4-34 浄化の雨


 ──反転した。


 目の前にある景色は白色だけになった。認識したくない情報量が頭の中にこびりつく感覚がする。大脳を素手で撫でられるような、そんな歪な感触。頭痛としても捉えられない感覚に、ただただ吐き気を覚えそうになる。


「……ここは?」と俺は天音に声をかけた。


 見える世界に彩が戻ってきている。目の前にあるすべての景色は、確かにいつも見ている景色と同一である。先ほど見た対極の世界はそこにはなく、きちんと彩がある。その証拠に白い景色に浮かび上がる彼女の表情と姿が目と鼻の先にある。


「──アリクトエアル」と彼女は答えた。


「きっと環が見た穴っていうのは、アリクトエアルの残滓だと思う。さっきいたお店の人はそのままアリクトエアルに床から飲み込まれたんだよ」


「……なるほど」


 頭を抱える。比喩表現ではなく、確かに俺は頭を抱えている。


 ──五月蠅い情報が流れ込んでいた。その情報に対する許容量を俺は持つことができない。未だに響き続ける残酷な情報の嵐が焼き付いて離れない。これは、無限という情報を一部読み取ったからなのだろうか。


 そんな俺を無視して、天音は言葉をつづけた。


「だから、その穴の場所にアリクトエアルを展開したの。アリクトエアルからどこにでも繋がるなら、どこからでもアリクトエアルにつながるのは同じだから。きっと、さっきのお店の人も近くに──」


 彼女の行為の解説を耳にしながら、今は目に熱い視界の情報を、それでも覗き見ようと必死になる、──が。


『──おやおや』


 ──胡散臭い、聞きなれない声音。


『お呼びではない客人が参られたようだねぇ』


 皺がかった男の声。丁寧な言葉には聞こえない、こちらに向けてくる敵意が声音から伝わってくる。


 その声は目の前から聞こえてくるようにも感じるし、目の前から声は聞こえていないようにも感じる。直接心に語りかけるような、そんな声にも感じた。周囲に響かせているようにも聴こえるそれに、俺は「どこだ」と敵意を孕ませながらつぶやいた。


『……粗雑な人間は嫌いなんだよ、私は──』


 ──嫌な予感がした。その予感に俺はそのまま従って、呆然と立ち尽くしている天音の前に立つ。何が起こるかわからない状況の中、そして聞こえる──。


『──Enos Dies, Magna Ze Mentasy』


 ──世界に異質を希う言葉。





「──上っ」


 天音から聞いたことのない叫び声が届いた。何事かと把握をしなくても理解できる。世界に非現実的事象を上塗りする声音が聞こえてしまえば、それを理解することは赤子でもわかってしまう。


 何が来るのかはわからない。どのような詠唱をされたのか、その文脈を読み取ることも訳すこともできない。だが、詠唱は行われた。目の前に魔法使いはいないのに、それでも確実に異質は実行されている。


 彼女の声音に従って、俺はすぐさま天上を見上げた。どこまでも白い景色の中、唯一空が存在しないことを示す暗い景色の中──。


「──炎の雨」


 事態を認識して無意識に俺は呟いていた。


 頭上に広がっているのは、炎の雨とでも表現するべき、多数の炎が俺と天音に降り注ぐ準備でもしているかのように待ち構えている。そして、その炎は赤色ではなく、確実に俺たちを昇華することを目的とした青色を飾り立てている。


 歪に炎の群れは景色を揺らがせる。炎の群れはそれぞれをそれぞれと認識させないような、そんな揺らめきを繰り返している。


 ──これは、まずい。当たってしまえば、俺は反発するからいいものの、魔法使いの体である天音はそれを防ぎきることはできないかもしれない。例え天音が氷の壁を貼ったとしても、対極を見極めて炎の雨に対して炎を相殺したとしても、乱雑に降り注ぐであろうすべてに対応できるだろうか。


 どうすればいい、どうすればいい。ただでさえ考える時間も足りない。対処法を考える時間もない。時間を見出しても、その対処法なんてどこにもないような気もする──。




 ──いや、




 その声に染まるように、の心は──。





 ──


「天音。少し下がってろ」


 俺は語気を強くしながら、天音に声を吐く。それが彼女に警戒心を宿らせる可能性はあるが、今はそれを気にしている場合じゃない。


「な、なにをするつもり──」


「──いいから」


 辛うじて浮かべることができた笑顔を天音に返しながら、俺は目の前に広がる炎の雨を視界にとらえる。それが天音の安心感に伝わるかは不安だったが、それでも彼女は言葉の通りに下がってくれた。ああ、それでいいのだ。


 炎の雨、人を融かすことを目的とした揺らめく景色は、今にも俺たちへと降り注ごうとしている。俺はそれを悪魔祓いの体質で反発することはできるが、大量に広がっている炎の雨粒に対して、天音は対処をすることはできないだろう。


 それならば、それさえも俺がどうにかするしかない。その対処法は俺自身がよく知っている。


 恐怖心がある。恐怖心がある。これから行うことに対して臆するような恐怖心がある。それが俺の手の動きを鈍らせている。だが、それはだ、それを無視することは容易い。


 俺は、持っていた黒い刃を、──自分の首に突き立てた。


「──なにを」


 天音はそう言葉を吐いたあと、あっ、と気づいたように音を漏らす。


 ──ああ、そうだ。これはお前が環自身に教えた一つの知識だ。


 悪魔祓いは魔法を浄化する存在である。天使の御使いとも言われているその存在は、世界に対して上書きする異質を


 そして、──その血液は異質自体をなかったことにするように


 天使時間における歯車の存在は、確かに環の血液が触れたことにより、朽ちて存在を消失した。


 ──その性質が使えるというのならば、俺は炎の雨に対して、浄化の雨を


 ──そうして心臓は加速する。


 首に突き立てた刃は、血流を呼び起こす。血は確かな噴水となって、俺を中心に周囲へと展開される。痛みはある。苦しさもある。鼓動がより早くなる感触がする。身体のすべてが虚脱する感覚がある。俺はそれを無視して、ただ立ち尽くしながら、血の雨をアリクトエアルと炎の雨に応酬として繰り返し続ける。


 ──火は溶ける。浄化される。血の雨から逃れた炎が俺の体に触れる。だが、それは反発し、天上へと戻り昇華される。


 血液がすべて存在を否定する。異質はこの世界には許されず、残骸さえもその場には残らない。それが正しい世界の在り方であり、悪魔祓いが世界に求められている振る舞いの結果である。


『──なるほど』とジジイの声が聞こえた。俺はそれを聞き取っても、今は虚脱した力で世界を眺めることしかできない。


 ……視界が黒くなる。俺の心臓が加速したことにより、存在の境目がモノクロとして世界へと満たされる。世界の存在の根底が視界に入る。世界の情報が視界に刻まれる。


 もう、雨はない。雨はないから、俺の役目は終わりでしかない。


 存在だけが満たされている景色の中、俺は極彩色に光る穴を見つける。力が入りきらない足を引きずりながら、首元を抑える。だんだんと巻き戻りの性質を帯びた身体が傷口を癒す。失った血流を取り戻すために、未だに心臓は加速を続けている。


 力が抜ける。立つことさえもできなくなる。だが、どうせ時間が経てばどうにかなる。だから、最後に俺ができることを見出して、俺は辛うじて残っている力で、ゆっくりと極彩色の光へと近づいていく。


 おそらく、この穴が店に繋がる座標なのだろう。それを心に取り留めながら、指先についていた血で、座標を……、──示した。


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