第83話 抱擁
細く、今にも折れてしまいそうに感じる腕。日々の仕事で筋肉がついているはずなのに儚さを感じるのはきっと、まるで氷のように冷え切っているから。
何より、引っ張られるままにわたしの後をついてくるから。
精霊の宿り木が多く存在する通りに出たところで、そっと手を離せば、不安に声を上げるようにフィナンから手をつなぎ返してきた。
わたしたちの立場を意識してのことか、袖先を軽くつまむように握ったいじらしさに心動かされ、勢いのままに抱きしめる。
その体はやっぱり、今もまだ震えていた。
寒気が吹き抜けていく中、本当に少しずつフィナンの体は温まり、触れている部分に熱が感じられるようになっていった。
それはきっと、恐怖に凍り付いていた心がほぐれた合図。
「フィナン、落ち着いた?」
そっと、腕の中のフィナンの顔を覗き込む。
その拍子に体の距離が少し離れてしまって、嫌々、と駄々をこねるようにフィナンが顔をこすりつけてくる。
服にしみこむ暖かな涙。気づけば体を震わせ、フィナンは声を押し殺して泣いていた。
「大丈夫。もう、大丈夫」
片手をそっと背中に回し、ゆっくりと、あやすように背中をなでる。
反対の手はフィナンの艶めく髪に触れ、毛先へと指を滑らせた。
どれくらいそうしていただろうか。すんすん、と鼻を鳴らしたフィナンがゆっくりと腕の中で身じろぎした。
「また、子ども扱いされました…………」
そっと伺えば、ぼそぼそとつぶやくフィナンの顔は赤い。
そこにはもう恐怖におびえる色はなくて、ほっと胸をなでおろした。
巻き込まれたのはわたしも一緒だけれど、フィナンがこの殺伐とした一連の騒動で心を壊さないか、それだけが心配だった。
生き死にのかかった戦いを繰り返してきたわたしだって、人との命のやり取り、何より、魔物のそれよりも研ぎ澄まされた殺意と悪意の気配にお腹の下あたりが重かったのだ。フィナンの負担にならないわけがない。
トラウマにならなければいい。そう思いながら、ぽんぽん、と軽くフィナンの頭をなでる。
そうすれば唇を尖らせ、その様子はやっぱり子どもっぽくて思わず笑ってしまった。
「子どものように震えていたものね」
「言わないでくださいよ。あと、震えていないです」
嘘つき。でも、別に虚勢でもいい。口にできるくらいには大丈夫な証だと、そう思っておこう。
何より、さっきみたいな可愛いフィナンはわたしだけば知っていればいいのだから。
「……まあ、泣いていたものね」
「泣いてないですよぉ」
先ほどまで嗚咽していたのに何を言っているのか。
今だって鼻をすすり、目元は赤くなっているのだからあきらめればいいのに。
そんな風に虚栄を張るところだって子どもっぽい。
「……まあ、落ち着いたみたいでよかったわ」
離れようとすれば、やっぱり嫌だと、今度はフィナンから抱き着いてくる。
ふわりと香るコロン。柔らかな肢体が首に絡みつく。
覗き込むようにわたしを見てくるフィナンは、どこかためらいがちに口を開き、唇をかみしめる。
迷い、惑い、けれど聞かずにはいられないと、わずかな怯えを含んだ眼がわたしの奥底を射抜く。
「奥様は……平気、なんですね」
瞬間、瞼の裏に一瞬の命のやり取りが呼び覚まされる。
現れた黒ずくめの敵。突然の戦闘。逃げるように声を張り上げた、喉の痛み。フィナンに投げられたナイフ。
じわりと胸に広がる痛みは、平気なんて言葉ではとても隠し切れないもので。
けれど今この時、フィナンの心を守るために、あるいはフィナンに強い自分を見せていたいという虚栄心のせいか、わたしの口は思いとは裏腹な言葉を放っていた。
「命のやり取りには慣れているもの。魔物相手にひるんでいたらあっという間に腹の中よ」
「それは……そうかもしれませんけれど」
ごにょごにょとつぶやくフィナン。
目元に光る涙をぬぐおうとすれば、されるがまま受け入れる。
うにうにと、指の腹が目じりから頬にかけて、肌に沈む。やわらかい肌。なんだか感触が気持ちよくてしばらくもみ続ければ、ジト目が突き刺さる。
「……なんだか、フィナンとはいつもこんな感じな気がするわね」
揶揄って楽しむところとか、なんだかんだ言い合いをしながら気持ちは悪くないこととか、予想外の事態に巻き込まれるところとか。
そもそも、出会いからして予想外だったのだから、そんなものなのかもしれない。
きっと去年の今頃のわたしに、来年は王城に住んでいる、なんて話しても嘘だと疑うどことか、頭がおかしいと考えるだろう。
なんて、もはや遠い過去のように思えるかつての自分、あるいはかつての生活を思い描く中。
「それは、あの日のせいですか?」
まるで静寂こそが美しい水面にためらいながら一石を投じるような静かな声がわたしの体に、心に響いた。
あの日――思い描けば、一つの光景が鮮明に思い描く。
土下座するフィナン。なぜか現れたアヴァロン殿下、倒れるフィナンと一緒くたに抱き上げられて――ってそんなことはどうでもいいのだ。
「そうね、フィナンが毒を――」
「あの時はすみませんでした!」
今にも土下座しそうな勢いのフィナン。
勢いあまって、下げた頭はわたしのみぞおちあたりに突き刺さり、何かが口からあふれそうだった。
「ご、ごめんなさい」と平謝りをするようになったフィナンをなだめながら、過去に思いを馳せる。
何も、変わっていない。それがなんだか、ひどく特別なものを見つけ出したような気持ちにさせる。
宝物のような輝きを放つ、けれどほかの人には石ころに等しいもので、ただ、それを見つけられたことにわたしは心から感動している――何を考えているんだろう、なんて冷静な思考が行先の知れない思索にツッコミを入れる。
「今になって蒸し返すようなつもりは無いから安心して」
「本当に、ですか?」
わたしの言葉にかぶせるように告げるフィナンは、それでも不安なのか視線をさまよわせる。
腕の中で不安がって見せるその姿は、もう幼子にしか見えない。
ためらいがちに伸ばされた手は、けれど今度はわたしに届くことはなくて。
虚空を握りしめた手は、何かをこらえるように震えていた。
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