第8話 目標を掲げる
ジンジャー修道院でキャロルは、一時の平穏を手に入れた。存外、修道院での生活が自分に合っていた。
修道院にいる女性は大抵訳ありだ。自分のことを話したくない人ばかりなので、他人のことも聞いてこない。だからキャロルが、巷で有名な侯爵令嬢で悪女だと気づく者は誰もいなかった。
そもそもジンジャー修道院に来た時は、髪はボサボサで短く切ったままだったし、片頬にはザックリした大きな傷があってみすぼらしい服装だった。
しかも、女性で顔に傷があると言うのはやはりショッキングで、初めて目にする人には憐憫の情を向けられた。かわいそうな女性として、皆から優しくされた。
修道院で暮らすキャロルは、これからどうするのかゆっくりと考えることができた。このまま、訳あり女性として王都の片隅で無難に生きていくことができる。
でも考えれば考える程、自分にはその生き方に耐えられそうにない。カロリーナとしての性が、怒りに震えているから。ララに負けたまま、何もしないなんて選択肢は取れそうにない。
それにディルクのことは、カロリーナと同じようにキャロルも絶対に許せない。自分が悪かったのは身に染みて感じている。だけど、何も殺さなくても良かった。
ディルクだって、自分が足りないことはわかっていた。その部分を、カロリーナに補わせていた部分もあったのだ。それを思えば、どちらか一方が悪いと言い切れない間柄だった。自分たちは、利用し合っていてお互い様だったのだ。
弱いディルクは、自分を甘やかしてくれるララに逃げたのだ。
自分の中のカロリーナが、国を背負って行く王としてそんな王太子を許せない。それにきっとララでは、王妃としての役割は担えない。
ララは、可愛さと男に取り入ることだけが武器でその他は一般的な子爵令嬢だった。だから、高位貴族に嫁入りするための教養が、身についているとは思えなかった。そんな女性が、国を背負っていくなんて無理なのだ。国を背負うと言うことは、簡単なことではない。他国と渡り合う度胸と、自国のことを知っている知識、政を行う能力、人の上に立つという絶対的なカリスマ性が必要だ。
それに、ジンジャー修道院で生活していく中で、考えるようになったことがある。国の小さな修道院でも、取りこぼすことなく十分な支援をするべきだ。
この国は、まだまだ女性の権利が低い。酷い扱いを受けた女性に、手を差し伸べられるのならその手伝いをしてみたかった。これはキャロルの想いだけれど、不安に潰されそうだった自分を修道院長に助けられた。そのお返しをしたいと思ったのだ。
自分だけの知識や教養だけでは無理だけれど、カロリーナだったらきっとできるという自信がある。
前世の記憶を取り戻し、熾烈な性格であったカロリーナの悪女としての人格は薄まった。本当に平凡だった前世の自分は、普通に他者を思いやる心も持っていたし、真っ当に生きていこうとする誠実さも持っていた。
だからやはり、カロリーナが感じる悔しいという思いの他に、このままあの王太子を王にさせるのはこの国の為にならないと強く感じる。
この国を支えていく力が自分にあるのならやってみたい。だけどそれは、カロリーナが思い描くこの国のトップの座を自分のものにして王妃として君臨するという目標とは違う。
あくまでもキャロルは、国民あってのこの国だと弁えている。君臨するというよりは、より良い国として栄えさせたい。
目標は違うが、なりたいものは同じだからそれで許して貰おう。今の自分にどこまでできるかわからないが、やってみようと拳を握った。
そう結論付けると、王太子妃を目指すなら修道院から出ていかなければならない。だけど、すぐに出ていく訳にはいかない。折角、計算を教え始めてみんなの理解が進んでいる。できれば、買い物する時に困らないくらいの計算力を身に着けさせたかった。
それに、せっかく誰でも計算ができるのだとわかって貰えるチャンスなのだ。最初の五人で、自分がいなくなっても修道院にいるみんなに広めて欲しい。ここで暮らすみんなにも、外の世界に戻っていった時に自信を持って生活して欲しいから。
キャロルは一生懸命授業をした。そしてある日の夜の自由時間だった。マリーが机に向かって復習をしていた手を止めて、キャロルに声をかけてきた。
「あの……キャロル……。 キャロルは、ここから出ていくんですか?」
マリーは、何だか残念そうな顔をしている。キャロルは、特にいつもと変わりない生活を送っていたつもりだったのに驚く。ここを出て行く素振りなんて見せていなかったはずだ。
「どうしてそう思うの? 私、マリーに何か言ったかしら?」
キャロルは、不思議に思ってマリーに問う。
「何となく……。キャロルは、いつも何かを考えている気がして……。そういう時って、真剣な顔をしているから……」
マリーは、意外にもキャロルをよく見ていた。貴族令嬢たるもの、素顔の顔は隠すものなのに分かりやすく態度に出ていただなんて不覚だ。
「そんなにわかりやすいかしら? 確かにこれからのことを考えてはいるのだけれど……」
キャロルは、何と答えていいのか困ってしまう。修道院に来てまだ三ヶ月ほどしか経っていない。そんな短い期間で出ていこうとしている自分は、何だか軽薄な気がしたから。
「キャロルってなんとなくオーラが違うというか……。初めて会った時も、髪はボサボサだし顔に傷があるし、平民でもなかなか着ないようなボロボロの服だったのに、只者じゃない雰囲気出ていたし……」
マリーは、この部屋で初めてキャロルを目にした時のことを思い出しているみたいだった。あの時のマリーは、今よりももっと内気でほとんど目が合うこともなかったのに……。
マリーなりに、キャロルを観察していたのだと驚く。割と、鋭いことをついている。
「え? そっ、そうだった?」
キャロルは、動揺が隠せない。
「うん。今も、すっかりこの修道院に馴染んではいるけど、でも圧倒的な存在感はある。だから、出ていくって言われても止められないから寂しいんだ……」
マリーは、とても寂しそうに表情を歪める。今にも、前髪に隠れた瞳から涙が零れそうな雰囲気だった。
キャロルの胸がギュッと締め付けらる。最初は、マリーと仲良くなれるのか心配だった。あまり言葉を話さないマリーが、こんなに自分の気持ちを言ってくれるようになったことが嬉しかった。
キャロルもマリーのことが大切だった。キャロルとして生きることを決めた自分を、初めて大切に思ってくれるマリーに心打たれる。
「マリー、そんな風に思ってくれて嬉しい。私ね、友達って言える人きっとマリーだけよ。ここを出ていっても、ずっと友達でいて欲しい」
キャロルは、こんなセリフを言うのに慣れていなくて顔が赤くなる。
「嬉しい。キャロル、ずっと友達でいてね」
マリーも、ちょっと恥ずかしそうにはにかんで笑ってくれる。だからキャロルは、やはり彼女しかいないと思った。だから思い切ってマリーにお願いをする。
「――あのね……マリー、お願いがあるの……」
キャロルが突然、お願いがあるなんて言うからマリーが戸惑っている。
「お願い? なんだろう……?」
キャロルは、思い切って言う。
「今、教えている計算を、私がこの修道院からいなくなっても教え続けて欲しいの。きっと、みんながここから出ていきたくなった時に、役に立つと思うから」
マリーを見ると、目を大きく見開いて驚いている。
「私なんかが、みんなに? 上手にしゃべられもしないのに……。無理だよ……」
キャロルは、自信満々に言う。
「大丈夫。マリーはできる。だって最初の頃は、全然しゃべられなかったのに今はこんなに会話できる。もし、分からないことがあったら手紙で教えられるようにもする。それに、マリーに自信がつくまでもう少しここにいるつもり」
キャロルは、マリーに笑顔を零す。きっとマリーなら大丈夫だと思うから。それにせっかくできた友達なのだ。ここを出ていったからって、もう会えないなんて寂しいことはしたくなかった。
「キャロルがそう言うなら……。最初は計算なんて自分に理解できるのか不安だったけど、私でもわかったから。みんなにも理解できるって教えてあげたい」
戸惑っていたマリーだったけれど、キャロルの言葉を聞いてやる気になってくれる。きっとマリーならやってくれると信じていた。
あとは自分が出ていくまでに、マリーの理解度とみんなに教える度胸を付けてあげなくちゃと気合いを入れた。
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