☆一人になって☆

 橙色に染まる空の下。

 カラスの鳴き声がやけに大きく聞こえる。

 生温い風が吹く中、「バイバイ」という声を背に私は唯華と別れる。


 数歩進み、家に入り、自室に向かう。

 扉を閉めてすぅうはぁあ、と一呼吸する。

 吸って吐いて、落ち着きを確認してから、唇を撫でるように触る。


 濃厚なキスを思い出す。

 あの感覚を忘れることはできない。

 感触も心の疼きも。

 これという味はしなかったのに、甘さだけは感じられて、頭も口も腰も蕩けそうになるあの感覚も。

 全部忘れることはできない。

 余韻として今もこうやって、私の心の中に留まり続け、唇と脳みそはキスを求め始める。

 これじゃあまるで、キスという名の悪魔に魅了されてしまったみたいだ。

 キスの虜になってしまったみたいだ。

 虜になったなんて認めたくない。

 なんだかキスが大好きってビッチみたいだし。

 けれど認めざるを得ないくらいに考えてしまう。

 脳内にこびり付いて剥がれない。


 ファーストキスでは十何年間と生きてきて、今までに味わったことの無い感覚が大量に流れ込んできた。

 私にとってはとてつもないほどに衝撃的な瞬間であり、だからこそこうやってすぐにもう一度求めてしまう。


 これを中毒と言わずしてなんと言うか。


 それほどに唇を重ねるだけの行為に魅了されている。

 言葉にするとそれだけなのにとんでもなく気持ちの良い行為だと脳みそは認識しているのだ。


 キスを欲する。

 でも、相手は誰でも良いのかと言われるとそうでもない。


 見知らぬ男とキスする場面を想像してみよう。


 うん、うーん……うーーん。


 この高揚感と幸福感は得られる気がしない。

 唯華が相手だったからこうやって感情がヒートアップしているのか、それともキスという行為そのものに感情がヒートアップしているのか。


 経験が唯華だけなので、正解はわからない。

 どっちであったとしても人様に言えるようなことではないので、心の中に秘めておかなければならない。

 もちろん唯華にだって言ってはならないし、なんなら悟られることすら許されないだろう。


 前者であれ、後者であれ、唯華に悟られてしまえば、この十何年間という長い年月をかけて積み上げてきたものは崩れてしまう。

 一瞬で崩壊することになるだろう。

 絶対にそうだなんてことはないのだけれど、そんな気がした。

 それこそ十何年と付き合ってきているわけであって、そのくらいのことは感覚で理解できる。

 こればっかりは理論じゃない。感覚だ。

 そしてその壊れてしまったものは二度と戻らない。

 戻そうと破片を掻き集めて、ペタペタと貼り付けて、積み上げて、元に戻そうとしてもそっくりそのまま元の形になりましたーってことにはならない。

 表面上は元に戻ったという形になるかもしれないけれど、実際は歪んで、淀んで、くすむ。


 まぁ、要するにそう簡単な話ではないんですよってことだ。


 我ながら冗長な思考を端的かつ単純に纏めたなぁと感心する。

 なにはともあれ、私はこの気持ちに気付いてはならないし、見て見ぬふりをして、出てきそうになれば心の奥深くに押し込めて二度と顔を出さないようにしなければならない。

 義務と言ったって良い。


 この関係を壊さないように、崩さないようにするために。


 「でもやっぱり良かったなぁ」


 ベッドから枕を攫うように手に取って、顔を埋める。

 こうふとした瞬間に私は唇を求める。

 あの柔らかくて、甘くて、気持ちの良い、そういう感覚を求める。

 唇を求めるだとなんだかお淑やかなイメージを与えるかもしれないなぁ。

 少なくとも私の心の中に渦巻くのはそんな綺麗なものではない。

 綺麗なものということにしておきたい気持ちはあるのだけれど。

 唇よりも舌を求めている。

 舌と舌を絡ませ合うあの高揚感を求めているのかもしれない。

 うん、多分そうだね。

 この気持ち悪さの方が自分の中でしっくりくる。


 重症だ。


 私は枕に顔を擦りつけて、声にならない声で発狂紛いのことをしながら、足をパタパタと動かした。

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