第一章 四話 薄い青あざ

 カポーン。風呂桶の音が浴室に反響した。


 ボディスポンジで細かめの粒となった泡をゆっくり丁寧に身体全体に伸ばしていく。スポーツ柄、細かい傷は絶えないからか、お母さんには髪の毛と肌のケアだけはしっかりするように教えられた。首元から胸、お腹と丁寧にスポンジをなぞる。


「何かまた大きくなったかな……。」


 どことは言わないけれど同級生より若干発育の良いそこを見下ろしながらつぶやく。運動をする上では邪魔になるけれど思春期の女子としてはないと少し悲しい。上半身を泡だらけにしながら脚先へスポンジを伸ばす。特に左脚の一部は気を付けてなでるように洗う。泡の隙間から見える素肌は少し青みがかっている。それでもあの人のおかげで最小限の傷で済んだ。数日後には痕も残らないだろう。


 劇的な一日だった。少なくとも私にとっては。


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 今日は金曜日。部活の無いこの曜日はいつもすぐ帰宅する。早く帰って取り溜めている野球中継の録画を消化したい。思春期の女の子としては少し残念な習慣が私にはあった。いつものように授業が終わるとそそくさと荷物をまとめ学校を出る。今の時間に駅に向かえばちょうど下りの電車に間に合うだろう。


 電車に乗り込むと車両には乗客が数人居るだけだった。平日の十五時から十六時にかけての電車はいつもこんな感じだ。


「あと一か月かぁ。」


 客が少ないことをいいことにため息にも似たそんなつぶやきが零れた。


 昨年の秋口に私は顧問とチームメイトの推薦によってキャプテンとなった。皆からは真面目で責任感があり、野球経験者という理由で抜擢されたけど、正直荷が重かった。野球は大好きだけれど、人見知りで引っ込み思案な私はどう考えても皆を引っ張っていくタイプではない。


 このチームの大きな課題は二つあった。


 部員の不足と指導者の不在だ。部員の不在は何とか勧誘して今年の春に部員七名となった。それでも試合をするには二人足りない。指導者の不在は野球経験のある部員が未経験者に対してフォローする形を取った。しかし、客観的に技術的な部分の指導をするとなると限界があった。顧問の宮代みやしろ先生も頑張って勉強して所々フォローしてくれた。部員皆のフォローもあり何とかやれている状態。人数は少ないけれど、その分まとまりはあった。私や経験者組の技術的な成長はあまり実感できなかったけれど、未経験者だったメンバーが上達するのを見ると嬉しくなった。


 大会にも出場した。不足しているメンバーは運動系の部活から助っ人を借りて補った。結果は大敗。このチームは一度も勝てないまま最後の大会が終わった。


 今までの努力を結果にして残したい。いつの間にか、それがチームの総意となった。特に未経験者のメンバーはその思いが強かった。最後の練習試合の相手は頼み込んで弟の所属するシニアに決まった。双子の弟とは同じ学校でうちの学校の野球部の状況も何となく知っている。


「多分姉ちゃんボロ負けするぜ?」


 あきれ顔で弟にはそう言われたけれど、最後は私たちの気持ちを汲んでくれた。その試合まで約一か月。時間はない。相手も強い。しかし、今まで通り練習を積み重ねるしか方法は無いと思う。


 そんなことをぼーっと反対側の窓を眺めながら考えていると電車が徐々に減速を始める。確か次の駅は板東ばんとう駅だ。ゆっくり移ろう風景に緑色のネットが入り込む。中学に入学してすぐの頃、あれはゴルフ場だと思っていた。いつだったか、薄汚れた『マルゴバッティングセンター』の看板を見つけ、その施設がバッティングセンターなのだと知った。


 バッティングセンターは良く行くほうだと思う。特に自宅の近所にある施設は選べる球速の幅に加え、変化球も打つことができる。また、投手用のブルペンも併設されている為、弟と都合が合えば投球練習もできる。しかし今日に限っては、何故か通学の電車の車窓から見えるあそこへ行きたくなった。普段は途中下車することのない駅。土地勘はないけれど、電車から見た方角を頼りに少し歩くとあの看板を発見することができた。


 近づいても打球音が全くしない。途中下車までしたのだから定休日だけは勘弁して欲しい。入口の引き戸に営業中の札が掲げられている。良かった。建付けの悪い引き戸と格闘して中に入る。右手には管理人室。七十歳くらいのおじいさんがテレビを見ていた。


「あ、あのぅ。やってますよね。」


 何も言わずに通り過ぎるのも気が引けるので声を掛けると簡単な挨拶と利用システムを説明された。改めて店内を見渡すとバッティングをする為だけのシンプルな作りになっている。所々傷や汚れが目立つけれど、それがむしろ味のある雰囲気を醸し出しているように思った。外で音が聞こえなかったので思った通りだったけれど、客は誰も居なかった。


 球速は110km/hを選んだ。130km/hだと私には少し速すぎる。ケージの中に入ってから気づいたけれど、衝動的にここへ来てしまったから学校指定の制服——半袖のワイシャツとチェックのスカートのままだった。少しはしたないけれど、スイングだけだし、今は他にお客さんも居ないから良いだろう。


 投入口に200円を入れると赤いランプが点灯した。一球目。コツンという弱弱しい音とともに一塁線にボールが転がる。


 昔からバントは得意だった。女子で力の弱い私が、男女混合チームの中で少しでも役に立つ為に必要な技術だった。一応バッティングも単打なら打つことができる。しかし、長打を狙い力強いスイングを行うとボールに中々当たらない。


 数球のバントの後、そんな自分の非力さを呪うように思いきりスイングする。

 当たらない。そのことに余計に苛立ち更に強くスイングする。悪循環な気がしたが、今の試合に勝てない悔しい気持ち、自分の技術的な不甲斐なさを少しでも解消したかった。


 二セット目。さっきと同じように空振りを続ける。何個アウトを重ねただろうか。そんな自分に自嘲気味に笑ってしまう。


 そんな時だった。振った瞬間、かすかな感触が両手に伝わる。


(当たった!!)


 気が付いたら私は打席で脚を抱えていた。自打球だった。情けなさと痛みで自然と目尻に涙が溜まってくる。


 そんな矢先のあまりにも格好の悪いタイミングでの出会いだった。


「あのー大丈夫ですか?」


 振り返るとあの人が苦笑いしながら手を差し伸べてくれていた。


 そんなことを思い返すと恥ずかしさで体温が数度上がった気がする。ただでさえ暑い夏、そして浴室。きっと顔は真っ赤になっているだろう。少しでも火照りを覚ます為に設定温度低めのシャワーを頭から被る。身体に付いていた泡が排水溝へゆっくりと流されていく。シャワーのおかげで少しすっきりした。


 明日も練習がある。協力してくれるあの人の為にも少しでも頑張ろう。そう決意してお風呂から上がった。

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