第7話 キャロルの授業

 それからの二週間は、修道院の生活に慣れるのに精一杯だった。修道院の朝はとても早い。日が昇る前に起きて、朝の祈りを捧げることで一日が始まる。

 朝早く起きることも新鮮だったし、毎朝決まった場所の掃除をすることが丁寧に毎日を暮らしているようで心が清々しかった。それに、この修道院の内部事情も大体把握した。


 ジンジャー修道院は、決して大きくて立派な施設ではない。王都の端にある、小さくて平民向けの施設だ。貴族の支援がないのか、施設の老朽化も激しいし食料なども豊富にある訳ではない。ギリギリの食材で、どちらかと言うと貧しい献立内容。それでもジンジャー修道院にいる女性たちは、みな笑顔で楽しそうに生活していた。


 貴族社会のように、ボス的存在がいるのかと思ったがそういった者もいなくて人間関係も良好そうに見える。ただマリーだけは、飛びぬけて孤立していた。

 誰かにいじめられていると言ったことではなく、人との壁を無意識に作っていて誰とも仲良くなろうとしていない。どうやらマリーも、この修道院に来て間もないみたいで周りも様子見をしているみたいだ。だから、孤立しているマリーに対して煩くいうような人もいない。平和に暮らせるように、お互い気をつけながら接している。

 ここで暮らす女性たちは辛い思いを経験しているから、人間不信のようになっているマリーの気持ちも分かるのだろう。


 そんな人間の集まりだから、身の上話をするのは暗黙の了解でタブー視されている。その状況を知って、キャロルはとても安堵した。自分の身の上を話す訳にはいかなかったし、嘘を重ねていくことへの罪悪感も少なからずあったから。

 だから段々と、この場所での生活がキャロルにとって居心地のいいものへと変化していった。


 そんな日々を送るキャロルは、自分の心が落ち着いてくるのを肌で感じていた。悪女のカロリーナの心も凪いでいる。

 だけど、ディルクのことだけはどうしても許すことができないようで、ちょっとでも彼のことを思い出すと苦しい程の怒りが胸を埋め尽くす。この思いだけは、何をやっても払拭できそうになかった。


 ある日、修道院長に呼ばれて彼女の執務室に招かれる。扉をノックして中に入ると、五人の修道女と修道院長が待っていた。

 五人の中には、マリーもいる。彼女たちを見て、計算を教えて欲しいと名乗り出てくれた人たちだろうと瞬時に察した。


「キャロル、こちらにどうぞ」


 修道院長がキャロルを見て、自分の横に来るように指し示す。キャロルは、言われた通り修道院長の隣に歩いて行った。


「キャロル、この五人が計算を教えて欲しいと集まった方たちです。まだみんな、どんなことを教わるのかよく分かっていません。この五人に教えることで、少しずつ広まってくれるといいです」


 修道院長が、五人の顔を見た。キャロルも、同じように五人へ視線を向ける。マリーが一番年上に見える。比較的、若い子たちが集まっていた。


「はい。簡単な計算だったらできるようになります。皆さん、頑張りましょう!」


 キャロルは、五人に笑顔を向けて宣言する。まずは、この五人に簡単な足し算と引き算を教えるのだとぎゅっと手を握りしめて力を入れた。


 それから、毎日午後の一時間がキャロルの授業に当てられた。どうやって教えたらいいのか修道院長に相談すると、文字を教えるのは文字盤と呼ばれる小さな黒板を使っているのだと聞く。文字を教わっている人は、十人ほどいるらしく一人一つはあるのだとか。授業をする部屋に置いてあるので、好きに使ってよいと許可をくれた。

 紙はとても高価な物なのでとても助かる。キャロルは、文字盤を使ってまずは数字から教えていった。


 みな数字は見慣れているからか、すぐに書けるようになる。学ぶ意欲も強く、真面目にキャロルの話を聞いていた。

 一桁の足し算は、一番の基本なので計算をするというよりは答えを覚えるくらい何度も何度も計算をさせた。二人一組にさせて問題を出し合う。その答えが合っているか、考えるのも勉強になる。

 キャロルは、できるだけ楽しんで貰えるように授業を進めた。難しいから自分には無理だと思って欲しくなかったから。


 最初を躓くと、後が辛くなると考えたので一桁の足し算はしつこいと思われるくらい何度もやらせた。最初のうちは、手を使って数を数えていたが一人が暗算で答えを言うようになる。

 すると、競争意識が芽生えたのかその子に負けないと他の四人も暗算に挑戦するようになる。間違えばかりだった答えが、段々と正解することが多くなってくる。

 五人全員が、答えを間違わなくなると自信が出てきているのか最初の硬さがなくなって笑顔が増えてきていた。

 次は、もっと難しい計算をと二桁の計算へと進む。そうやって、段々と五人に計算力がついてきた。


「キャロル、私……自分には無理だって思っていたの……。でもキャロルが誘ってくれたから、頑張ろうって思えて。私でもできるんだって凄く嬉しい。ありがとう」


 マリーが、初めてキャロルに笑顔を向けてくれた。いつも自分に自信がなさそうで、顔を俯けていたマリーが笑った姿を見て何だか凄く胸が熱くなる。

 マリーが、こんなに喜んでくれるなんて思わなかったのでとても嬉しかった。誰かに何かを教えた経験なんて無かったから、こんなに充足感があるのだと感動する。

 良い行いをしてこなかったカロリーナの心が、少しずつ改められている気がした。


「私も嬉しい。今度は、引き算を教えるからね」


 キャロルも、マリーにありったけの笑顔を向けた。彼女はとても真面目で、授業のあった日は自主的に夜の自由時間に復習をしている。

 そんな姿を見ると、もっと自分に自信を持ってもらいたくなる。もっとマリーの為に何かできないかと考えたくなる。

 それに奥底に眠っているカロリーナの心も、マリーを応援しているのではないかと思う瞬間がある。カロリーナは、今年で十八歳になるのだがそれまでの人生は、普通の幸せとは程遠い生活だった。

 幼い頃は、王太子妃になるべく遊ぶことも許されず学びの毎日だった。父親も母親も自分のことしか考えていないような親だったので、普通に愛してもらった記憶がない。

 褒められたこともないし、家族団欒という時間を過ごしたこともなかった。そんな幼少期を過ごしてしまったから、カロリーナ自身も寂しさを埋める為に我儘な子になっていった。何をしても味気なく詰まらなくて、刺激を求める毎日は悪いことにばかりに興味を持ってしまった。

 だからこんな風に、誰かに感謝されるのが初めてで、きっとその思いにカロリーナの心が反応してマリーを応援している気がした。

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