第一章 十三話 汗にまみれて

「――さぁ、来い!!!!」


 午前中と打って変わって、僕は今グラウンドに立っていた。左手にはバット、右手にはボールを持っている。ちょうど中堅手センターから新山さんがその持ち前の明るく、遠くまで響くような音量で打球を呼んでいるところだ。


 マウンドに立つ久遠さんが投手板ピッチャーズプレートに両足を揃え、捕手キャッチャーに正対する。胸の前で両の手を構え、静止する。一拍間をおいて、左足を後方に引くと同時にその両腕を帽子のつばよりやや上の辺りまでゆっくり振りかぶり投球動作を開始する。


 左足を振り上げ、軸足一本でマウンドに立つその姿、その動きは流麗にすら見える。振り上げた足を捕手キャッチャーに向かって踏み出し、鞭のようにしなやかに右腕が振り下ろされ、放たれた投球が真っすぐ引かれた白線を描く。


 描かれた白線は上原君が右打者の内角に構えるこげ茶色のミットに吸い込まれ、空砲のような乾いた音が響く。


 僕はその捕球を確認したところで右手でボールを軽く上にトスし、すぐさま肩口に構えるバットに右手を添え、鋭いスイングを行う。甲高い金属音と共に打ち出された白球がグングンと高度を上げ、空色に溶け込む。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


 午後の練習は守備練習でシートノックからスタート。


 シートノックというのは選手が実際に各守備位置に着いた状態でノックを受ける練習方法で、この練習方法では守備位置に着くことでより実践的な練習をすることが出来る。単純に打球の捕球を練習するだけではなく、ノック時に各塁に走者ランナーを置いたり、アウトカウント等の状況を設定することによって、守備側の状況に応じた対応を練習したりもする。

 ……まぁこのチームの場合は圧倒的な人不足で、そもそも左翼手レフト右翼手ライトが居なかったり、部員全員が守備に着いているので走者ランナー役をする人間が居ないと言った課題はあるけれど。


「扇さん、申し訳ないのですが、ノッカーお願いしてもよろしいですか?……というのもいつもは私がノックしているんですが、お世辞にも上手いとは言えなくて……。」


 そう口にするのは苦笑いを浮かべる宮代先生。

 傍から見ると野球のノックは投手による速いボールや鋭く曲がる変化球を打つのではなく、ノッカー自身が軽くトスするボールを打つ為、簡単そうに見えるかもしれない。

 けれど、実際にやってみるとこれが中々に難しい。野球経験者であれば、ある程度の方向に打ち分けること位は出来るが、打球の勢いの強弱、回転、ライナーやフライと言った質を操ることは経験者でも難しい。ましてや未経験の人であればなおさらで、むしろ良く今まで一人でやれていたと思う。


「わかりました。やらせてもらいます。」


 かく言う僕自身も高校に入学したての頃はノックを受ける側の人間だったので、全然出来ない……それも空振りもしょっちゅうするくらい下手くそだった。

 でも都立板東高校もどちらかというと指導者が足りず、僕がその一端を担っていたこともあり、いつの間にかノックの腕が上達し、ある程度ならこなせるようになっていた。ちなみにマネージャーの沢井さんもノックが出来る。彼女のドSサディスティックノックは一部の部員に好評だった。


「あ、扇さん、うちのシートノックってちょっと変わってまして、私の投球練習も兼ねてます。なのでお手数ですが、投球後に打ってもらっても良いですか?」


「了解!!」


 宮代先生からバットを受け取り、打撃用手袋バッティンググローブを装着しているところにマウンドに居る久遠さんから声が掛かる。


 一般的にシートノックで投手が投げることは少ない。大体が投げる真似を行い、投球したで投手としての守備をメインに行う。

 シートノックよりもより実践的な練習として、実際に投手のボールを打者が打ち、それを各守備位置についた選手が処理する――シート打撃という練習方法もあるが、これを行うにはある程度の選手数が揃っていないと出来ない。故に工夫してシートノック内で投球練習を兼ねる練習法になったのだろう。


「ちなみにノックの順番っていつもどんな感じかな?」


「基本的に外野、内野の順番です。内野は三塁手サードから右に順番で、最後に捕手キャッチャーって感じです。」


 捕手用の防具一式を身に着けた上原君に尋ねると捕手特有のマスク越しにくぐもった声で返事がある。


「OK!!じゃあ、始めようか!!」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


「――次、二塁手セカンドお願いします!!」


 ――……熱い。さっきから頬を伝う汗が止まらない。なんだったら風を切って動いている方が涼しいとすら思う。動きを止めた途端、身体を覆う熱が皮膚の周りに留まる感覚。


 前日に見た天気予報では、今日は日差しはあるけど風もあって絶好の運動日和って言っていたはず。元バレーボール部の私は自慢じゃないけれど、暑さには多少の耐性があると思っていた。熱の籠りやすい体育館で約一年間だけだけど練習に耐えてきたという自信があった。今日までは。


「――っつ!!また微妙なところにっ!!」


 この暑さの原因は今、二遊間を抜けそうな絶妙に緩い打球を打った人にある。扇 賢吾おうぎ けんご――今日から板東二中の野球部コーチを任された、夏波が連れて来たうちの部活の切り札。その彼による打球に必死に追いすがる私。野球は未経験だったけれど、中学一年の冬から入部し、経験者と呼べるくらいには上達したと思う。そんな私がギリギリ捌けるくらいの打球、それが先程から続いている。


「っし!!一塁手ファースト!!」


 二塁ベース手前で逆シングルバックハンドでギリギリ捕球し、二塁側に流れる身体を何とか右足で踏ん張り一塁手ファーストの岩貞君に送球。やや高めに送球が浮いたけど悪送球にはならなかった。


「ナイスキャッチえり!!」


 マウンドから夏波がこちらをグローブで指しながらフォローしてくれている。

 ノックを始めて二時間弱、守備位置に着いているメンバー全員が肩で息をするようになっていた。うちの部活は部員が少ないから一人当たりの練習の回転率が速い。打撃練習も守備練習もすぐに自分の番が回ってくる。けれど、それを差し引いたとしてもここまでバテるのが早いのは初めてだと思う。


 いつものノックと違うのは打球の質だと思う。扇コーチのノックは打球速度は速くない。むしろ宮代先生の方が速いくらいだ。一方で速くない分、打球の質のバリエーションが多いと思う。時にはバックスピンで打球の勢いを殺し、時には滞空時間の短いポップフライ、一度として同じような打球が来ない。

 何よりキツいのが二塁手わたし一塁手ファースト遊撃手ショート投手ピッチャーの間に飛んでくる打球が多いことだ。打球が早くないからどちらのポジションが捕球するとしてもどちらの守備位置の選手も動くことになる。


 夏波の投球練習も兼ねているから一球一球、間はしっかり取ってくれる。それに休憩だって三十分おきに十分な時間を取っている。その間に息を整えても動く範囲、回数が普段と桁違いに多いから結果的にバテることになっているのだろう。

 そんなことを酸素不足で回っていない頭で考えていると「ラストォー!!」という声掛けがマスクを被る上原君から発せられた。

 ラストは捕飛キャッチャーフフライ。宮代先生はこれが苦手で、いつも上手く打てるまで十球以上失敗する。


 扇コーチはそれまでと何ら変わらずボールを手に取り、ふわりとトスするとまるで逆袈裟切りのようにバットを下から上へ振り上げる。金属に何かを擦った様な音と共に打球が真上に上る。

 打球の行方に視線を向けるといつの間にか日が少し傾き始めていた。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「ありがとうございました!!」


 シートノック後、ダウンストレッチをそれぞれ行い。グラウンド整備等の片づけを終えると日は完全に傾き、雲が鮮やかなオレンジ色に塗りつぶされ、ゆっくり流れていた。


 今日丸一日練習に付き合っていただいた宮代先生、扇さんに対して部員全員で整列してお礼を言い、明日の練習予定を確認して今日の練習は解散となった。明日は月曜日、扇さんも学校が終わり次第、練習に合流してくれる事となった。


「――……つっっっっっかれたねぇ……。」


 私の隣を歩くれながボソッと呟く。

 土手沿いをれな、私、えり、の三人で並んで歩く。河川敷での練習帰りはいつもこのメンバーで帰っている。普段は他愛もない話で盛り上がるけれど、それも今日は無く、心なしか皆の歩みも重い。


「やってることはいつもと変わらないはずなんだけどね……」


 ユニフォームが土埃で茶色と白色のマーブル模様になっているえりがそう返す。

 そう。いつもと練習メニューも練習時間も変わらなかった。ただ変わったことがあるとすれば、打撃練習時の扇さんのアドバイスが有った事と守備練習時のノッカーが扇さんだった事。


「いやぁ……いつもと違う筋肉使ったから全身が痛いよ~。」


 れなが左足の太ももをさする。扇さんのアドバイスで打撃練習でいつもより軸足を使ったみたいだ。同じようにえりも臀部をさすっている。いつもより守備練習での運動量が激しかったからだろう。かく言う私も全身が痛い。明日の筋肉痛は覚悟しておく必要がありそうだ。


「……でも皆良い感じだった。」


 私が独り言のようにそう呟くと二人とも黙って頷いてくれる。

 いつも練習をしなかったわけではないけれど、気づかないうちにどこか作業的に、単純に行うようになっていたのだろう。そんな空気が今日変わった気がした。今日は普段通りの練習を観るだけ――なんて言って本当に自分からは口を出さず、手を出す雰囲気はなかったけれど、彼にお願いして良かった。今日一日だけでそう思えるようになっていた。


「じゃあ、明日からもっと気合を入れていかないとね!!」


「「うん!!」」


 ――練習試合まで残り約一か月。

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