第一章 九話 始動
ファミレスでの作戦会議の翌日、僕は河川敷沿いに広大な面積を有する野球場に来ていた。時刻は十時を少し回ったくらいで、ジリジリと日差しが照り付け肌を焼く。ただ今日は少し風が吹いている為、体感温度的には運動をするのに丁度良い気候だ。そして僕の目の前には総勢七名のユニフォーム姿の男女が並んでいる。僕を取り巻く雰囲気は初対面の人間を前にした時の緊張感が七割、期待を含むような好奇心が三割程だろうか。
試合で感じるものとは別種の緊張感を覚え、軽く目を閉じ、努めて深く息を吸う。思い浮かべるのは昨日のファミレスでの彼女の言葉、表情。目を開け視界の端に彼女の姿を捉える。覚悟を決めて皆に聞こえるよう声を張る。
「こんにちは!」
するとタイミングを示し合わせたように目の前の七名から同じように返事がある。
「……先ほど野球部顧問の
そう言い終えると七名がそれぞれパチパチと拍手で迎えてくれる。七名だけあって心なしか拍手のボリュームは小さい。
拍手が落ち着いたところで宮代先生が後を継いで話始める。
「はい。ということでしばらくの間、扇さんには練習に帯同してもらうことになったのでしっかり言うことを聞いて、少しでも有意義な時間を持てるように――。」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おはようございます!」
河川敷の沿って設置されている河川堤防の上の遊歩道を歩いていると後ろからそう声を掛けられた。振り向かずとも声の主は判別できた。久遠さんだ。
「おはよう久遠さん。今日はよろしくね。」
久遠さんが先を行く僕に並ぶ為、少し歩みを早めるのを横目に見ながら挨拶を返す。今日の久遠さんはユニフォーム姿だ。これまで制服しか見てこなかっただけに見慣れない感じだ。帽子のつばやアンダーソックス、上着の肩口の英字ロゴ『Bando』の文字が紺色だ。恐らくチームカラーが紺色なのだろう。普段ユニフォーム姿で接する人間が男子しかいなかったので、女性特有の身体の線が出る姿が少し色っぽい。
「はい!!こちらこそよろしくお願いします。あ、後さっき顧問から電話受けて、『あと十分くらいでグラウンドまで着けそう』とのことでした。」
「了解。色々ありがとうね。」
久遠さんと初めて出会い、野球の指導を頼まれた日に僕から久遠さんへお願いしていた『顧問への事情の説明』の件。昨日ファミレスに合流する前、午前中の練習の際に久遠さんの方から顧問の宮代先生に話の頭出しをしてくれた。前々から野球経験者の技術的な指導ができないことを宮代先生自身が悩んでくださっていたようで、可能であれば是非お願いしたいこと、その為に一度お会いして直接ご依頼したいことを久遠さん経由で連携を受けた。丁度今日が河川敷のグラウンドを借りての練習日であったため、練習前にお会いする運びとなっていた。
「ええと……A面、A面……あ、すぐ近くですね。」
堤防に設置されている階段を降り、河川敷の地図を確認する。この河川敷は野球用のグラウンドが複数面ある上にサッカーグラウンド、テニスコートまで完備している複合運動場になっている為、かなり敷地面積が広いが階段からさほど遠くない場所に今日予約しているグラウンドがあるみたいだ。
「あ、あれって宮代先生かな?」
A面に向かって歩いていると遠目にジャージ姿の男性がベンチに荷物を降ろしているのが見えた。三十代後半くらいだろうか。眼鏡で身体の線が細い感じだ。
「そうです。先生の方が早かったみたいですね。」
ベンチの方に向かう途中で先生もこちらに気づいたようだ。ペコリとお互いに会釈する。
「先生、お待たせしてすみません。」
「あぁ、私も今来たところだから気にしないで。……それで久遠さん、こちらの方が?」
先生がこちらをちらっと一瞥し、久遠さんに確認する。
「はい、そうです。えぇ……と。こちらが今回私が指導をお願いして引き受けてくださった。
「は、初めまして。扇 賢吾と申します。都立板東高校野球部三年です。」
久遠さんが不慣れな感じで紹介してくれた。成行きとはいえ、僕もあまり自分の学校の先生以外の先生に自己紹介をする機会はなかったので挨拶がぎこちなくなってしまった。
「これはご丁寧にすみません。私は区立板東第二中学校野球部顧問の
先生はそう言うと一礼すると笑いかけてくれた。僕のような若造に対しても、とても丁寧な挨拶をしてくれるところや緊張する僕を見てそれを解す為なのか、優しく笑いかけてくれるところを見ると紳士で真面目で優しい先生のようだ。
「ちょっと先生は扇さんと話すことがあるから、久遠さんは練習の準備をしておいてください。もうじき皆集まるでしょう。」
わかりましたと返事をするなり、久遠さんは河川敷の管理倉庫に向かった。管理倉庫には各種ベースやラインカー、メジャー、グラウンド整備用の『トンボ』(グラウンド上の土を均す為の道具)が保管されている。
「……最初はグラウンドを整えるだけで一苦労でした。部員には初心者も居たので皆でスマホを使いながらライン引きやベースの設置をしていたんですよ……。それこそ一番最初の頃は準備に一時間近く掛かったものです。」
野球はグラウンド寸法――つまり投球間、塁間距離やバッターボックスの大きさ等が明確に定められている。宮代先生は思い出すように、懐かしむように語り始めた。それを語る先生の横顔を伺うと思い出し笑いをしているのか、少し肩が小刻みに揺れている。
「何せ私自身、学生時代は文化部出身で野球のやの字すら知らなかったくらいです。板東二中の教師陣には野球経験者がいなくて、久遠さんに顧問を頼まれた時も最初はあまり乗り気ではありませんでした。……けれどあの子、久遠さんがあまりに熱心で、私が折れる形で顧問を引き受けました。実は僕も部活に勧誘された口なんですよ。」
やはりというか何というか。久遠さんの野球に掛ける熱量は最初からそうだったみたいだ。
「顧問を引き受けてから野球について色々調べました。少しでもあの子たちの力になれたら……と。おかげでルールはある程度分かるようになったのですが、如何せんやったことがないので技術の指導ができない。生徒たちは自分たちで調べられる範囲、できる範囲で精一杯練習していました。……あの姿を見ると一教育者としては頑張った分、報われて欲しい。心からそう思っています。」
先生はこちらに向き直り、真っすぐ目を見て言う。
「扇さん。私は試合の勝敗は勝っても負けてもどちらでも良いと思っています。それよりも頑張った生徒が納得する形で最後の試合を終えてほしいと思うのです。……どうか生徒たちが望むように野球を教えていただけないでしょうか。」
「……先生……。」
生徒たちの望む決着――。その言葉を耳にしたときに思い出したのは古びたバッティングセンターとファミレスで見たあの子の目だった。勝負事である以上、何かしらの決着は着く。野球には引き分けという結果もあり得るけれど、基本的に学生野球では勝ち負けをハッキリさせた決着が着くことがほとんどだ。負けることも経験だ。負けたけれど良い勝負だった。確かにそうなのだろう。負けた当人たちも五年後、十年後には良い経験だったと思うのかもしれない。……でも『今』その一つの結果の為に少なくない時間を費やしている人にとっては、この『今』が全てだ。少なくとも僕は『あの負け』を十年後に良い経験だっと言える自信がない。熟々と膿んで、痛み、後に残るのは醜い傷だけ。だからこそ僕は彼女を助けるのかもしれない。同じ轍を踏ませたくないから。
これだけ生徒のことを考えてくれる先生にも良い思いをして欲しい。野球の面白さを知って欲しい。その為には勝って皆の喜ぶ顔を見せるのが一番だろう。
「……もちろんです。勝ちに行きます。」
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