4-36 ──うわき、しちゃったね
◇
「たまき」
環、と僕の名前を呼ぶ声がした。僕の名前を、……いや、違う。俺の名前を呼ぶ声がした。
聞き覚えのある声、聞き馴染んでしまった声音。その声の主が誰かと思い出そうとするけれど、気力も思考も上手く回らなかった。
体に悪寒が走っている。震えは止まることなく、人の温もりを奪うように力は抜けていく。目覚めた拍子に瞼を開けて、声の主の方へと視線を移そうとしてみるけれど、すべてに力が入らない。気だるさ以上の重さが身体にのしかかっているような気がする。
呼吸をすることも重たく感じる。肺の中に水が溜まっているような、そんな息苦しさがある。肺の容量が半分になってしまって、息をすることも面倒くさくなってしまう。しんどさが身体を覆っている。
「……ぁ、ぁあ」
それでも、俺の名前を呼んでくれることに対して、なんとか言葉を吐きだそうとしてみる。抱えている酸素は少ないけれど、それでもその声に返さなければいけないと思った。吐き出すべき言葉は思いつかなかったし、そもそも声なんて出せる気力は目の前になかったけれど、何とか上ずった声を出せた。
意識はだんだんとはっきりしてくる。はっきりとするたびに、自分自身が抱えている苦しみや痛み、その辛さが身に反芻してくる。
──頭が痛い。心臓が熱い。息が苦しい。考えたくない。
「う、うぅ……」
嗚咽にもならない声を上げて、身体を動かせないまま悶えて苦しみ続ける。
たまきっ、と慌てた声を耳にする。そこでようやく声の主が誰なのかを思い出す。
「……あ、天音か」
そこでようやく、俺の意識は完全に目覚めた。
◇
長い夢を見ていたような気がする。どれくらいの時間を夢として過ごしていたのかはわからないけれど、寝た甲斐を見いだせないほどに、気だるさは未だに身体にはりついている。おそらく、気だるさだけでは表現できないものもあるだろうが、今はそんな言葉の選択を考える余裕はなかった。
「……ど、うし、て」
どうして、と言いたかった。いろいろと聞きたいことがあった。聞きたいことを優先して、ただ呼吸も曖昧なまま吐き出している。声を出した後、肺にある水を抜くように、大きく息を吸い込んだ。
なぜ、世界はこんなにも暗いのか。
目の前に広がる景色は、どこまでも、いつまでも暗いままなのか。
目の前にあるのは夜よりも暗い底のような景色だ。風景はそこから変わることはなく、天音も灰色のシルエットでしか覗くことはできない。ぼんやりとした明かりしかないような、そんな風に。
どうしてこんなことになっているのか。僕の身に何があったのか。記憶がおぼつかない、聞きたいことはまとまらない。思い出すこともままならない。
息を吸い込む拍子に力を入れた体に痛みが走る。うっ、と痛みをこらえて声を出す。反射的に手は動いて、痛む部分を抑えた。自然と首へと手が触れていて、灰色のシルエットはその部分を触るように、すりすりというように柔らかい手で撫でてくる。人肌の温度が懐かしく感じた。
「……覚えてない?」
天音の声に、俺ははっきりとしない声で、うん、と頷いた。それで彼女が疑問に答えてくれるかはわからない。
「イギリスに来たことは覚えてる?」
俺は頷いて返した。
アリクトエアルで、天音の魔法でイギリスに来たことは覚えている。それは思い出せる。
「出かけたことは?」
俺は曖昧に頷いた。そんな気もするし、そんなことはしていないような気もする。でも、彼女の言葉をきっかけに思い出すのは、天音と一緒に住宅の周辺を歩いていた場面。
「それじゃあ、──アリクトエアルにそのあと行ったことは?」
俺は頷きを返せなかった。そんな記憶を自分の中から見出すことはできなかったから。
──本当にそうか?
声が聞こえた。自分の内側から声が聞こえた。聞こえてきた。いつか、対極が自分の中にいたときと同じように、自分の中から声が聞こえた。
本当にそうか、と問われて、俺は改めて思い出すことにした。
天音と一緒に散歩をした、それは覚えている。その道先で、どうして俺はアリクトエアルに行ったのだろうか。
「……あぁ」
思い出した。フラッシュバックのように記憶が蘇った。
天音と一緒に雑貨店に行ったこと。そこでナイフを購入しようとしたこと。その矢先に人が目の前で消えたこと。それを追いかけてアリクトエアルに行ったこと、そこで魔法使いと出会った。
皴がかるような男の声。老人のような声音に警戒を覚えた。そして、突如として聞こえた詠唱の魔法に、僕はどうしたか。
視界に焼き付いている炎の雨。僕はそれに対処できなかった。何もすることはできず、考えることもできないまま、そうして──。
事態は把握した。ようやく理解できた気がする。自分がどうしてこのような状況になっているのか、どうしてこのような苦しみを抱えているのか。世界がどうして暗いままなのか。それもきちんと理解した。
「思い出せた?」と天音は言った。俺はそれに頷いた。
思い出した拍子に、身体の感覚も取り戻せてくる。それは苦しみにまみれてばかりではあるけれど、それでも先ほどよりも自分が自分である、という自覚を保ててるが故に、きちんと感覚がはっきりする。
「……俺、あの時──」
俺はあの時、自分自身の力で対処をすることができなかった。そんなときに、確かに自分の内側から声が聞こえてきた。そして、その声は確かに体の主導権を握って、そのまま完璧ともいえるくらいの活動をした。
……まさか、自分の首を切るとは、思いもしなかったけれど。
雪冬との模擬戦闘のことを思い出す。あの時も自分でナイフを突き立てて、そうして対処をしていたはずだ。
自分が自分じゃなくなる感覚。久しく感じるその雰囲気に、自分自身で恐ろしくなってしまう。
あの時は葵から輸血してもらって、事なきを得たけれども、今回はそういうこともできないから、今の今まで眠っていたのかもしれない。
そうして、だんだんと視界がはっきりしてくる意識の中で、俺は景色を見つめてみる。暗かった世界はだんだんと着彩が行われて、いつも見ている景色に安堵感を覚える。
だが──。
「──なに、……これ」
左手につなげられている灰色の管のようなもの。というか、医療的に見るチューブ。それは手の甲につなげられており、その管を通って、赤黒い液体が身体の中に侵入してきていることを理解する。
「わたしの血」
天音は平然と答えた。
「血が足りなかったから、わたしの血を輸血しちゃった」
てへ、とでも言いそうな雰囲気で彼女は答える。
輸血、輸血。血が足りないなら仕方ないか、とか、ぼんやり考えるけれど、それ以上に頭の中にちらつくことがあって、いまいちそれを受け入れることができない。
人間の世界での輸血なんて、ただの医療行為でしかないけれど、魔法使いでの輸血というのは──。
「──うわき、しちゃったね」
──冗談きついっすよ、天音さん。
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