3-25 灰色の結末


 人格とは記憶だ。記憶を失うということは人格が死ぬ、ということにつながるだろう。だから、俺の人格は、本来の人格は死んだのだ。


 実の父親と、姉に、俺は殺されたのだ。





 記憶とは経験だ。経験とは体験であり、体験では情緒が養われる。父親がいた過去、姉がいた過去、あらゆるすべての記憶。そんなものを消された俺には、きっと情緒が存在しない。どこまでも、情緒は存在しない。


 父親は優しかった。たまに下品な言葉を使って、母にとがめられることがある。たまに旅行と称してどこかに出かけていき、帰ってきたときには少しばかりやつれた顔で笑いながら帰ってくる。そんなときに関わってくれる父親のことが俺は好きだった。


 どんなに疲れていても、笑顔で遊びに答えてくれる。割とやんちゃだったはずの俺はどこまでも遊んでくれる大人の存在がうれしかった。


 姉はそんな俺を叱りつけてくれる。どこまでも父親のことを特に省みることはなく、疲れを悟ることなく、父親に無理をさせる俺を引き留める役割だった。


「お父さんだって疲れてるんだからね?」


 そんな台詞をいつも吐かれた記憶がある。俺にはそんな記憶しか残っていないからこそ、鮮明に思い出すことができる。


 姉はそんな俺に話をしてくれる。世界にいる神様のこと、天使のこと、悪魔のこと。そこそこに娯楽にあふれていた世界だったはずなのに、俺はどこまでも姉の話に夢中になった。


 神父という職業は、そこまで収入があるわけでもない。だから、貧乏な暮らしは今のアイツとはそこまで変わらない。そこそこの広さのアパートを間借りして、日常を謳歌する家族四人の暮らし。


 平穏で、どこまでも平穏で、永遠に続くような、幸せな日々。俺は、その日常が好きだった。


 でも、その日常は大きく変わることになる。


 朱音に黒の紋章が刻まれた。思春期やそれ以降に刻まれることになる黒の紋章は、悪魔祓いの象徴である。正確な自我を持った悪魔祓いにはそれが刻まれる。本来であれば高校生の年代辺りで刻まれる紋章が、当時中学生であった朱音の左手に宿ってしまった。


 父は困った。早期に黒の紋章が発現するというのは、明らかな悪魔祓いの才能である。それを見て見ぬふりをするほどに父は不真面目でもない。だが、その悪魔祓いの才能を育てるには、他国での学習・修行が大切になる。現実の裏にあることだからこそ、母親にはそれを伝えることはできない。そして、俺という存在が気がかりになってしまう。


 そうして考えたこと。本来なら俺も悪魔祓いとして覚醒するはずだっただろう性質を、今のうちに封印をして、そうして俺には普遍的な日常を送ってもらうというプラン。


 父と朱音は、そうして俺の悪魔祓いという性質を封印する。それだけならよかったのかもしれないが、父はそれで悪魔祓いという概念を思い出すことを危惧した。


 ──だから、俺の記憶も封印されることになった。


 単純な結論だ。これからこの家に帰ることもないだろう、と父は悟っていたからこそ、俺の記憶を封印することに対しては抵抗がなかった。その本質を知ることもなく、そうして容易く父は、朱音は、俺の人格を殺したのだった。


『──さようなら、ごめんね』


 朱音は、俺に別れを告げて、そうして俺を殺した。


 俺を殺したのだ。俺を殺したのだ。実の父と姉に、俺は殺されたのだ。


 ──そして生まれたのが、今の在原 環なのだ。


 記憶がないからこそ不安定。おぼつかない記憶しか持たないからこそ、人格も不安定。悪魔祓いという性質を封印されたことは関係ない。人として、アイツは不安定でしかないのだ。


 ──それでも、アイツは俺よりも生きている。


 在原 環とは誰なのか。


 ──結局は、あいつなのだ。あいつ自身でしかないのだ。あいつは灰色の対極であると自称したが、それ以上にあいつは在原 環なのだ。


 ──そんなことにアイツが悩んでいるのが、苛立ちを生じさせて仕方がなかった。


 本当の俺は殺されている。だからこそ、今のアイツが在原 環ということが許せなくてしようがない。


 なんとしてでも俺を受け容れさせる。そうして、俺は”対極”として顕現した。


 俺はアイツの裏の感情だ。だからこそ、対極なのだ。そして、俺はアイツだからこそ、受容しなければいけないのだ。


 ──ああ、これで終わることができる。


 在原 環。


 ──お前は、お前だ。


 だから、片隅に受容したこの劣等の存在を、どうか忘れないでいてくれないか。


 それだけが、俺の願いだから。




◇◆◇◆◇




◇◆◇




◇◆








 がんがんと、頭に五月蠅い声が響いてくる。物理的に作用する音。どこまでも音が、──声が響いて仕方がない。


「──、───!!」


 誰かが声をかけてくる。それに反応しなければいけない。だが、声を、言葉を、認識することに時間がかかる。


「───!」


 反応、しなければいけない。


「……うる、さいよ」


 唯一吐きだせた言葉、それをきっかけとして、ようやく状況が、音が理解できてくる。


「うるせぇ!!大丈夫かって聞いてんだよ!」


 ──ガサツな朱音の声が、空間に響いていた。





「対極、受け容れることができたんだな」


「……受け容れることができたのかは、正直よくわからないけれど」


 記憶がおぼつかないから、正直よくわからない。これは記憶が封印されているというわけでもなく、単純に大量に失血をしたから抜けた記憶、と言った方が正しいのかもしれない。雪冬と戦った後の感覚に近いから、きっとそうなのだろう。


「まあ、受け容れたんだろう。その髪色を見たら、なんとなくわかるさ」


「……髪色?」


 そう思って髪を見てみたいけれど、手直に鏡はない。自身の頭髪について把握したいが、どうすればいいだろうか。 


 プツッ。


「痛ェ!」


 髪を抜かれる感覚、そうして朱音の方を見れば、細い糸のように持つ頭髪が目に見える。


「……白髪?」


「うーん、どっちかっていうと煤色じゃね?」


 朱音は苦笑する。


 全体で見れば煤みたいな灰色なんだろうけれど、単体で見てしまえば白髪にしか見えない。


 でも、朱音がそれを見て対極を受け容れた、と僕に伝えてくれるのなら、それが真実なのだろう。


 ──心に、確かに埋まっていなかった片隅の感情があることを確認する。


 本当の自分のはずだった彼は、僕を受容したのだ。どうしようもない僕を受容したのだ。


『だから、片隅に受容したこの劣等の存在を、どうか忘れないでいてくれないか』


 ──忘れない。絶対に忘れない。きっと、忘れてはいけないのだ。


 最後まで僕は対極を、……彼を受容できなかったけれど、彼は彼で僕を受容していたのだから、それに報いるために生きていかなければいけない。


 僕は、──俺として。それが、灰色の対極の選択だ。


「──それでな、環。ここからは大事な話をしたいんだが……」


 そうして、朱音は言葉を紡ぐ。


 俺は、そうして朱音の言葉を受容した。





 記憶とは人格だ。記憶が消えれば、人格も変わる。それを身をもって俺は知っている。それによって死んだ人格を死んでいるからこそ──。


「本当にいいのか?」


 朱音は俺に言葉を紡ぐ。


「……やるしか、ないんだろ?」


 朱音は悪魔祓いの事情を語った。その事情に、俺は頷いた。


「……ごめんな」


 彼女は申し訳なさそうに謝罪を紡いだ。


 仕方のないことなのだ。きっと。


 俺は、それを受容した。





 世界は空虚でできている。感情を揺さぶる何かでできていない。世界はどこまでもモノクロで、どこまでも退屈でしようがないものだと私は思うのだ。


 心を揺さぶる何かは存在しない。感情にあふれる出来事も何も存在しない。同年代であれば、きっと恋をして、彩にあふれた世界を謳歌するのだろう。それが私にとっては非現実的でしかなく、夢のような世界だとそう思った。


 そんな私にも秘密はある。実はそんなことを非現実的に思うのは馬鹿らしいほどに、私は非現実の世界に生きている。


 私は魔法使いなのだ。しがない魔法使い。炎の魔法をよく使う。それ以外にも魔法は使うけれど、父にそれ以外はあまり使うな、って言われているから特には使わない。私を魔法使いであると証明する紋章が、炎だからだろう。


 ……でも、別にどうでもいい。魔法使いならば世界を目指せ、とそんなことを父親に言及されるけれど、世界を目指してどうなるものか。結局は、ただの暇つぶし。どこまでも退屈な時間を生きて生きるだけ。


 私にも、恋心などがあれば世界は彩にあふれるのだろうか。でも、体験のないものについては憶測も及ばないから仕方がない。


 恋に恋する……、いや、恋に恋さえできていない存在が私。


 モノクロの灰色みたいに生きているのが私なのだ。





「最近テンション低くない?」


 魔法教室で魔法を練習していると、立花先生は少しばかり眉間にしわを寄せながら、私に声をかけてくる。


「ほら、魔法ってテンション上げて使わないとつまらないよ?ほら、『アルティメットファイヤー!』とか叫びながら、魔法を使ってみようか。絶対に楽しいから」


「……やりませんからね」


 そんなことをするのが楽しいのは立花先生だけだろう。立花先生はよくゲームというものをやっているらしい。私は父にそういった遊びを禁じられているから、よくわからない。


 そして立花先生は私に対して「最近、テンション低くない?」と呟いたけれど、私のテンションなんていつも変わらないだろうに。


 魔法教室ではいつもこんな感じだ。


 人に絡んでくる立花先生、真面目にいつも練習をする雪冬くん、なんか少し関わりたくない雰囲気を持つ軽薄な明楽くん。以前までは先輩の人も二人いたけれど、今は大学進学に向けて勉強中らしい。ここ最近で見かけることはなかった。


 ──彼らはどうして魔法を使うのだろう。そして、どうして私は魔法教室に通っているのだろう。その理由を考えると嫌になる。結局は父親の言いなりであることを意識してしまうから、どうしようもないことに気づくのだ。


 魔法を使うのに、私の意志は関係ない。魔法を使うのは、父にそう言われているから。父に従わなければいけないから。


 そんな私と比較をして、魔法教室の人はそれぞれの気持ちで魔法を使っている。


 雪冬くんは、なにか明確な目的を持っているのかもしれない。それこそ、魔法使いの究極の目的である世界に到達することを野望にしているのだろう。それほどに彼は真剣に魔法に向き合っている。


 明楽くんについては、──全く魔法が使えていないというか、そもそも血を出すのが苦手な人だから、なんで魔法教室に来ているのかはわからない。前までは女の先輩によく絡んでいたけれど、最近は先輩も来ないから来てもしようがないのに。そして、私に対して、なにかよからぬ視線を孕ませて見てくるから、やはり彼とは関わりたくない。


 ──それぞれ、やはり明確な目的があるのだ。それならば、あやふやなままで生きている私は、どこか世界に背反しているのだろう。


 だから、私には彩がない。彩を持つことが許されていない。だから、世界はいつまでたっても灰色なのだ。





 予定があって、近所にあるデパートに赴く。予定といっても大したものではない。単純にデパート内にある本屋に行き、好みの文庫本や、高校生の学習で必要な参考書を買うだけ。


 以前、先輩が大学に行くのならば今の段階で準備をしておいた方がいい、とアドバイスをくれたのだから、なんとなくそれに従っている。……父には進学したい、とは伝えていないから、もしかしたらそれは叶わないものかもしれない。でも、別にそれでいい、というかどうでもいい。結局、進学してもやりたいことなどないのだから。


 夕焼けに彩られる帰り道。デパートにはそこそこに人がまばらにいたのに、帰り道の交差点になると、途端に人が消えうせたように静かになる。足音は私が鳴らす靴音一つだけ。歩行者信号は赤信号、ここの信号はいつも待ち時間が長くて面倒だ。


「──やあ」


 ──後方から、声が聞こえる。


 先ほど認識した通り、そこには人がいないはずだ。そんな状況で声が聞こえるということは、私に声をかけているのだろう。


 私は、そうして振り返る。


 ──どこか非現実的な髪の色。白と見まがうような灰色。煤みたいな色。そんな人間がいるのは、どこか奇妙だ。


 ……声をかけてきたのだから、私の見知っている人間だと思ったけれど、そこにいる彼はどこまでも見知らぬ他人でしかなかった。


「……ナンパですか?」


 私がそう言うと、彼は灰色の髪をくるくるといじりながら、どうなんだろう、と返した。


 ……彼でさえ行動についてを把握していないのなら、私がそれ以上に何かできるということはないだろうに。


「なんとなく、話しかけたくなった……、みたいな?」


「……なんで疑問形なんですか」


 苦笑してしまう。そのやりとりの意味の分からなさに。


 ──でも、そのやりとりにどこか懐かしさを覚えるのはなぜなのだろう。なんで郷愁的なものを彼に感じずにはいられないのだろう。


 ──どうして、心が潰れそうな感傷に浸ってしまいそうになるのだろう。


 ──私は、気づかぬ間に目から雫がこぼれていたことに、今さら気が付いた。


「……私たち、会ったこととかってありましたっけ」


 本能のままに気になって、彼にそう聞いてみた。


 いつもの私ならしないこと。人に対して興味は抱いても、行動することにはつながらない。普段の私からすれば、こうして人と会話を紡ごうとすることもないだろうに。


「……どうだろう」


 彼は困ったように笑った。


「人の性格っていうのはさ、記憶から形成されるものなんだ。俺が君に対して作用していたのなら、それはきっと事実なんだ」


 ──よく、わからない。それは答えになっていない。卵が先か鶏が先か、みたいな話じゃないか。


 彼には説明する気がないような雰囲気を感じる。どこか立花先生みたいだ。どこか懐かしい感覚が拭えなくて仕方がない。


「……ま、君が元から君だったというのなら、俺とは会ったことがないんだろうね」


 裏腹がありそうに、彼はそう答える。少しばかり尊大な態度を彼はわざと振舞っているようで違和感がある。


 ──違和感とは、元の状態を知っていなければ覚えないはずなのに。


 どうしてそんなことを思うのか、私にはわからない。


「……それなら、私とは会ったことがないんですね」


「──……ああ、そうなんだろうね」


 彼は笑う。仕方がない、という諦観を孕ませた視線を泳がせながら。


 ──そんな目をするくらいなら、吐き出した方が楽になるだろうに。彼はまた抱え込むのだ。


 ……”また”?


「悲しそうな顔をしてどうしたのさ」


 思考がちらつく。そのちらつきを集中するように彼の顔を覗いてみる。


「……あなたに言われたくないです」


 ──今にも泣きだしてしまいそうな、寂しそうな顔をしているのは、そっちの方じゃないか。私以上にそんな顔をしているのだ。私からこれ以上は言葉を紡げない。


「……大丈夫。大丈夫だよ。きっと大丈夫」


 私に言い聞かせるように、彼自身にも言い聞かせるように。でも、絶対的な肯定を彼はせず、逃げ場を生み出す優しさを感じる。彼は、そうして言葉を紡いだ。


「世界は、何色だと思う?」


「……唐突ですね」


 彼の言葉を咀嚼する。私から言葉を紡ぐことができなくても、彼から問われたのなら答えなければならない。


「──灰色ですよ。世界も、……私も」


 世界はどこまでも空虚なのだ。幼い頃からそうだったのだから、空虚であるなら灰色こそが世界にはふさわしい。


 私には私がない。世界には世界がない。だから灰色でしかない。


 白は明るい色だ。黒は暗い色だ。でも、そのどちらにも個性はある。白とも黒ともつく世界なら、きっとそこに色彩はあるのだろう。モノクロであっても、それは空虚ではないのだ。


 空虚ならば、どこまでも何色にも属さない灰色だ。


 灰色だけが、心にある。私も、世界も、すべて灰色だ。


「……僕は君を赤色だと思っていたよ」


「……そんな明るそうに見えますかね」


「うん。君は赤色なんだ」


 赤色なんて、私からはとても遠い色だろう。彩にあふれた名前を父は私に付けてくれたけれど、その名前に見合うほどに、私には色彩はない。青でも、赤でもない。心情に彩は溢れない。


「君は赤色だ。どこまでも人を包むような、そんな燈のような赤色。人の温もりを感じられるような赤色だよ」


「……無理ですよ」


 私は彼の言葉にそう返した。


「私、人が好きじゃないんです。人と関わることが嫌いです。だから、そんな彩にあふれた色は、私には似合いません」


「……そうかな?」


「そうですよ」


「そっか」、と彼は私の声を聞いて笑った。きっと、笑うしかなかったんだと思う。


 赤の他人にこんな話をされても、結局は戸惑うだけだ。彼から始まった会話だけれども、その責任の所在は私にあるような気がする。こんな話をされて、どう反応するべきなのか、正解などわからない。


「信号、青だよ」


 彼はそうして私から視線を逸らした。会話の終わりが来たのだと、そう知らせるように。


「…………」


 何か、言葉を紡ぐべきだ。彼に対して、きちんと向き合わなければいけない。彼との接点をこれ以上失くしたら、私はどうすればいいのだろう。


 ──でも、声は紡げなかった。


 私は後ろを振り返って、信号を視界に入れる。


 この信号を渡らなければ、きっとまた長い時間待ちぼうけになる。そうすれば、彼と会話は紡げるかもしれない。


 そうして、渡らずに赤信号。ここで振り向けば──。


 ──だけど、そこに彼はいない。


 感じたことはないはずの悲しみが、おかえりなさい、と私に声をかけた。


 それ以上に声は返ってこない。


 もう、声は、返ってこない。

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