EX2 灰色の少年と白色の日


 冬の寒さが肌にしみる感覚を覚えている。肌をなぞる寒風のすべて、逆立つ毛の感触、物に触れれば一瞬で背中に伝わる冷たさ、それらに対して嫌な気持ちを覚えたことを、なんとなく思い出した。


 そんなことを思い出して考えることは、きっと僕が冬という季節を好きではないということだったけれど、よくよく考えなくとも好きな季節というものも僕にはないような気がする。寒さと暑さを中途半端にする春、暑さばかりで人を殺しそうな夏も、特に好きというわけではない。それでも強いて心地のいい季節をあげるのならば、暑さを忘れて少しだけ涼やかになる秋くらいは好きになれるかもしれない。別に、どうでもいい話だけれど。


 朝にやっていたテレビの天気予報をのぞけば、二月の寒さについての言及は少ない。十二月という時期であれば、その時期をメインだといわんばかりに寒さを誇張して語っていたのに、今日のニュースは目の前の寒さを取り上げることはなかった。それほどまでに常識的な寒さだといえばそれまでだけれど、なぜか僕の子供のような反発心が、その主張に対して憤りを覚えていた。憤り、と表現したけれど、そこまで怒っていたわけでもない。ただ、少しの苛立ちを混じらせて、もっと世界のことを報じればいいのに、とそんなことを思っただけだった。


 灰色が板についているような、そんな曇天が上には広がっていた。朝から放課後に至るまで、今日は太陽が顔をのぞかせることはなかった。晴れの日も先週までにはあったはずだし、朝の天気予報でも晴れが報じられているはずだった。それでもこの曇天の空を見慣れているのは、僕が快晴の空を見上げようとしなかったからかもしれない。


 青い空はきれいだと思う。そんな感受性は僕にもある。けれど、太陽の存在を、そのまぶしさを考えると、どうしても目をそらしてしまいたくなる。季節がどれだけ変わってもそのまぶしさが変わることはない。いつも地面ばかりを見てしまうから、そりゃあ快晴の空を見ようともしないのは仕方がないというものだろう。


 曇天、そんな空の下で、いつもの風景。いつもの会話。その日の放課後も特に変わらないはずだった。


「今日、何の日か覚えてる?」


 中学からの帰り道、葵がニヤニヤとした表情をしながら、からかうように僕に話しかけてくる。


 いつものこと。僕には友達がいなくて、特にかかわるような相手もいないから、話すための題材は特にない。中学になってから葵には友達が増えた。葵は話題を持たない僕に対して、葵が友達と会話をしたことを話すことが日常だった。


 彼女の言葉を耳に入れて、質問の意味を理解する。反芻して、その質問に思い浮かぶものはあった。けれど、それを言葉にするのはやめておいた。


 今日が何の日なのか、そんなのはとっくにわかっている。朝のニュースでもやっていたし、クラスの話題は昨日からそのことで持ちきりだ。教師からは昨日の時点で注意勧告として「菓子類を持ってくるな」と言うほどに、周囲にいた人間の空気感はいつもと異なっていた。それに気づかないというのは無理な話だ。


 だが、それでも彼女に対して言葉を吐かなかったのは、言葉にしてしまえば不安が積み重なるから。


 中学生になってから、彼女は社交的になった。それでも僕とかかわってはくれているけれど、いつかは僕と離れるかもしれない。その日の朝も浮足立っている様子を見つめていて、もしかしたら彼女に好きな人がいて、そんな人にチョコレートをあげたという可能性を考えると、どうしようもない不安に包まれてしまう。


 それ以外にも言葉に出したくない理由がある。可能性は低いけれど、彼女がもし僕にチョコレートを僕に用意してくれているのならば、言葉にすればねだるのと同じだと思ってしまった。


 何かを彼女からもらえたとしても、僕は彼女に何も返せない。裕福な家庭であるのならば、きっと相応の贈り物を三月のホワイトデーに用意できるのかもしれないけれど、その時の僕には何もなかった。だから、もらったところで返せない無力感を覚えてしまう。


「なんかあったっけ」


 だから、知らないふりをした。演技は得意だと思う。大丈夫なふりはいつもお母さんに見せている。板についているといってもいい。自分自身で得意だと自負していることだ。僕と大してかかわっていない人間であれば、こんな演技に気づくことはないだろう。


 ただ、問題をあげるとするならば、僕には他人と呼べるような間柄の人間が存在しないことと、目の前にいるのは小学生の時から一緒の時間を過ごしている幼馴染の葵だということ。僕のこんな演技も、結局彼女からすればどうしようもないほどに稚拙なものでしかないのだ。


 彼女はニヤニヤとした表情を崩さないまま、からかうような様子で僕に話しかけてくる。


「知っているくせに」、と。


 彼女はそういうと、ごそごそと肩にかけていた学生鞄を漁ろうとする。肩にかけていた学生鞄からごそごそとするけれど、漁る対象物が見つからなかったのか、いちいち立ち止まってから鞄をおろして、懸命に目的物を探している。


 そうして彼女の鞄から出てくるのは、小袋に包まれた小さなチョコレートのいくつか。丸みをおぼながらもごつごつとしているものや、ハートの形に成型しているものが数個ほどある。昨日の時点で教師から声掛けがあったのに、葵はそれでも持ってきたんだな、とあきれそうになるけれど、なんとなく彼女らしくて僕は微笑を浮かべた。


「はい、義理ね」


「……わかってるよ」


 彼女にチョコレートをもらったことに安心感を覚える、けれど。


「……ごめん」


 僕は彼女にそうつぶやいた。


「ホワイトデーって三倍で返すってお約束なのに、返せるかどうかわかんないや」


 ──いつも、葵からはもらってばかりだ。


 誕生日の時も、クリスマスの時も、今日だって、今日以外だって。


 彼女は毎日僕とかかわってくれる。僕とかかわらなくても、彼女はもう誰かと一緒に過ごせるはずなのに、毎日僕と登下校を共にして、そうして一緒に過ごしてくれる。いつも彼女からはもらってばかりで、それを返すことができない。


 無力感、どうしようもない無力感。何か返せるものも思いつかない、行動を選択できないもやもや。どうしようもない。


 きっと、母にねだればお小遣いは手に入るだろう。でも、それで葵に買ったものを返すのは違うような気がする。本質が違うような気がする。こういった贈り物に対して、僕は僕だけのもので返したい。そんな気持ちがある。


 でも、今の僕では何も返せない。高校生になったらバイトができる。そうしたら、僕自身のもので、僕の気持ちで返すことができる──。


「違うよ」


 葵は、僕の目をしっかりと捉えながら、そう言った。


「私だって、いつも環にもらってばっかりだもん。そりゃあ物とかはもらってないかもしれないけどさ……、ってこの話クリスマスの時にもしなかったっけ?」


「……どうだろう」


 覚えていない。思い出したくないからかもしれない。その日も結局もらうことしかできなかったから。


「ともかくさ、こういったのって物じゃないから! 気持ちだから!」


 葵は気丈にふるまうようにして、僕のほうにまで近づいて肩をたたく。僕はただ彼女の言葉にうなずくことしかできなかった。





 気持ちは目に見えないから、本当にあげているのか、それとも返すことができているのかなんてわかりはしない。確証がないから、人はそれを物という具体物で表す。僕にもそれができたらいい。


 お金はない。母さんにねだることはしたくない。いつも頑張って母さんは働いている。身を粉にして働いている。そんな母さんにわがままなんて言いたくない。


 でも、葵に何かを返したい。物じゃない、と彼女は言ってくれるけれど、きっとそうじゃない。


 気持ちであらわすのならば、具体的なものなのだ。


 具体的なものを、僕は彼女にあげたいのだ。





 三月は春という季節の印象があるけれど、それでも冬の寒さをぬぐうことはできずにいる。乾いた風がどうしても冷たい。それでも二月と比べれば暖かく感じる。そう感じるのは、見慣れた曇天の空が目の前に広がっていないからだと思う。


 少しの暖かさを勘違いした木々が桜を咲かせているのが目に見えた。まだつぼみのようなものだけれど、儚く咲こうとしている彼らの姿を見て、僕は緊張をやわらげることができる、……ような気がする。


「なんかそわそわしてない?」


 中学校からの帰り道、葵は僕の様子を見てそうつぶやく。


「そう?」


「うん。なんかキョロキョロしてて怪しい感じがします」


 彼女が言うなら、きっとそうなのだろう。僕は乾いた笑いを返して、どのタイミングでそれを彼女に渡そうかと考えている。


 歩くたびに時間は無くなる。制服のポケットに忍ばせているそれは、ずっと手に握っているから生ぬるい感触になっている。それに気づいたから、一瞬ポケットから手を取り出すけれど、結局渡さなければいけないことを考えて、またポケットに手を突っ込んだ。


 彼女と歩幅をずらして、葵が前に行くタイミングを見計らう。今か、今か、と頭の中で思考を続けて、僕は声を出した。


「……──あのさ!」


 慣れていない大きな声。上ずって震える声。そんな声しか出せない自分を恥ずかしいと思った。


 でも、踏み出さなければいけない。


 ここで踏み出さなければ、僕はこれを渡せないだろうから。


 ん? と疑問を浮かべながら葵はこちらに振り返った。


「……ええ、と」


 ……タイミングばかりを考えて、何を言うべきかを考えていなかったことに気づく。あれ、この後どんな言葉を出せばいいんだっけ、どうやってこれを渡せばいいんだっけ。


 歯切れが悪くなる。葵との間に気まずさなんてないはずなのに、勝手に気まずさを自分の中で演出してしまう。


 ……いや、もう勢いでやってしまえ。そうするしか道はないのだから。


「これ!」と言いながら、僕はポケットの中で温めてしまったものを取り出す。


 取り出したものは手のひらに収まる大きさの布。


「バレンタインデーのお返し! これしか渡せるもの、思いつかなかったから!」


 そうして僕は彼女のほうに詰め寄って、呆然としている葵の手を無理につかんで渡す。


 渡したものは、髪をまとめるための手作りの赤色のシュシュ。


 母さんに相談して、なんとか作ることができたシュシュ。


 出来は不格好、もっときれいにつくることもできたのかもしれないけれど、いくつか作っても目の前の物以上は作れなかったから仕方がない。


「いつも、本当にありがとう! それじゃあ!」


 恥ずかしくなって、僕は葵に有無を言わせることはなく、勢いよく葵の前を走り去っていく。


 後ろから声は聞こえてこない。ただ、振り返れば呆然としたまま立っている彼女の姿が視界に入る。


 ああ、恥ずかしい。恥ずかしい。別に恥ずかしいことなんて何もないはずなのに、顔にめぐる熱さがいつまでも冷えてくれない。


 今なら、冷たい風が吹いてくれてもいいのに。


 僕は、そんな春の香りを映し出す世界に、そう思うことしかできなかった。





 翌日の朝、どんな顔で葵に会えばいいのかを考えながら、いつも通りの場所で待っていた。


 渡したその日、家に帰った後は枕に顔をうずめて恥ずかしさで叫ぶことしかできなかった。もっと渡せるものはあったかもしれない、と今更でしかない発想を思い浮かべたけれど、その時にはもうすでに遅い。僕は葵にシュシュを渡したのだから。


 ああ、恥ずかしい。いつまでたっても恥ずかしさは消えない。消えないけれど、これでいい。これでいいはずなのだ。


「──おはよう」


 恥ずかしさに悶えていると、いつも通りの声音が僕の耳に届く。やはりどんな顔をするべきなのかを考えているけれど、いつまでも彼女に顔を合わせないわけにはいかない。


「おは──」


 そう挨拶を交わそうとして、顔をあげる。顔をあげて、僕は言葉の続きを出すことをやめた。


「どう?」


 葵は得意げな表情で、僕があげた赤色のシュシュで、いつものポニーテールで髪をまとめている。


 感情が爆発する感覚。いや、なんだろう、言葉がまとまらない。心がまとまらないのだ。


 嬉しさ、気恥ずかしさ、照れる感情、顔に集まる熱の感覚、彼女の少し赤くなった頬。


「……似合ってます」


 僕が作ったものが本当に似合っているのかなんてわからない。


 けれど、僕は彼女にそう伝えたかったのだ。





 毎日、同じことの繰り返し。


 学校に行くための支度をして、相応の身なりを整える。


 鏡を見ても、変わり映えのしない私の姿。


 どこまでも灰色の私。


 彩りが存在することはない、モノクロな私。


 それでも、とりあえず今日も髪型を整える。


 なんとなく、いつも通りのポニーテール。


 いつも使っている赤色のシュシュで、髪型を整える。


 今日も一日が始まる。


 風景のような、モノクロの一日が。



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