第一章 三十話 元相棒
「さて、これで『野球ノート』の方は一段落ですかね。」
目の前に座る亜麻色髪のショートカットの彼女は、「んー」と猫の様に手を上に挙げ、伸びをしながらそう言った。
「そうだね。お疲れ様。」
都立板東高校、区立板東二中総勢14名分の野球ノートを分担して目を通し、コメントを残した。今、僕たちが陣取っているファミレスのテーブル席には14冊分の大学ノートが並べられていて、それを避けるような位置に、氷が解けて色が薄くなっているドリンクが置かれている、それが経った時間を物語っている。
板東二中メンバーの分に関しては初めての取り組みだったこともあって今回は僕と沢井さんの二人で観たけれど、次回以降は二人で分担しての持ち帰り作業になると思う。
「中学生組のこの後一ヵ月は出来る限り今日みたいな紅白戦って感じで良いですかね?」
「そうだね。板東二中の顧問の先生の了承が取れたらの話だけど、試合の中で経験を積ませるのと細かい技術的な指導ってところかな。後は……あぁ、人数合わせの初心者も合流するからそれの対応と早いうちに相手の偵察もしなきゃか。」
卓上のノートを二人で手分けして片付けている最中、沢井さんからの問いにそう答えたが、改めて考えるとやはり山積する課題に対して残り時間が短い。
「……もしかして先輩、一人で全部どうにかするつもりです?」
「え?」
「今日の昼に言ったこともう忘れてるし……私も協力するって言いましたよね?なんでもかんでも自分一人ででやろうとするの悪い癖だと思います~。」
「ごめんごめん。」
そんな僕の心境を先回りして頬を膨らませ、不機嫌です、と言わんばかりの表情の沢井さんに僕は慌てて謝ることしか出来ない。
「偵察とかなら私でも出来ますし、流石に技術面の指導は私では無理ですけど、うちの部員なら基礎的な技術の部分は伝えられると思いますよ?……伊達に皆も先輩の後輩やってないんで。」
膨れっ面で言った彼女の言葉は確かに一理あると思った。一ヵ月という限られた期間で結果を求めるならなりふり構っていられない。
ただし、コーチというか指導者が持つべき責任はある。それは怪我であったり部活動に関わるトラブルであったり。例えば、今日の紅白戦だってぶっちゃけグレーゾーンだ。
本来なら引率の監督者が居てしかるべきだし、軽傷ではあったけど試合中に上原君の怪我があった。高校も中学も部活動という括りである以上、こういうことはちゃんとしなければならないだろう。
幸いにして顧問の宮代先生は昨日お話した感じ、生徒の活動に好意的だったからこちらがちゃんと筋を通せば変なことにはならないと思うけど……。
そして何よりも板東二中の皆が持つ切実な願いに対しての責任は最後まで僕が持つ必要がある。それは彼女から直接託された者として僕が受け止めるべきものだ。
「……まぁ最終的には先輩がどうしたいかですけどね。」
そんな風にごちゃごちゃと色々なことを考える僕を見透かしたように苦笑いをしながら沢井さんはそう言ってくれた。
「うーん。そうだね。ちょっとこれからの進め方みたいな部分については一晩考えてみるよ。沢井さんの言う通り、全部僕が請け負うにも限界があるしね。まずは分担出来るところを明確にしようと思う。」
「はい!私もそれが良いと思います。…………最悪、『
「……それはなぁ。最終手段にしたいなぁ。」
「うっわ。露骨に嫌そうな顔。でも、そのリアクションも久しぶりに見た気がします。」
荷物を片付けて終え、二人分のお会計を店員さんが対応している中、沢井さんの口から出たある人物を思い起こさせる単語を聞いて、思わず言葉尻に気持ちが出ていたようだ。
店を出ると太陽は完全に落ちていた。今は9月中旬。まだ残暑特有の蒸し暑さは残っているけど、少しずつ日が落ちるスピードも速くなってくる。
「先輩っ!!ちゃんと駅まで送ってくださいね。」
「はいはい……というか駅まではいつも一緒でしょうが。」
僕も沢井さんも板東駅を通学に利用している。こうして『野球ノート』について二人で一緒に作業するときは基本的に二人揃って帰ることが多い。……陽も落ちて女の子一人帰らせるのも気が引けるし。
「それにしてもバッテリーって不思議ですよね。」
「いきなりどうしたの?」
「いや、さっきの続きになりますけど、先輩、あの『元相棒』と無茶苦茶性格合わないじゃないですか。……でも、こと野球に関しては
「別に嫌いじゃないんだけどね。……何というか苦手ってだけで。」
「それ、嫌いとどう違うんです?」
そう言われると言葉に詰まる。何というか彼の自由奔放というか頑固というかそういう部分が僕と合わないのだと思う。……これは絶対に口に出せないけど、そういう意味で言えば性格は沢井さんに近い感じもする。ただし1ミリの可愛さも愛嬌もなく、超ふてぶてしいという注釈が付くけど。
ただし、沢井さんの言う通り不思議なことに野球に関する一点においてのみ呼吸が合う。それも面白いくらいに。
「……ま、二人の相性が悪いのは当人含めて部員全員知ってますけどね。」
沢井さんと一緒に帰るときはいつもこんな感じでだらだらと話すことが多かった。この感覚も半月ぶりくらいなのに久しぶりな感じがする。気が付けば改札を通り抜けていた。沢井さんは上り方面の電車、僕は下り方面の電車なのでここで別れることになる。
「まぁ、先輩が声かけなくても紅白戦やってれば向こうから勝手に顔出しますよ。自由人なので。」
別れ際、沢井さんは挨拶代わりの一言を残し去って行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――翌日
僕は授業が終わるとすぐに区立板東二中へと赴いていた。昨日沢井さんとの話で出ていた通り、今後紅白戦を行うにあたって、顧問の宮代先生に許可を得ることがその目的だった。
「時間は……うん、ちょうどくらいか。」
事前に沢井さん経由で久遠さんに区立板東二中校門前に伺う旨、アポイントメントを取っていた。
……というか毎回沢井さん経由で連絡取ってもらうのも手間だし、僕も久遠さんに連絡先聞いておいた方が連携は楽だな。後で聞いておこう。
「あ、扇さん!!」
そんなことを考えている最中、澄んだ声が僕を呼んだ。
「す、すみません。待たせちゃいましたか?今、ちょうど授業が終わったところで、気づいたら時間になってて……。」
「いや、今来たところだから大丈夫だよ。」
振り返ると久遠さんがユニフォーム姿で息を切らせていた。
「扇さん、ようこそ。板東二中へ!!……って私が言うのもおかしな話ですけど。」
久遠さんはそう言うと少し照れたように頬を掻く。
「あ、そうだ。宮代先生にお話があるんですよね?」
「うん。今後の活動についてお伝えしておこうと思って。」
「……あの、い、色々ありがとうございます。」
そう言うと久遠さんは丁寧にお辞儀をしながらお礼の言葉を口にしてくれた。
「何言ってるの、まだまだ始まったばかりだよ。それは勝ってから言ってもらわないと。」
彼女たちが目指すゴールは届くかどうかも分からない。確実に辿り着く方法すら存在しない。そんな場所。僕が彼女に頼まれたことはそんな場所へ連れて行くこと。だからまだお礼を言われるようなことは何もしていない。そう。まだ始まったばかりなんだ。
「そうですよね。えへへ、扇さんにそう言ってもらえると本当に勝てる気がするので不思議ですね。……扇さん、その、折り入ってご相談があるんですけど、今日のどこかのタイミングでお時間取れますか?」
「それは全然構わないけど……。」
「じゃあ、宮代先生お呼びしてきますね!」
言うや否や久遠さんは校舎へ駆けて行った。けど相談ごとって何だろうか?
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――――宮代先生への説明は滞りなく終わった。ネックとなりそうだった校外での活動、つまり紅白戦についても宮代先生が可能な限り引率をすること。都立板東高校側の許可も取ること。トラブルがあった際の緊急連絡等をしっかりすることを条件にOKをもらえた。
「いや~それにしても連日試合が出来る日が来るなんてねぇ。これも扇コーチ様々?」
「もう、れな……私は昨日みたいにならないかちょっと不安だけどな。」
中学生組を引率して都立板東高校へ向かう道中、新山さんが嬉しそうに口にすると漆原さんが不安に思う気持ちを吐き出した。
「き、今日は頑張って抑えるから!」
「あー。やる気満々なところごめん。久遠さんは今日投げさせないから。」
「え”っ!?」
いつも落ち着いた口調で大人しい感じの性格の久遠さんから聞いたことが無いような音が漏れた。それにこっちを向いてフリーズしてるし。
でもこれは昨日試合をすると決めた時点での既定事項だった。久遠さんの昨日の試合での球数は83球。試合自体は3回コールドで、後攻めの都立板東高に対しては2回までしか投げていない。とは言え、一般的な先発投手の交代目安である100球を鑑みてもそれに近い球数を費やしている。疲労や肩肘への負荷は馬鹿に出来ない。それ故の対応。
「あ、あと上原君も今日マスク被るの禁止ね。」
「お、俺もですか?」
「でも扇さん、うちのチーム他に
「まぁ、それについては学校着いてから説明するよ。」
今、このチームにとって一番怖いことは怪我人が出ること。野球に限らずスポーツに怪我は付き物とは言え、未然に防止出来る怪我はある。それは疲労の蓄積から来るものであったり、軽微な怪我を悪化させないものであったりだ。
それに昨日の試合は実戦的な力を見極めること。だから今日からはその実践的な力を伸ばす方向に注力したい。そのための作戦を昨日一晩考えた。
「お~い、夏波~帰っておいで~。」
「……。」
「で、でも扇さんっ!わ、私、相談したいことっていうのが……。」
「ふはははぁ!!待ってたぞ相棒!!紅白戦なんて楽しそうなことやるのに何故俺に声を掛けなかった!!」
投球禁止を通達されたショックから復帰して慌てたように何かを伝えようとした矢先、やけに「イラァッ」とする高笑いが久遠さんの言葉を遮った。
「だ、誰……?」
基本的に明るく、テンションが高い新山さんですら若干引いている。他の中学生組は言わずもがなだった。そんな中学生たちの様子など気にも留めずに都立板東高校の校門前で仁王立ちする無駄にデカい男。
「はぁ…………。沢井さん、ほんと良くお分かりで。…………久しぶり、
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