4-32 暗転する世界


 俺たちはそうして店の奥のほうへと入る。入店音が五月蠅いほど大きく響くのが印象に残る。


 店に入る際に、入り口横にいるカウンター側の男性店員から、少しばかり訝しい視線で見つめられたが、俺はその視線を無視して天音が歩く方向についていく。天音も特に気にしていない、というような雰囲気で前を進むので、それは当然の振る舞いとしてあってるのではないか、と俺は思った。


「気になる?」と天音は言った。


「……別に、大丈夫」


 彼女が店員の訝しい目のことを言っているのだと理解した。


 ここは日本ではないのだから、日本と同じような店員の態度を求めているわけじゃない。その国には国らしい雰囲気があるのだろうし、たとえ訝しい目をされていたとしても気にすることではない。


「アジア人にはどこもこんな感じなんだよ」


「……そうなんだ」


「別に、人種も肌の色も、わたしは関係ないと思うんだけどね」


 そう呆れながら彼女は息も吐く。俺もその意見には同意だった。


 天音はそのまま歩みを進めていく。


 店の中は特に広くはない。すぐに最奥へとたどりつく。最奥はサバイバルの器具などを主体としておいてあり、アウトドアでキャンプを目的としたものが視界に入る。その中胃でも、特に俺の目を引いたのは着火棒らしきものの隣に並べられているサバイバルナイフだった。


 以前のナイフ、葵に選んでもらった黒いナイフはもうない。


 俺が対極に身体を支配されたとき、紆余曲折あって朱音がそのナイフをなかったことにした。それから俺は自傷行為というものをしてはこなかった。


 だからこそ、視線がそれに釘付けになってしまう。


 悪魔祓いとしての自覚がなかった時は、魔法使いとして自傷行為を行うことにも躊躇いはなかった。確かに初めの頃は抵抗こそ見せたけれど、慣れてしまえば血を見ることにも、その痛みを怖がることもなくなっていった。


 だけれども、時期をあけると流石に怖さが戻ってくる。


「──どれにする?」


 そんな痛みを思い出していると、意識がぼうっとしていたことに気が付く。俺に向けて声がかけられていたことも、上の空で全く聞けていなかった。言葉の端は聞き取れたから、おそらくナイフについてを聞かれたんだろう。


 目の前に並べられているナイフの柄はそれぞれだ。ナイフの持ち手から刃先のほうまで迷彩柄に仕立て上げられているものだったり、台所で使うのが目的なのではないか、という折りたためないナイフであったり、どこか見覚えのある黒いナイフであったり。




『ほら、環の紋章、なんか黒色だし、黒いやつでいいんじゃないかなーって』


 


 目の前にあるのは、そんな葵の言葉を思い出すような、黒い柄に黒い刀身のナイフ。以前と違って、飛び出すような畳み方をするものではなく、刃と柄の中心部分のスイッチ部分を押すことで折りたたむことができるタイプ。


「これにしようかな」


 どうせなら、馴染んでいる色のものを選びたい。その馴染んでいた際に、葵が選んでくれた理由を思い出せるなら、それでいい。


 俺はそんな気持ちで、黒いナイフを手に取ってみる。実際に手に持ってみて、それが手先に馴染むのかを確かめたりする。


「たまきにぴったりだね」


 天音の声に、そうだと嬉しいな、と返す。好意を伝えてくれた彼女に、このナイフを選ぶ様を見せつけるのは心苦しいような気もしたけれど、うだうだ言っていても仕方がない。





「……あっ、お金」


 そういえば、というわけではないけれど、イギリスに来た時点で少しばかり懸念していた事柄を思い出す。それは、日本での金しか持っていない俺には、イギリスでは金の清算ができない、ということだった。


 一応、財布は持ち合わせており、ポケットの中をまさぐって取り出しては見るものの、日本の円はイギリスの通貨としては使えない。それを理解しているから、俺はそれをそっとしまう。


「だいじょうぶ」と天音は言った。


 そうして彼女は手元からすらっと財布を出す。どこに忍ばせていたのかもわからないほどにスムーズに。彼女の髪色と同じように白色の財布のチャックを開けて、その中から日本の金ではないことを示すような、見慣れない紙幣を取り出してこちらに見せてくる。


「こんなこともあろうかと」


「……うん、すごいな」


 俺がそう声を出すと、彼女は、ふふ、と満足そうな笑顔を出す。きっと、葵と向き合う前であったのならば、彼女の頭をなでていたのかもしれないけれど、そうすることは控えた。それをするのは、天音にも葵にも失礼だと思ったから。


 そんな金銭面の確認を終えた後、俺たちはカウンターの方へと歩き出す。


「日本に戻ったら返すから」とか、きちんと勘定を口に出して約束をして、異国にいることの浮つきを隠さないまま、俺は彼女に話しかけた。


「べつにいいのに」と天音は返した。ふふ、と満足そうな笑顔は崩さないまま、そうして足をカウンターのほうへと向けていく。彼女は自前のナイフがあるから、これ以上この店にいる理由はなさそうだった。


 きっと、この雰囲気なら店員の応対も、このまま天音に任せていいような気がした。というか、英語なんて喋れそうにないから、ずっと天音について回るようにする。イギリスの貨幣を持っていて、それでいて四回もイギリスに来ているのならば、ある程度のやりとりは彼女はできるだろう。俺と一緒にここまで来たというのも、安心感を覚えるひとつの理由だった。そうしてカウンターのほうまで歩いて行って──。


「──あれ?」


 俺は、浮ついた意識の中でぼんやりとした気づきの声をあげた。




 先ほどまでいた男性店員が、そこにはいなかった。




 訝しい視線を俺たちに向け続けていた彼は、カウンターの中にいるはずだった。ただでさえ俺たちを監視するような、そんな訝しい目を俺たちに浴びせていたのに、その張本人は消えている。


「──たまき。ナイフ、準備して」


「……へっ? まだ買ってないけど──」


「──カウンターに多めの額を置いておくから大丈夫。……それとも、対極パンチ、する?」


「いや、それは大丈夫です。……やります、やらせてください」


 天音の真剣な声、そして目つき。それで目にしている現状が異物であることにようやく気付かされる。


 もし、店員が店から出ていった、というのであれば、先ほど五月蠅く響いた入店音が聞こえるはずだ。だが、そんな音は耳にしていない。そもそも、アジア人を疑うような目をしていたあの男が、俺たちから目を離してどこかに行くはずもない。


 消えたのだ。何の痕跡も残さずに。


 それならば、そこまでわかっていることならば、俺のやるべきことはひとつしかない。




Enos Dies我、希う……)




 心の中で意味のない言葉を詠唱しながら、──手に持っていたナイフで腕に赤い線を描く。


 ──久しぶりの痛み、じくじくと熱く震えだす血流。久方ぶりだった故に深く傷つけ過ぎた傷。それを塞ぐために心臓が鼓動の加速を開始する。赤い線は見る見るうちに視界から消えて──。




 ──そうして、世界は暗転した。



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