第一章 一話 始まりはキャッチボール

「あ、あの……私に野球を教えてくれませんか?」


 久遠さんの突然の問いかけに戸惑いを覚える。流石に事情が把握できていない状態で返事はできない。


「え、えーと。バッティングを教えて欲しいってことかな。」


 先ほど見た見事な空振りを思い出す。まぁあれだけ当たらなければ出会ったばかりの人間にでも頼りたくなるのだろう。


「ち、ちがいます。」


 違うらしい。即座に否定されてしまった。では何を教えて欲しいのだろう。女子中学生の考えていることがわからない。


「扇さんに教えて欲しいのは……全部。野球の全てです。」


「うん?」


  ……予想の斜め上を行く返答が来た。意味が呑み込めず思わず聞き返してしまった。


「で、ですから扇さんの考える野球の全てを教えていただけませんか。」


 言っている途中で我に返ったのだろう。言葉の後半になるに連れて声が小さくなっていった。少し会話をしてみて彼女の性格の一端が見えた気がする。基本的な性格は真面目で大人しい。ただ、夢中になると周りが見えなくなるのかもしれない。


 幼少期から野球に触れてきた。未経験者の人と比較すれば多少はできるほうだろう。しかし、当然のことながら野球の全ては知らない。知りたいとは思うけれど。知っていたらそれこそ『世界の安打製造機』になっている。それについ一か月ほど前に無力さを味わったばかりだ。指導者というのならしっかりとした知識と技術を持った者を探したほうが良い。とは言え、突然こんなことを頼むくらいだ。何か複雑な事情があるのだろう。それを聞かずに断るのも違うと思った。


「久遠さんは何で野球を教えて欲しいと思ったのかな。」


 ベンチに腰かけている彼女の隣に座る。


「話、聞いていただけるんですか。」


「まぁ唐突だとは思ったけど。事情くらいは聞くよ。ここで会ったのも何かの縁だしね。」


 苦笑いでそう言うと彼女は少し驚いた様子だった。話を聞いてもらえるとは思っていなかったのだろう。


「実は……。」


 彼女はゆっくり、だけどしっかりとした口調で話し始める。話す彼女は真剣な表情であった。五分くらいだろうか。彼女の話しを所々相槌を交え聞く。彼女の話がひと段落ついたタイミングを見計らい、一声掛けて自販機へ向かう。施設内とは言え、このバッティングセンターはベンチ付近に扇風機が設置してあるだけでエアコンがない。僕はさっきしたから良いけれど、彼女は打ち終わってから水分補給をしていない。こまめに補給しないとこの環境は危険だ。彼女の分だけ買うとかえって気を遣わせるだろう。二人分の緑茶を買う。


 ガタン。自販機の取り出し口に手を伸ばしながら彼女の話を反芻する。彼女の話は要約するとこんな具合だった。


 小学生の頃、近所の少年野球チームで男の子に交じり野球をしていた。双子の弟も野球をやっていることに加え、地域に女子単独の野球チームが無かった為、そのチームに加入したそうだ。


 ちなみに学童野球だと男の子に交じって女の子がプレーすることは珍しくない。僕の所属していた少年野球チームには居なかったけれど、同地区の他のチームに女の子を見かけたことはある。また近年、都内では女子単独の野球チームも増えてきている。


 小学校卒業後、地元公立中学に進学。元々シニアで野球を続けるつもりだったが、女の子ということで加入を断られた。弟はそのままシニアに入った。結局、中学校の野球部に入ることにしたが、久遠さんが所属してやっと部員が五名。当然、男女混成チーム。その上顧問の教師に野球の知識がなかった。その後自分たちで部員の勧誘と練習をこなした。今年の四月時点で部員が七名。他の部活から助っ人を呼んで大会に出場も大敗。一度も試合に勝ったことがないまま最後の大会を終えた。


 何とか一勝、その思いで最後の大会の後、練習試合の相手を探した。相手は中々見つからなかったそうだが、弟が所属しているシニアの野球チームと話がついたらしい。最後の練習試合が十月中旬にある。今がちょうど九月中旬なのでおおよそ一か月後だ。


 それが彼女の話の全部。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


 冷えたペットボトルを持って彼女の元へ戻る。


「はい、これ良かったら。」


「あ、ありがとうございます。いくらでしたか?」


 自分の通学鞄を開けて財布を取り出そうとする彼女を制しながら。


「僕が飲みたかっただけだから良いよ。」


「ありがとうございます。」


 ペットボトルのキャップを開けて緑茶をあおる。


「さっきの話だけど、率直な意見を言うと力になってあげられないと思う。」


 そう告げると彼女は少し俯きかすかに笑いながら。


「そう…ですよね。いきなりこんなこと言われても難しいですよね。ご迷惑おかけすることになりますし…。」


「ああ…違う違う。迷惑だから協力できないってことではないんだ。」


 むしろ僕が過ごした高校生活に少し境遇が似ている。手伝えることがあれば協力したいくらいだ。


「僕が力になれないと思った理由は二つ。一つは試合までの時間があまりないこと。もう一つは九人揃っていないこと。」


 細かいことを言えばもう少しあるけれど、大きな理由はその二つではないかと思う。


「一つ目の理由については部活組とシニア組、それぞれがどのくらい実力差があるのかわからないけれど三年間一つのことに打ち込めた者とそうでない者。その差がひと月で埋まると僕は思っていないんだ。」


 彼女に現実を突きつけたいわけではない。けれど、真剣な表情で事情を説明してくれた彼女に適当な理由で返事をするわけにはいかない。話を聞く彼女は真っすぐこちらを見据えている。スカートの端を握りしめながら。


「二つ目は少なくとも二人、未経験者がプレーに参加する。久遠さんも十分わかっていると思うけど、これが致命的だと思う。」


 野球は自チーム九名、相手チーム九名で行うスポーツ。攻撃は必ず全員行うことになるし、守備もポジションごとにそれぞれ役割がある。そしてその役割が少なくとも二人分機能しなくなる。その意味を彼女もきっと理解している。


 もちろん勝負ごとに必ずはない。けれど野球は実力差が勝敗にはっきり出るスポーツだ。高校野球でも強豪と呼ばれる私立校と弱小と呼ばれる公立校が試合をしてとんでもないスコアが付くことがある。122対0という記録もあるくらいだ。タイムアウト時間制限の無いスポーツ。それが野球の一番の怖さでもあり、魅力でもある。


「それでも扇さんなら。甲子園に行けた扇さんなら…。」


 藁にも縋る思いなのだろう。まるで子供がヒーローに頼み込むみたいに彼女は言う。僕が彼女に似た境遇を感じたように、甲子園予選から僕の高校を見て、僕の境遇の一端を知った彼女もまた僕に似た境遇を感じたのかもしれない。確かに都立板東は創部三年、部員十二名という異例の早さ、人数で予選を制することができた。しかしそれは入念な下準備の元に実現できたことだと思っている。後から振り返れば運にもたくさん恵まれた。


 部員が早期に集められた運。


 協力してくれる周りの人間に救われた運。


 予選で強豪が潰し合ってくれる運。


 そうした要素が絡み合って生まれた結果だ。実際、才能オバケばかりが集う甲子園では早々に負けてしまった。


「……。」


 三年間彼女が積み上げてきた努力を僕は知らない。それでも何とか勝たせてあげたいと話を聞いて感じた。勝たせてあげることは恐らくできない。それでも僕は彼女に何か伝えたい。そう思って出た言葉が…。


「久遠さん。今グローブ持ってる?」


「持ってますけど…。」


「キャッチボールしようか。」


 彼女は可愛らしい顔できょとんとしていた。

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