第84話 問い
「どうして、私を助けてくださったのか……聞いてもいいですか?」
目を閉じ、思い出す。
あの日――わたしに毒を盛ったフィナンを助けた、理由。
じわりと胸に広がるのは、強い孤独感。
周りが一面の闇で、どこか粘性のある空気の中でもがくように何かへと手を伸ばしていた――そんな抵抗感がよみがえる。
わたしは、誰かを求めていた。気を許せる人を、伏魔殿というべき王城で背中を預けるに足る誰かを。
――その可能性を、自分に毒を盛った人物に見出した当時のわたしはきっと、自分で思う以上に追い詰められていたのだと思う。
「味方が欲しかったからよ。王城で気心を許せる相手を手に入れるには、恩を着せるのが確実だと思った」
口ではいくらでも言える。思ってもいないことだって、言葉にできる。
恩を着せる――果たして、そんな打算的な思いがあったかどうか。
正直こうして思い出すと、当時のわたしはそれはもう慌てふためいていた。
毒についてではない。突然やってきたアヴァロン王子殿下の存在だとか、フィナンが土下座をしたこととか、抱き上げられて運ばれたこととか……胸をざわつかせるこの思いは、なつかしさ、なのだろうか。
「……フィナンが都合よく利用されるのをわかっていて放置したのだから、幻滅してくれていいわよ」
――少しだけ、ほんの少しだけ、責めてほしかった。罰してほしかった。
こうして今、フィナンを危険に巻き込むことになってしまっている、そんなひどい自分からフィナンが離れていかないように。
わだかまる思いを一度吐き出すことで、留まってくれるという、確信が欲しかった。
「そうではなく……知って、いたんですか?」
まっすぐな目が、わたしを射抜く。わずかな怯えを宿しながらも、濁ることのない瞳。
無垢さを残したその目から、無性に目を背けたくて、けれどうれしさもあった。
それはきっと、フィナンは幻滅なんてしないと、きっとわたしが望めばずっとそばにいてくれるだろうと、そんな確信を得たから。
わたしを罰せず、罪を問わず、何より、わたしを悪と見定めていない目。
わたしを、自分を助けてくれた英雄のように見えるその目は、やっぱり少し、居心地の悪さを感じさせた。
「……毒のことなら、もちろん、と言っておくわ。使用人たちがぽっと出のわたしにいい感情を抱いていないことはわかっていたし、いたずらがエスカレートしていたもの。そのうちにわたしに痛い目を見せようと何かしでかすことはわかっていたわ」
忙しい妃教育。貧乏男爵家の娘で、しかも王子殿下には放っておかれる。
ひどくおぼつかない足元を気にして、周りを気にして、だから、あの頃のわたしに周りを支配する余裕なんてなかった。
その転機が、契機が、あるいは末路が、フィナンの一件だった。
「そのうえで、おそらくは立場が一番低くて、下っ端として扱われているフィナンに手を汚させるだろうこともね」
当時の使用人たちの当たりは、それはもうひどいものだった。
突如アヴァロン王子殿下の妃に選ばれた、木っ端男爵令嬢に仕えることになったのだ。
自分の方がとか、どうしてこんな小者の世話をしなければいけないのかとか、いろいろなものを胸の内に溜めて行ったのだろう。
日に日に視線は厳しくなり、物が消えるようないたずらも増えた。
ベッドが濡らされていたり、湯あみの際にご丁寧に氷水を駆けられたり、足を踏まれたり、まあいろいろとあった。
彼女たちの嫌がらせがヒートアップしていったのは、ひとえにわたしが少しもへこたれなかったため。
苦しんでいる姿を、見せなかったため。
正直、魔物との戦闘に比べれば、彼女たちの悪意はそよ風みたいなものだった。
体のダメージになるものは限りなくゼロに近くて、だから肉体的な影響は少なくて。
ただし、心には来ていた。
いくらそよ風に等しくても、朝から晩まで、寝ている間も警戒が必要になると精神は摩耗する。
当時は妃教育も受けていたわけだから、正直わたしも手一杯なところがあった。
――なんて、フィナンの人生が終わりかけた言い訳になりはしないのだけれど。
「だから、謝るべきはわたしの方なの。フィナンが使われるとわかっていて、そのことを利用して、フィナンにわたし側についてもらうように画策したの」
「いいえ、奥様が謝るべきではありません」
静かにかぶりを振り、口元を緩める。
慈愛の笑み。慈悲深い、聖女を思わせる微笑みに目が奪われた。
充血した瞳、涙のあとを残す頬。
それはまるで、自らを救って死んでいった英雄たちに手向けを送るように。
フィナンは、ささやくように、吹き抜ける風に言葉を乗せる。
「だって、奥様はただ、予感していただけですよね。もしかしたらもっと直接的な被害を加えられるかもしれない、毒物を使われるかもしれない、私が実行犯に選ばれるかもしれない。そういう可能性を考えられただけで、でも、当時の奥様では、犯行を止めるのが難しかったというのもわかるんです」
違う。そんなことはない。
方法なんていくらでもあったのだ。
例えば少し無理を言って殿下に協力を仰ぐだとか。わたしが譲歩していれば、情報を共有していれば、あっさりとすべてが良い方向に進んだだろう。
ただ、そこに今のような時間はなかった。
フィナンとわたし、二人で自由に過ごせる日々はきっとなかった。
魔法を使うことなんてできなかった。王城を抜け出すなんて不可能だった。フィナンを危険にさらすこともなかった。
――そして、アヴァロン王子殿下の屑さを突き付けられることも、こんなに苦しむことも、なかったはず。
「みんな、やりたい放題で、奥様が反発していれば、もっと過激な手段に出ることだって考えられたんですから」
否定は、しない。できるはずもない。
行きつくところまで行きかけていた使用人たちが死ぬこともない麻痺毒の使用程度でとどまったのは、むしろ安堵すべきところだった。
事態は大事にならず、わたしの精霊に見放された土地での「休暇」も変わらず、フィナンに罪悪感を抱かせることに成功した。
凄腕の暗殺者が送り込まれたり、致死性の毒でフィナンかわたしが死んでいたり、処刑されたり――そうした可能性だって十分に考えられたのだから。
ただ、口にしはしない。
今この状況で、あの時わたしが余計な行動をしていればフィナン自身が死んでいたかもしれない、なんて今の彼女に聞かせるべきではない。
何より、わたしの心が、その言葉を紡ぐことを受け入れられなかった。
それでも。
彼女の決意に、苦悩に満ちた瞳が、わたしに予感させる。
フィナンは、そうした可能性に、わたしの考えに、気づいているかもしれないと。
わたしがフィナンの死を想像して、どれだけ苦しい思いをしているのか――。
「……あの時も、そして今日も、私は奥様に助けられました。たとえそこに一抹の政治的思考があったとしても、私は確かに、奥様に命を救われました」
だから、と。
まっすぐにフィナンは問う。
わたしの逃げ道はもう、残っていなかった。
「だから、お聞きしたいんです。――今日私を助けたのは、なぜですか?」
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