☆戦略的撤退☆
「ぐっどもーにんぐえぶりわん」
唯華の家のインターホンを押すと、玄関から唯華がどわっと登場した。
おぼつかない英語とともに。
もはや日本語だ。
そんな彼女はやぁやぁと手をあげる。
「私しかいないけれど」
イントネーションが日本語だし、私しか目の前にはいないのにエブリワンはおかしいし、インターホンを押してから出てくるのが早すぎるし。
突っ込みどころがありすぎて、どこから突っ込もうか迷った。
迷って上に突っ込むことを放棄する。
「うん、知ってるよ」
そう言いながら唯華はつかつかと歩き出す。
私は置いてかれないように着いていく。
今日の私はとあることを試そうと思っている。
昨日の一人反省会の時に出した結論が正解か否かを確かめたいのだ。
さっさとしてしまえば良いのだけれど、踏ん切りがつかない。
なんの変哲もないことであれば、こんなに思い悩んで、なんども足踏みをしたりしない。
私の確かめたいこと。
それは「唯華はキスを求めているのではないだろうか」というものである。
あれやこれやと考えて、その結論に至った。
私に都合が良い考え方だなぁと思うけれど、今の私にはこれしか思いつかなかった。
なにはともあれそういうわけであって、キスをしたいと言い出して、拒絶されたらどうしようとか、嫌われたらどうしようとか、軽蔑の眼差しを向けられたらどうしようとか、そんなネガティブなことばかり考えてしまう。
一度そんな思考に陥ってしまうと、ただでさえちっぽけだった勇気はさらに委縮して、膨らんでいた恐怖はより一層大きくなる。
「唯華」
「はいはーい」
信号で止まったタイミングで声をかける。
唯華の瞳を見る。
見つめる。
さぁ、言ってしまえ。
やってしまえ。
行け、押せ、殴りこめ。
私の心の中に居る応援団はそう叫ぶが、体は動かない。
頭と体が一致しない。
なんだか自分の体と脳みそと心がそれぞれ乖離しているような気分だ。
「キ……」
「キ?」
「キ……」
キスしよう。
その一言だけなのに後が続かない。
「き、気付いたら青になってるよ」
「あ、ほんとじゃん。青信号」
「はぁ……」
横断歩道を渡る唯華を見ながら小さなため息を吐く。
臆病な私に嫌気がさす。
誤魔化し方が下手くそ過ぎて二重で嫌気がさす。
けれど、嫌われたくないという気持ちはどうしても無視できない。
当たって砕けろとか良く言うけれど、砕けたらその時点で終わってしまう。
どれだけ親密な関係でも、人間関係というものは簡単に縺れて解けなくなって壊れてしまうし、一度壊れてしまえば元通りに修復することはない。
一本の糸が切れたら、二度と一本の糸に戻ることはないのだ。
結べば繋がりはするけれど、結び目が残ってしまう。
人間関係とはそういうものであると私は考えている。
考えているからこそ、一歩踏み出す勇気が出てこない。
ワガママかもしれないけれど、関係は壊したくないのだ。
「雛乃、なにか言おうとしてた?」
横断歩道を渡りきると歩きながら唯華はこてんと首を捻る。
なぜこういう時だけ妙に勘が鋭くなるのか。
いつもは適当な人間な癖に。
「気のせいだよ」
「気のせい? 本当?」
「本当だって」
「ふーん」
怪訝そうに見つめてくる。タタっと走って、くるっと体をこちらに向けて、少し屈むような姿勢になってから目を細める。
「こんなので嘘吐く意味ないでしょ」
「それもそっか」
「そうだよ」
うんうんんと頷く。
「それにしても清々しい朝だねぇ」
唯華はぐぐぐと背を伸ばす。
呑気なことを言っている。
私の内心なんて唯華は知る由もないという感じだ。まぁ、知られていたらそれはそれで怖いんだけれど。
「長年の悩みがすっと晴れたような感じだよ」
「そんな気持ち良いの? 言うほど天気は良くないし、吹く風も心地良いとは言い難いと思うけれど」
空は八割くらい雲がかかっているし、吹いてくる風は生温い。これぞ五月の風という感じだ。夏に片足突っ込んでいるのだけれど、春もまだここにいるよと激しく主張してくる感じ。
「ここの問題だよ」
唯華はぽんぽんと胸を叩く。
ぽんぽんと叩くたびに胸はぼよんぼよんと揺れる。
私への当てつけだろうか。
そんな贅肉を揺らしてなにがしたいのか。
なんだか腹が立ってきた。
「ふーん」
「え、なんで急に素っ気なくなったの」
「知らない」
「ん?」
「知らない」
「あ……」
唯華は口角をゆっくりと上げる。
そして私の胸をじーっと見つめる。
なんか言葉にし難い嫌な視線を浴びる。
多分馬鹿にされているのだろう。
コイツの胸小さいなぁとか思われているのだ。
気にしてんのに。
そんな目しないで欲しい。
胸が大きいだけなのに、優位に立ったつもりになっちゃって……。
「えっち」
私は無い胸を隠す。
なにをしているのだろうか。キスをして良いかとか聞く雰囲気ではなくなってしまった。
まぁ、朝からそういうことを聞くのもなんか違うし。
お昼休み……は人の目が多いから、放課後に再チャレンジしよう。
そう決意した。
決して逃げているわけではない。そう、逃げてはいない。戦略的撤退である。
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