第9話 別れ
それから更に一ヶ月間、キャロルはマリーにみっちりと計算を教えた。足し算と引き算は、もうなんなく使いこなせる。
マリーの理解力が他の修道女よりも高かったので、彼女にだけは割り算と掛け算も教えた。まだ、計算を間違えることもあるがきちんと理解してくれた。これならきっと、外の世界に出ても学がないなど誰にも言われない。所詮女だからと蔑まれることもないはずだ。
マリーは、少しずつレベルを上げて計算を習得するごとに表情が変わっていった。常にオドオドしていて、上手くしゃべることもできなかったのに。できないと思っていたことが、できるようになる度に自信がついていた。
表情が暗く、いるかいないか分からない子だったのに、今では笑顔を見せることも多い。期せずして、人の変化を垣間見たキャロルは、自分も努力を重ねていけば変わっていけるはずだと確信する。
そんなマリーの成長を見てキャロルは、修道院長にここを出て行くと話をする時がきたことを悟る。昼休憩を少し早めに切り上げて修道院長室に向かった。扉の前で深呼吸をしてドアを叩く。
すると、中から修道院長の「はい」という声がした。
キャロルは、失礼しますと扉の前で断りをいれて室内に入る。
「キャロルです。少しお時間よろしいでしょうか?」
キャロルは、執務机に座る修道院長を見て言った。修道院長は、キャロルを見て一つ頷く。何かを感じ取っているのか、室内はピンと張り詰めた空気だった。
「修道院長、私、ここを出ていこうと思います」
キャロルは、胸の前で手を握りしめて熱の入った瞳で語った。決意を込めた瞳は、真っ直ぐに修道院長の瞳を捉えていた。修道院長は、キャロルの目を反らすことなくじっと見つめる。キャロルの決意の強さを見極めているように感じる。
「行く当てはあるのですか?」
修道院長が、厳しい態度のまま尋ねる。
「行くあては正直ありません。ですが私は、やらなければいけないことを思い出したのです。お金がないと何もできないので、まずはどこか住み込みで雇って貰える場所を探します」
キャロルは、今までになく真剣な表情だった。修道院長が、尚もキャロルの瞳をじっと見つめる。キャロルは、何を言われても絶対に引くつもりはなかったので目を反らさない。暫しの沈黙があった。
「わかりました。では、貴方が働けそうなところに紹介状を書きます。ここに来る子たちは、大体が貴方みたいに立ち直って外の世界に戻っていくものです……。だけど、貴方みたいに立ち直りが早い子は初めてですね」
修道院長が張り詰めていた空気をとき、今はもう穏やかな表情をしている。キャロルは、修道院長の言葉に驚く。働く場所は、街に下りて自分で見つけなければと思っていたから。
「紹介状を書いてくださるのですか? 私、精一杯働かせて頂きます。よろしくお願いします」
キャロルは、想定していなかった嬉しい出来事に興奮する。頭を深く下げて礼を言った。身上も明かしていなかった自分に、仕事の紹介状を書いて貰えると思っていなかったのだ。
「貴方なら大丈夫だと確信しています。傷一つない手をしていたのに……。どんな仕事だって嫌がらずにやっていましたね。折角綺麗だったのにそんなに荒れてしまって……」
修道院長は、キャロルの手を見て残念そうにしている。お腹の前で組んでいた手を、顔の前に持ってきてまじまじと見る。確かに、ここに来た時は貴族院令嬢を思わせる真っ白で綺麗な手だった。今は、水仕事などですっかり手が荒れてヒビが入ったりしている。
自分では全く気にしていなかったのに、修道院長は本当によく見ていた。
「行く当てのなかった私を、何も聞かずに受け入れてくれて本当に感謝しております。このご恩は、絶対に忘れません」
キャロルは、感謝の気持ちを込めてハッキリと強く言う。自分の中での決意表明みたいなものだった。
修道院長の言葉は、悪女のカロリーナではなくキャロルを認めてくれている。その気持ちが嬉しくてたまらない。この修道院に、迷惑をかけることだけはしてはいけないとこの時に誓う。
キャロルが修道院長に相談してから数日経った時だった。夜の自由時間に呼び出しがある。カロリーナは、紹介状の件だと思ったがこんなに早く見つけることができたのだろうか? と疑問だった。
もしかしたら、やっぱり身元もわからないような自分では難しかったのかもしれない。不安を抱えながら院長室のドアを叩いた。
中に入ると、修道院長が執務机で仕事をしていたようで手を止めてキャロルを見上げる。
「嬉しい報告です。紹介状を書く先が見つかりました。貴方は、凄く運がいいです」
修道院長がにっこりと笑いながら教えてくれた。さっきまで不安でここに来るのが怖かったのに、恐怖から解放されたキャロルの顔に笑顔が零れる。
「ありがとうございます。こんなに早く見つかるなんて思っていませんでした」
キャロルは、どんな仕事なのだろう? と少しワクワクしてくる。
見つかった職場は、老夫婦が営む食堂だった。修道院には、働き手としての募集が定期的に来る。その目的は様々だ。
修道女が、外で生活したくなった時の居場所を提供するボランティア感覚の者。また、ジンジャー修道院から紹介される女性が、みな働き者だと評判が高いので純粋に働き手を探している者。
今回は、年齢的に仕事がきつくなってしまった夫婦が、力仕事など負担の重い仕事をしてくれる人を探していた。食堂という仕事柄、男性よりも女性の方がいいだろうと修道院に相談にきたのだという。
丁度、キャロルの紹介先を探し始めた時だったのですぐに彼女のことを話した。接客業なので、顔に傷があるような娘は断られるかと思ったが夫婦は快く承諾してくれた。
働き者の娘なら、そんなこと関係ないと言ってくれてのだと修道院長は言っていた。修道院長は、一応キャロルに食堂の仕事で大丈夫なのかも確認をしてくれた。
キャロルは、自分が選べる立場ではないのはよくわかっているし断る理由なんてなかった。
「では、これがあなたの紹介状です。店の場所や仕事内容のメモも置いていってくれたから目を通して下さい。働き始める時期は、こちらの都合がいい日からで大丈夫だとおっしゃっていました」
修道院長が、紹介状とメモをキャロルに差し出した。キャロルは、二通の封筒を受け取ると頭を下げた。
「ありがとうございます。私、頑張って働きます。すぐにでも行きたい気持ちはあるのですが、いつからがいいでしょうか?」
キャロルは、逸る気持ちを抑えて修道院長の意見を聞く。
「全く、貴方は、思ったらすぐなのですね。計算の授業の方は、引継ぎは大丈夫ですか?」
修道院長は、心配そうに聞く。
「はい。マリーが優秀で、基本的なことはもう教えられるようになっています。この先もわからないことがあったら、私が手紙などでフォローするつもりでいます。だから大丈夫です」
キャロルは、誇らしげに答える。マリーの頑張りが、みなに認められ始めていて嬉しいのだ。
「そう。マリーが……。計算が、得意だなんてわからないものね。貴方が来るまでは、いつも覇気がなかったものだから心配だったのです。あの子が、人に教える立場になれるなんて本当に良かったです」
修道院長が、母親みたいに慈愛の笑みを溢す。きっとここにいる女性たちは、みな自分の子供のように思っているのだろうと伺える。
「では、今自分が使っている部屋の掃除をして下さい。次に入って来る子のために。明日一日使って掃除をして、明後日から食堂に行けばいいでしょう。こちらからそのように、連絡しておきます」
修道院長は、キャロルを見上げてそう言った。
「わかりました。では、頑張って掃除します。本当にありがとうございました」
キャロルは、改めてお辞儀をする。顔を上げたキャロルの前には、さっきと同じように優しい笑顔がそこにはあった。
その夜、マリーと二人で夜遅くまで語り合った。同じベッドに横になって、これからの未来を話す。
「私ね……。一生この修道院で、何も変わることなく希望を持つことなく終わるんだって思ってた……」
マリーが、ポツリと呟く。それが怖かったのだと顔を顰める。
「今は、どんな希望があるの?」
キャロルは、笑顔で聞いた。
「今までずっと、馬鹿にされて生きてきたから……。キャロルに、計算を教えてもらえて。自分でもできるってことが嬉しくて……。自分も誰かの役に立てるってわかったら、この修道院でもっと沢山の子たちに教えてあげたいし、いつかは外に出て生活してみたいって思えるようになったの」
マリーは、瞳に輝きを放っている。修道院以外で働く自分を想像しているみたいだ。
「マリーなら、絶対にできるわ。マリーのペースで、きっと実現させてね」
キャロルも、マリーが明るくなってくれて嬉しい。これからもずっと友達でいたい。
「全部、キャロルのおかげよ。絶対に手紙ちょうだいね。約束よ」
マリーが右手の小指を差し出す。キャロルも同じように小指を出して絡ませる。
「うん。絶対に約束。何があっても絶対に友達だからね」
マリーは、大きく首を降って同意する。
「もちろんよ!」
二人は、笑いあって最後の夜を忘れられない思い出にした。
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