない”ことを誰もが知っていた。
逆に、ある程度歳をとった人間はまた別の列が割り当てられ、そこでは一般の列より進みがずっと遅かった。植物の成長のように、じっと見ていても変化が感知できないほどである。間隔を十分にとった断続的な観察によってのみ列の進みを知ることができる。縮こまった老いた魂が置き去りにされている様は見ていて居たたまれない。
彼らは一様に暗い目をして佇んでいる。この沈滞した空間に嫌気が差したのか、それともいつか訪れる審判を恐れているのか。いずれにせよ、そもそもここに存在している人間に歓喜に類する感情を見せる者などいなかったから、そのような彼らの表情は誤差の範疇であった。
この先には審判が待っている。これも本能的な予感だ。それは生前の自分の信念とは相容れないものだったが、今や認めざるを得ない。輪廻転生、閻魔大王、審判の日、煉獄、三途の川。どれも微妙に的を外れている。あるいは逆に、何かのはずみで偶然この場所から現世に戻れた人間が広めたのがそれらのイメージだったのだろうか。
閻魔様か父なる神か知りませんけど、僕の人生、全部知ってるはずですよね。まあ、皆まで言わないでくださいよ。僕に語らせることに、裁きを下す上で意味があるんでしょう?
どんな判決でも怖くないんですよ、強がりとかではなくて。信じてたものが嘘だって証明されちゃあ、もう何でも受け入れられますよ。それに、天国だろうが地獄だろうが永遠より酷い罰はないって思うんです。輪廻転生だとしても結局は永遠に続いていくんですから。
僕の功は、自分自身に嘘をつかなかったこと。罪は、その為に無辜の民を巻き込んだこと。ただ、これも本当に信じていたんですよ。僕が道連れにした人も来世で救われるって。政界進出に失敗した時に、これはもう武力でもって国を掌握するしかないということになったんです。人は流されやすいから、頂点の権力機構を潰して既成事実さえ作れば従うだろうと。
でも、公安は想像の上を行っていた。幹部に裏切り者がいたなんてだれが思います?自爆テロはもう、苦し紛れの抵抗ですよ。…そう、幹部の私がですよ。一つには首都機能の低下、これは別の作戦の陽動みたいなものです。もう一つは我々が死を恐れることはない、という国民への示威行為でした。
もう一つの作戦について?はぁ…いいでしょう、お話しますよ。仰せの通りに。
手を引かれたのは列の終点がにわかに見えた時だった。
トンネルの終わりには日が差し込む。ここに光は存在しないが、この終点にもそんな気配があった。良し悪しはあるものの、何かしらの結論は得られるに違いない。
この先に進んだ時、真の意味で軛から解放される予感があった。そこには始まりも終わりも、戻るべき肉体もない。天国だとか地獄とかいうのは、あったとしてもまるで問題にならない。一番恐ろしいのは永遠だ。
バンジージャンプの飛び込みのように、意を決して一歩踏み出そうとしたまさにその瞬間だった。
左腕をぐいと引かれ、理解の追いつかないままにどんどん引っ張られる。”それ”は男の形をしていた。予想外の出来事に抵抗も出来なかった。
彼が最も衝撃を受けたのは、列から外れるというただそれだけの行為が、可能であったという事だった。
なんという冒涜だろう!普通に会話している友人や同僚を突然殴るようなものだ。
可能だが、実質的には不可能なはずだ。この列は天国への階段、あるいは地獄の門ではなかったのだろうか。それとも、列と終点というシーナリーに、自分に都合のいい寓意性を見出していただけなのか?
気づけば壁を透過するように通って、大きな部屋に連れ込まれ、その男と椅子に座って対面することとなった。この人物は何者なのだろうと、ようやく目の前に思考の焦点を合わせた。
無色のオーラを纏ったその男はあまりにも生き生きとしていて、不気味だった。彼に比べれば列に並ぶ人々は皆五十歩百歩、屍も同然である。
閻魔様は、青年の姿をしていた。
相手の言葉を待たず、自然と口が動いていた。自らの人生、思考の発達過程。主な行いとその結果について等々。男は寡黙だったが、無口ではなかった。
組織の拡大について話せば、「どうやって」とその資金源を聞いてくる。実力行使路線に突入した時期を控えめに話せば、やはり「どうやって」と武器の出所や関係者について短い質問をした。
ぶっきらぼうな態度に文句を挟む気にもならない。男は神かもしれないのだ。不用意に怒りを買いたくはない。
そんなことを考えた自分に反吐がでた。この裁判に弁護士はいない。自己弁護は正当な権利かもしれない。しかし、自分は赦しを求めているのか?
否、人生を賭して信じてきたものが全てまやかしだったのだ。行く先が天国だろうが地獄だろうが、もはや関係ない。
「どうやって」木島が最後の自爆テロと、もう成功を確かめる術のない組織の作戦について話した時にも、男はその問いを繰り返した。
その時、啓示を受けたようにある考えが立ち現れ、それは全ての辻褄を合わせた。すっかり話し終わってから気づくとは、なんと愚かなことか!
「どうやって?どうやってだと?」脳のないこの意識が、怒りを爆発させる。魂が咆哮した。
「騙したな。お前、よくもそんなことを」
「良く気付いた。だが少し、遅かった。協力感謝する」男は最初と同じ無関心を全身から漂わせたまま、入って来たのと同じ扉に向かっていった。
そうだ。もっと早くに気づいていても良かったはずだ。生前のあの優れた脳さえあれば!前頭前野が海馬の記憶を結び付け、もっと早く結論にたどり着けていたはずなのに。
目の前の男が神やそれに類する者だとして、そしてこの審判が予定調和だとして、あるいは本当にこちらが喋ること以外事前に何も知らないとしても、人生の善悪の裁定に「どうやって」などと手段を問う必要はない。そんなことを知りたがるのは、現世の人間以外ありえないではないか。
しかしどうやって?ひょっとして、自分はまだ死んでいないのか?
男を追いかけて部屋を出た。奴の姿はない。まるで初めからいなかったかのように。あれは幻だったのだろうか?
直前まで並んでいた場所に目を向けると、殺したテロの犠牲者達が、感情の読めない表情で木島を見つめていた。気づかなかった。彼らはすぐ近くにいたのだ。吸い込まれるように、目を逸らすことができない。やめてくれ。もう見たくない。分かったから。消えたい。家に帰って眠りたい。
意識がぼやけてきた。何か別の力に魂をオーバーライドされ、自意識を保ったまま木島は列の最後尾に歩みを進めた。
安定臨死維持装置から出て三日後、公安警察の佐久間は、大学病院の一室にいた。
既に事件に関わる情報は報告済みだったが、48時間は絶対安静だったから、今日まで外には出れなかった。何しろ短期間とはいえ”死んで”いたのだから、妥当な処置で不満はない。
リノリウムの通路を通って、人の少ない区画へ迷いなく進んでいく。”危険処理物 許可なき立ち入りを禁ず”と記された部屋のドアをカードキーで開けると、大学側の研究者である田村がいた。
「また歴史を作ったね」丸々とした顔には柔和な笑みが浮かんでいる。
ある機器と体の特定の病が組み合わさって偶然生み出された、安定した臨死体験。そこでは場所と時間にリンクした死者が、無数の列を作っていた。目を覚ました患者のそんな報告を又聞きし、他の全員がそうしたように、良くある幻覚だと切り捨てなかったのがこの田村教授だった。
薬物の投与による病状の再現と電磁照射装置によって、一切の後遺症なしに(とは、田村教授を信じればの話だが)生きたままあの空間に潜り込める。そして、特定の人物が死亡した場所の近くで、大きく期間が空かなければ、その死者とコンタクトができる。
この怪しげな現象と研究が教授の縁で公安に伝わり、(無論、非公式に)共同で実験が行われることとなった。双方にメリットのある話だ。教授は表立ってはできない実験ができる。公安は死者から話を聞き出せる。
今まではあの空間に行くまでのテストしかしていなかった。そして今回、とある宗教団体の重大なテロ行為に際して、死亡した実行犯へのコンタクトが初めて試みられる運びとなったのである。死者への接触と捜査の進展、一石二鳥を狙ったのだ。
「あの男、怒り狂ってました。私のことを天使かなんかと勘違いしていたようです。何か罰が当たったりしませんよね」冗談交じりに、佐久間は尋ねた。信心深くはなかったし(そうだったら、こんな実験に関与などしていない)超自然的な存在はあまり信じていない。そういう意味では、自分も科学者と同じだろうかと佐久間は考えた。
「誤認してくれたおかげでベラベラと何でも話してくれたんだろう?気にすることはない。あれは所詮空間に漂う死者の原子が作る残像だよ。時間が経てば、何も残らない。”死後の世界”なんて人間の想像の産物だよ」教授はこれまでの研究から築いた理論を繰り返す。以前にも死者の空間について説明を聞いたことがあるが、化学的な用語が多くて、佐久間はほとんど理解できなかった。
事件そのものは教授の興味の範疇にはない。男との会話を一通り再現した後は、あの空間そのものについて、とりわけ、延々と続く死者達の列とその終点に関する質問が主となる。
「やはり、列の終点というのが死者がインテグリティを保てる境界線なのではないかな」
教授はぶつぶつとほとんど独り言のように話した。話し手の理解は度外視で、言葉にしていくことで思考を整理するタイプなのだろう。しかし、佐久間が何気なく説明した一つの光景が、教授の表情を一変させた。
「ちょっと待ってくれ…」頭痛がしてきたのか、教授はこめかみを抑えた。よく見れば目の焦点も合っていない。不安が具現化したかのように汗が吹き出し、鼻を伝う。
「前には気づかなかったのか?」
「いえ…どうでしょう。無意識では気づいていたかもしれませんが…。よくわかりません」
「私は降りる」何かに憑かれたとしか思えないような形相で田村教授は言った。
「は?」
「子供は早く終点に着ける、歳をとっているほど列の進みは遅くなる。想像できないか?終点の向こうにいる”奴ら”が多すぎる確認事項に手間取っている様を!子供はいい、行いが少ない上に社会が共有する善悪の抽象概念への理解もまだ曖昧なのだから!」教授は口角泡を飛ばす勢いでまくし立てる。
「もう研究には関わらない。自分の行いが死後の裁定に響くかもしれんのだぞ。君も早く手を引いた方がいい。こんなことが世間に広まれば、”この世”の司法も崩壊するぞ。全く、ああ、神はファウスト的アプローチを罪と見なすだろうか?何が悪と見なされ、何が善と判断されるのか、皆目見当もつかない!」
天国だろうが地獄だろうが永遠より酷い罰はない。ふと、木島涼香の言葉が思い出された。
喚く田村教授を尻目に、佐久間はどうやってこの場から穏便に立ち去るべきかを、ぼんやりと考えていた。
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