閑話休題

EX1 曇天の空の下、彼が独り思うこと


 灰色の空が記憶に残っている。


 ひどく淀んでいる曇天に飾られた空の下で、僕は息を吐いた。いつもなら透明な色のままで吐かれるはずの息の中には白いものが混じっていたはずだ。そんな吐息を、僕は冬と表現して、母に共有した。母は困ったように笑っていた。


 十字架を飾り立てた保育園の教会の中では、赤色が目立っている。そんな赤色が目立っているのは、聖夜の祝福と称して、サンタクロースを模倣する大人がたくさんだったから。もしくはトナカイの格好をしている大人の鼻の先が赤かったから。


 大人は、そんな身なりのままで、子供たちにケーキを配っている。ケーキを配っている対象は、その保育園の隣にある孤児院の子供だけで、僕はそのケーキをもらうことはできない。ひどくにぎやかな空気を、外側で見て、母と一緒に過ごしていた。


「行かないの?」と母は聞いてきた。


「きっと、いけばケーキ貰えるかもよ?」


「大丈夫」と僕は呟いた。


 それ以降は特に言葉を続けることはなくて、静かに、そう静かに沈黙を過ごしていく。


 母はそんな様子を困ったような笑顔で見つめて、帰ろっか、と一言呟いた。


 僕はその言葉にただ頷いて、そうして静かに呼吸を繰り返す。目の前の白い息が楽しかったからかもしれない。




 今思い返して、そうして思うのは、そんな困ったような笑顔をさせていたのは僕という存在であり、そんな存在である僕を、なんとなく許せないと感じてしまった。





 小学生の時、葵は僕に言葉を吐いた。


「クリスマスって楽しいのかな」


 何気ない言葉だったような気がする。僕はその言葉を咀嚼して、どう返すべきか迷ってしまう。


 確か、彼女には母親がいなかったはずだ。父親も遠くの方で仕事をしていると葵は語っていた。だから、いつも家では独りぼっちだということを、僕はよく知っている。


 そして、僕たちには友達がいなかった。幼い頃の関わりの中で、はぐれもの同士が惹かれあうように、僕たちは距離感を通わせただけであり、それ以上の交友関係を見繕うことはできなかった。


 孤独だった。そんな孤独な人間が、そんな疑問を吐かれたところで、適当な言葉を返すしかない。


 なんて言ったのかは覚えていない。でも、当たり障りのない言葉だけを返して、そうして帰路に着いたはずだ。


 冬休み前の記憶。僕たちはその後、いつも通りに公園に行って、人のいない静かな砂場をただひたすらに城を作って遊んでいた。





 高校一年生の冬の頃のことを思い出す。


「これ、プレゼント」


 葵はそうして僕にラッピングされているものを渡してくる。丁寧に十字のリボンを彩らせて、誰がどう見てもプレゼントだとわかるようなものを、静かに僕に渡した。


 え、というドギマギした声しか思いつかなくて、渡されるままにその梱包物を受け取る。手よりも少しばかり大きい袋。中にはなんとなく布の感触があるような気がする。


「いつも、クリスマスは楽しそうにしていないから」


 彼女は暖かい色を灯すように、僕にそう言葉を吐いた。その言葉を受け止めて、僕は感謝を伝えた。


 でも、それだけでは感謝の気持ちは足りなかった。何か、贈り物を返さなければいけないような気がする。きっと、『気がする』ではなく、返さなければいけない。


「ごめん」と言葉を吐いた。


「え?」


「何も、渡すものがないから」


 振り返ってみて、そう言葉を吐いた。


 僕には、何も渡すものはない。アルバイトをすることもできず、そうして小遣いをねだるわけにもいかず、金がない、という理由で何かを贈ることができない。


 金をかけないものには価値がないかもしれない。そんな思考が働いて、何か作ったものを渡してもいいのかもしれないけれど、それを肯定することができない。


 僕は、少し泣きそうになる感覚をこらえながら、言葉を吐いていた。


「大丈夫だよ!」


 葵は気丈に振舞って、そうして僕の背中をどんどんと叩いた。


「私がサンタクロースになればいいだけなんだから!」


 彼女の、そんな冗談を咀嚼して、無理をさせているな、と感じてしまう。でも、それに対して頷きを返すことでしか僕は反応できない。


 憂鬱、憂鬱、憂鬱。


 きっと、この日も空は曇天の灰色だったに違いない。自分の心がそうだったのだから、おそらくそうだったろう。





 冬という季節は嫌いだ。人肌を求めたくなるような寒さが身を包む。心はいろんなことが頭に過って憂鬱が占有する。それが止まることはいつまでもなくて、僕は嫌になる。


 人肌を求めたくなるのは傲慢だ。こういう状況で、葵という存在を求めてしまっている。


 彼女との別れを心に決めたのに、本当に今の行動が正解なのかがわからない。自分で選択したことであり、そうしなければいけないということも理解しているのに、後ろめたさがどこまでも背中についてくる。


 そんな感情を消すために、僕は目の前の仕事に集中する。仕事、というか、生活というか。


 いつか見た教会の中で、僕はサンタ九r-スの服を着て、慣れない赤色に身を浸している。孤児院の子たちに、僕は笑顔を振りまきながら、そうしてケーキを渡す。渡された笑顔の子供たちは何も知らないような顔で受け取って、同じようにケーキを持っている子供たちとそれを共有して、さらに笑顔を浮かべる。


 子供だったら、いろんなことに鈍感であっても許される。何もわからなくても、それで許される。


 子供とは、どこか神様に似ているような気がした。すべてが許される様は、さながら神様だと思わずにはいられない。


 そんなどうでもいい思索にふけりながら、僕は自身の状況を省みる。


 サンタクロースの真似事をしていること。誰かには渡すこともできなかった贈り物を、手に持って見知らぬ誰かに近い子供たちに渡していること。


 そうすることが仕事だということも分かっているし、きっとこれも善行なんだろうけれど、ここに来るまでの道中のことが頭に過って、気持ちよく物を贈れない自分が気持ち悪くて仕方がない。


「大丈夫そう?」


 トナカイの服を着た天音が、僕にそう声をかけた。


「なにが?」


「なんか、しんどそうな顔をしてるよ、たまきくん」


 彼女にも見破られていたようで、俺は彼女にだけ聞こえる音で溜息を吐いた。そのまま笑顔だけはぶら下げて、頬の引き攣るぴくぴくとした感覚を反芻する。


「クリスマスって嫌いなんだよ」


「宗教上の理由?」


「別に、そういうわけじゃないけど……」


「でも」


 でも、と彼女は言った。


「今のサンタクロースはたまきくん。だから、笑顔を続けなくちゃ」


 励ますような言葉、それでも表情はどこまでも無機質に感じる雰囲気で、天音は言葉を吐く。


 そうだと思う。今の僕にはこれが求められているのだから、そうするべきなんだろう。


 わかった、と彼女に返して、僕はまた子供たちに向き合う。


 また、心を殺さなければいけない。





 教会に身を置いても、たまに外に出るたびに葵の姿を追いかけている。


 高校にも通わなくなって、本当に葵との接点は消えてしまった。すべてゼロに還元されてしまった。


 そうしたのは自分だ。そうすることしかできなかったのは自分だ。だから、後悔を抱くことはどこまでも間違っている。


 今なら、彼女に贈り物をすることができるのに、それがどこまでもできない状況。


 彼女に返したいものはたくさんある。彼女に救われてきた人生だからこそ、彼女に報いたい気持ちがある。


 そんな気持ちがあっても、僕はどうすることもできないのだけれど。


 ふとした散歩を装って、葵が暮らしている家に赴いてみる。赴いてみる、といっても、アスファルトが舗装されている道路から、少しだけ覗くような形で。


 窓からは暖かさを感じる電灯の色が見える。彼女はきっと家にいるのだろう。


 手元にはケーキがある。


 でも、それを彼女に届けることはどこまでも許されない。


 どうして、来てしまったんだろう。


 気持ち悪い。行動が気持ち悪い。わかっているのに気持ち悪い。気持ち悪さに浸るの気持ち悪い。


 どこまでも、どこまでも。


 僕は、手元にあるケーキを、そうして手元にぶら下げたままで帰る。


 独りで食べよう。そうすることしか、僕にはできないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る