4-35 思い出したくない言葉
◇
まだ寝てるの? という声が聞こえた。
彼女の声は溌溂としている。その声を耳にした瞬間、すべてを委ねてしまいそうになる。人に対してこうも容易く委ねるという気持ちが生まれたことはない。それだけはよく実感している。彼女の声ならば、彼女の声であるのならば、その声にただ夢を見ていたい。
まだ眠い、とうわ言を吐いた。実際、まだ眠気が意識の中にはあった。それは片隅におけないほど大きな存在で、瞼を開くということにどれだけの労力を使うことなのか、それを僕は思い知っている。
だから、彼女の声に委ねたくなる。
また家に入ってきたんだな、と思った。母さんが勝手に家に入れたのかもしれないし、もしくは鍵を閉め忘れたのかもしれない。不用心ではあるけれど、こんな地方みたいな場所に住んでいる人間にとっては、きっとひとつの日常として片づけられるのだろう。そもそも盗むものも見いだせないほど僕の家には何もないけれど。
そろそろ起きなよ、と彼女は呆れながら言った。
せっかくの休みなのに、寝てばかりじゃもったいないよ、と快活に過ごしている彼女らしい言葉を耳にした。それにひどく安心感を持った。確かに彼女の言葉の通りだな、と思う気持ちもあったけれど、休みだからこそ寝て過ごしていたい、という気持ちもある。寝ることを考えていれば、現実のことなんて必要がなくなる。現実には苦しいことがいっぱいだから、それを考える必要がなくなる。夢は人の救いのような世界であり、その世界の中で留まることができたのならば、どれだけ幸福なのだろう、と僕はそう思った。
だが、彼女はそんな僕の手を引っ張ってくれる。
僕がどれだけ落ちぶれても、どれだけ堕落の一途をたどっても、彼女は笑顔で僕の手を引っ張ってくれる。連れ出してくれる。そうだ、あの時だってそうだった。僕が魔法を使えない時に、彼女は僕の手を引いて、一緒に海に行こうとしたんだっけ。もう思い出すこともできないほど遠くに離れてしまったような気がするけれど、あの時の彼女の優しさだけは忘れないようにしなければいけない。
環、環。僕の名前を呼んでくれる声が重なる。重なり続けて耳に痛い。眠気で眠ることを肯定する時間は終わりに近い。
ああ、そうだな。そろそろ起きなければいけない。目を覚まさなければいけない。
瞼の中にある暗闇を晴らさなければ、晴らして彼女と一緒に出掛けなければ。今日はどんな遊びをしようか。どんなことをかけて、どんな罰ゲームをお互いに仕掛けよう。どんなタイミングで彼女に負ければいいだろう。どんなタイミングで彼女に勝てばいいだろう。考えることは山積みだ。だけれど、彼女と一緒に過ごせることは心地がいいのだから、それがいい。それだけがいい。
そうして、僕は瞼を開けた──。
だが、世界は暗いままだった。
視界の中には何もない。彼女の声は聞こえていたはずなのに、朝であることを示すような目覚めの声があったはずなのに、そこには彼女の姿も、世界の姿も見当たらない。いつも繰り返していた日常はそこにはない。
どれだけの時間を寝過ごしたとしても、目の前にある暗さを理解することはできない。夜にしたって暗すぎる。まるでそこが宇宙の深淵の中でもあるような、そんな暗黒だけが目の前に広がり続けている。
おい、ここはどこだ。
僕はそう声を出した。声を出して、まず自分がそこにいることを確かめた。
葵、そこにいるんだろ。どこだよ。
僕はそう言葉を吐きだした。声を出して、彼女がそこにいることに安心感を覚えようとした。
でも、反応は返ってこなかった。
反応は返ってこないままだった。
なあ、どうか返事をしてくれないか。たった一言でいい、僕の名前を前みたいに呼んではくれないか。僕はそれだけで起きることができるんだ、眠ることができるんだ。お願いだよ、いつものように、いつかのように、僕の名前を呼んでくれないか──。
『──今の環じゃダメ』
──思い出したくない言葉が、望んでいない声音が、僕の景色の中で再上映された。
今の環じゃダメ、と彼女は言った。そう声が聞こえた。その声が聞こえた時、いつか僕がそうした時のように、自分を殺める声を繰り返しそうになった。
違う、違う、違う違う。そうじゃない。そうするべきじゃない。これは違う。何かが違う。これは現実じゃない。わかっている。これは夢の中である、そう自覚はできている。これは夢だ、現実じゃない。それを確かに理解している。
でも、どうして、どうして夢の中でさえ自由になれないのだろう。
苦しい。苦しい。目を覚ましてしまえばいい。眠る先でさえ悪夢を見るのならば、僕に眠りなんて必要ない。僕に虚無を自覚させる夢なんて必要ない。
考えたくない。何も考えたくない。苦しさだけがわだかまることを考えたくはない。
『──在原さん』
やめてくれ、やめてくれ。わかっている。やめてくれ。彼女がもう彼女ではないことはよくわかっている。それが必要だったことも、それが必要というだけでどれだけ自分を弁護してきたのかも、よくわかっている。だから、これ以上今の彼女をちらつかせるのはやめてくれ。そんな他人のように僕の名前を呼ばないでくれ。いつもの葵に──。
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