第2話 レベッカと落書き犯
早朝。
住人達が眠っている時間から、レベッカはアスト地区の掃除を始める。
治安維持の秘訣は清潔さにある、というのがレベッカの信条だった。
(それに、エクベルト様の歩く道は常に綺麗でなくては・・・!)
レベッカは今日も愛用の
「おはよう、レベッカ。いつもすまないね」
「今日も朝から偉いわねえ」
掃除をしているうちに、早起きの住人達が通りに顔を出し始める。
「おはようございます」
にこやかに挨拶を返すレベッカだったが、決して掃除の手は休めなかった。
やがてレベッカは、ラヴェンデル通りと交差するリーリエ通りから、細い脇道に入った。この辺りの住人はまだ眠っているらしく、脇道はしんと静まりかえっている。
「ん?」
レベッカの視界に人影が映った。
道の左側に建つ、老夫婦が住んでいる民家の前で、少年がコソコソと何かをやっている。
帽子を被った少年で、年齢は16か17といったところだ。
(お孫さん? ううん、子供と孫は別の街に住んでるって言っていたはず)
レベッカは足音を立てずに近づいていった。
少年の足元にはバケツが置かれていて、手にはハケが握られている。
それを見て、レベッカは目の色を変えた。
(まさか!?)
最近、朝の掃除中に落書きを発見することが続いていた。
民家や商店の外壁に、とぐろを巻いた排泄物の絵がペンキで描かれているのだ。
たとえ何らかのメッセージ性があるのだとしても、とぐろを巻いた排泄物の絵を放置するわけにはいかない。
落書きが発生する度、レベッカは家屋の持ち主と協力して外壁を塗り直し、なんとか元通りにしていた
もちろん、エクベルトが見つけてしまう前に。
(落書きの犯人・・・?)
少年はハケをバケツの中に
レベッカは慌てて少年の方に駆け寄った。
「ちょっと! 何やってるの!」
少年はビクリと手を止め、レベッカの方を見た。その顔には、まずいところを見られてしまったという焦りが浮かんでいる。
だが、まだ落書き犯だと決まったわけではない。レベッカは出来るだけ冷静に問いかけた。
「ねえ、あなた。ここに住んでいるご夫婦にペンキ塗りを頼まれたの?」
「・・・」
少年は何も答えない。顔に浮かんでいた焦りはだんだんと消えていく。
この場に現れたのがレベッカ──おとなしそうな若い女性一人だと気がつき、安心しているようだ。
「それとも悪戯をしようとしてるの? だとしたら、今すぐにやめ──」
「うるせえな。邪魔すんなよ、失せろ」
少年はそう言い放つと、レベッカに向けて唾を吐いた。
ベシャッと地面に落ちた唾を見て、レベッカは顔を引きつらせた。
少年は薄笑いを浮かべると、壁の方に向き直り、ペンキのついたハケを持ち上げた。
ハケが壁に触れる寸前、レベッカの低い声が響いた。
「おい、そこのいちびっとるガキ」
「え?」
少年は思わず手を下ろし、ポカンと口を開けた。
「われ、なめとんのか? エクベルト様の顔に泥塗るような真似しくさって」
レベッカは硬直する少年の手からハケを奪い取り、バケツの中に投げ入れた。
そして少年の顔を覗き込むと、目を見開き、眉間にグッと
「いてまうぞコラ」
「ひっ・・・」
少年は怯えた声を上げ、一歩後ずさった。
だが、レベッカの怒りは収まらない。
「うちはな、あの『えくすかりばー』持ってんねん。知っとるか? えくすかりばー、伝説の剣や。家の倉庫にあるんやけど、今すぐここに持ってこよか? あぁ?」
レベッカの目は完全に
「えくすかりばーでしばきまわしたろか。王都の行商人から買うた限定二十本の、ホンマもんのえくすかりばーや」
(ひぃっ・・・ど、どうして伝説の剣が行商人の売り物になってるんだよ! しかも『限定二十本』って、伝説の剣が何本もあるわけないだろ! どう考えても偽物じゃないか!!)
そうツッコミを入れたかったが、声に出す度胸は少年になかった。
少年が半泣きになったその時、荘厳な鐘の音が鳴り響いた。
街の中心にある教会が、朝八時を知らせているのだ。
レベッカはハッと顔を上げ、少年から身を離した。
彼女の圧から解放された少年は、ズルズルとその場に座り込んでいく。
「大変! もうそんな時間!?」
レベッカは地面に放ってあった箒を掴むと、座り込んだままの少年をきつく
「いい? 落書きは絶対に駄目だからね!」
「あ、はい・・・」
呆然とする少年を放置し、レベッカは凄まじい勢いで掃除を再開した。動きが速すぎて、目で追えないくらいだ。
辺りの掃除を済ませると、レベッカは少年のいる脇道に戻ってきた。
そして少年の頭から帽子を取ると、先ほど少年が地面に吐いた唾を、その帽子で
本当は地面を消毒したいところだが、今はその時間がない。
レベッカが汚れた帽子を少年の頭に戻した時、リーリエ通りの方から複数人の足音が聞こえてきた。
足音と共に「おはようございます」という凛々しい声も聞こえてくる。
見回りにやってきたエクベルト達が、住人と挨拶を交わしているのだ。
「隠れなくちゃ! ほら、あなたも!」
レベッカは少年にバケツを持たせ、二人で家屋の陰に隠れた。
壁にも地面にも、茶色いペンキはついていない。それを確認し、レベッカはホッと安堵の息をもらした。
「よし、ここも問題はないようだな」
エクベルト達はレベッカと少年には気づかないまま、先へと進んでいった。
「今日もいい一日になりそうだ」
嬉しそうに呟くエクベルトを見て、レベッカは胸がときめくのを感じた。
(ああ、幸せそうなエクベルト様を見ている時が一番幸せ・・・!)
エクベルト達が去っていくのを見届け、レベッカと少年は家屋の陰から出た。
満足げなレベッカに、少年は恐る恐る声をかける。
「えっと、今一体何が・・・?」
レベッカはエクベルトの去った方を見つめたまま、夢見心地で答えた。
「騎士団のエクベルト様。わたしはあの人のために、アスト地区の治安を守ろうって決めているの」
「は、はあ・・・」
「西部からこの街に引っ越してきた次の日、わたしはエクベルト様が食堂で喧嘩を仲裁しているところを見たの。おじさん二人の取っ組み合いだったんだけど、エクベルト様は見事な手腕で、怪我人を出すことなく和解させたわ。本当に、素敵だった」
「そ、そうなんすか・・・」
「あの日以来、わたしはエクベルト様をお慕いしているの。だからね、このアスト地区を、エクベルト様に見せても恥ずかしくない場所にしておきたいのよ」
レベッカの目はもう据わっていなかった。だが、その瞳には強い意志が宿っており、先ほどとは違う意味で、迫力があった。
「! もしかして、俺の落書きをいつも消してるのは・・・」
少年はレベッカの横顔を見つめ、息を呑んだ。
何度落書きをしても、気がつくと落書きは消されていた。一体どこの誰が消しているのだろうと、少年は疑問に思っていたのだ。
レベッカは誇らしげな笑みを浮かべ、頷いた。
「そう、わたしよ。言っておくけど、また落書きしたら・・・今度こそいてこますで」
少年は背筋を震わせた。
(こいつが・・・いや、この人が、毎回消していたのか。慕っている騎士のために? いまいち理解できないけど──)
この人には逆らうまい。
少年はそう決めたのだった。
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