第一章 三話 『今後ともよろしくお願いします。』
彼女——
緊張が解れたのだろう。声を掛けてからずっと硬い表情をしていた彼女の表情が和らいだように感じる。歳が近いとはいえ、初対面の年上の男性と会話するのは勇気のいることだったろう。
しばらくそのままベンチで他愛のない話をした。
お互いの好きなプロ野球チームの話。
お互いの好きな応援歌の話。
学校や友達の話。
大体が野球に関係する話だった。少し話して気づいたことだけれど、彼女は表情がコロコロ変わる。
好きな応援歌の話題になると目がキラキラして前のめりで。好きな球団が不甲斐ない試合で負けた時の話題になると少しむくれていた。学校での受験勉強や進路の話になると難しそうな顔をしていた。気が付くとバッティングセンターへ差し込む日差しの色が深いオレンジ色に変わっていることに気づく。あまり意識していなかったが彼女は女子中学生だ。遅くなると親御さんが心配するだろう。
「——————それで弟がフライをヘディングしちゃって…。」
彼女が面白おかしそうに弟の珍プレーについて話す中、声を掛ける。
「久遠さん、時間大丈夫?」
「あ、もうこんな時間に。」
「あんまり遅くなるといけないから今日はこの辺にしておこうか。」
「はい……。」
名残惜しそうな表情を浮かべる彼女を見て、野球を教えると言ったにも関わらず、結局したことは実質キャッチボールのみ。時間がないと言っておきながらなんだか申し訳ない気持ちになる。
「で、今後どうしようか。」
今後というのは野球指導についてだ。
「無理なお願いをしておいて今更ですけど、本当にいいんですか?受験勉強だって……。」
「そこは気にしなくていいよ。どうしても勝ちたいんでしょ?」
コクン。彼女はおずおずとうなずいた。
期間は一か月だし今日も勉強する気が起きずここへ来た。あの負けを自分の中で整理するためにも少し時間を空けたいのが正直なところだ。
「そうなるといつ指導するって話か……。平日はお互い学校あるしなぁ。久遠さん、部活はいつ休みなの?」
「平日の休みは金曜だけです。平日の他の日は練習してますけど、二日はグラウンドが反面しか使えません。週末は土曜の午前中だけ学校が使えます。日曜は河川敷が使えればそこを借ります。借りられなければ休みです。」
「確実に練習できるのが五日で、それで今日が金曜日……と。」
公立学校の辛いところである。都内の学校では他の運動部との兼ね合いでグラウンドの使用に制限がかかることがある。僕の居た中学でもそんな感じだった。
「じゃあ、明日の午後に二人で作戦会議をしようか。時間は十五時。場所は駅前のファミレスで良いかなぁ。」
「作戦会議?」
「そ。いきなり変な男が野球教えます。って言っても誰も聞かないでしょう。」
いきなり学校に行って指導、というわけにはいかない。部外者が学校に訪問するのだって許可がいるだろうし、指導するなら顧問に事情を説明しなければならないだろう。それに闇雲に練習しても意味がない。チームの状態によってウィークポイントを補わなくててはいけない。
「そう……です…ね。」
僕に会って咄嗟にあのお願いをしたのだろう。その後必要なことが抜けていたことに今になって気づいた様子。
「とりあえず、久遠さんには二つ、いや三つか。頼みがあるんだけど良いかな。」
「もちろんです。なんでも言ってください。」
胸の前に両腕を持ってきて、張り切ったようなポーズを取りながら息巻いて言う。
「一つ目、これが一番大事。顧問の先生に細かい事情を説明して指導する許可が欲しい。必要だったら事前に面談とかも行くから。」
「わかりました。」
「二つ目、明日ファミレスで作戦会議するときに今までやった試合のスコアを持ってきてほしい」
「一応、あるにはあるんですが、部員がギリギリなので守備時の記録が……。」
スコアというのはその試合の経過を一球ごとに記録したものだ。基本的な書き方のルールはあるけれど、記録者によってはかなり細かい試合の状況が記録されていることもある。
本来はスコアラー(記録者)を立てて、丸々一試合分の記録を行うのだが、人員不足に悩まされている久遠さんのチームの場合、守備時に部員全員がプレーに参加することになる。そうなると守備時の記録は取れない。攻撃時には打順が遠いメンバーが記録していたのだろう。
「それで良いから持ってきて欲しい。」
記録の数が少なくても、大まかな試合運びの傾向と各打者の簡単な成績くらいはわかるだろう。今はどんな情報でも欲しい。
「それで最後のお願いなんだけど、久遠さんを含めたチーム皆の動画を取ってきて欲しいんだ。」
「……ど、動画ですか?」
「久遠さんは投手だからピッチング動画と打撃の動画かな。トスでもロングティでも良いから打っている様子がみたい。他のメンバーも同じように守備の動作と打撃の動作の動画をお願い。」
トスとは『トスバッティング』の略だ。同じようにロングティは『ロングティバッティング』
トスは打者が近距離(2~3m)から下手でボールを放ってもらい、正面に置いたバッティングネットに打ち込む、フォームやミートする感覚を養う練習法。
ロングティはトスで置いていたバッティングネットを取り払い、実際に打球を飛ばして飛距離や弾道を確認する練習法。チームによっては『トス』を『ティ』呼んだり、ローカルな呼び方があったりしてかなりややこしい。
「なるほど、用意してみます。」
これで頼みたいことは伝えられただろう。どっちみち明日また会うのだから今日はもう彼女を家に帰したほうがいいだろう。
「よし、暗くなると危ないし帰ろうか。駅まで送るよ。」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
バッティングセンターを出ると太陽は建物の間に沈もうとしていた。時折ひぐらしの鳴き声が聞こえてくる中、制服姿の男女が並んで歩いている。
「一つ聞いても良いですか。」
どうぞ。と促すと彼女は続ける。
「何で引き受けて下さったんですか。」
勝てる見込みの薄い勝負に何故乗っかったのかと問う。
「……正直に言うと最初は断るつもりだったんだよね。下手に希望を持った状態で負ける。それって、とてつもなく悔しいことだと思ったから。」
ゆっくり歩みを進めながら続ける。
「だけど何か引っ掛かるものがあった。だからキャッチボールで見極めたいと思った。でもまぁ何が引っ掛かったのか、何を見極めたかったのか。それは言葉にするのはちょっと難しいんだけどね。」
彼女もまた歩調を合わせながらトテトテと歩き続けている。
「でもキャッチボールした時の久遠さんの目、それとボール。そこが決め手だったかもしれない。」
「目とボール……。」
彼女はそうつぶやくと何か考えている風だった。自分でもとりとめのないことを言っている自覚はある。だけど正直な気持ちだ。そんなことを話していたら駅に着いた。彼女の乗る電車は僕と逆方面だそうだ。それじゃあ。と上り方面のホームに足を向けたところで。
「あ、あのありがとうございました。あと今後ともよろしくお願いします。」
彼女は勢いよく頭を下げながら右手を差し出す。
差し出された手は女の子らしい白くてか細かった。
「こちらこそよろしく。」
笑いかけながら手を握り返し、そう言うと彼女は顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
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